中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その13/小林秀雄の人生の入口
富永太郎の「遺産分配書」を知らなかった小林秀雄が
「Au Rimbaud」について
「これはランボオではない、寧ろ“Au Parnassien”とすべきだ。」
――などと富永に喋りまくった見舞いの日を回想するのは
「ランボオⅢ」の中でのことですから
1947年(昭和22年)のことです。
1947年に1925年のある日を
回想していることになります。
20余年の歳月が流れているのでした。
小林秀雄の回想は
もう少し続きます。
◇
間もなく彼は死んだが、僕はその時、病院にいて、手術の苦痛以外の事を考えていなかった。
やがて、僕は、いろいろの事を思い知らねばならなかった。
とりわけ自分が人生の入口に立っていた事について。
(「ランボオⅢ」。改行を加えました。編者。)
◇
伊豆大島から帰ったばかりの小林秀雄は
突如、盲腸炎を発症し
そのまま京橋にあった泉橋病院に入院し
手術に臨んでいました。
伊豆大島へのこの旅行は
長谷川泰子との媾曳(こうえい又はあいびき)のはずでしたが
待ち合わせの場所に泰子は現われなかったために
単独行となったものでした。
富永太郎が死の淵にあった頃
小林秀雄は盲腸炎で七転八倒していました。
この頃を回想して
富永太郎の死とともに
盲腸炎の手術を思い出したのと同時に
自分が人生の入口に立っていたことを吐露(とろ)しているのです。
帝大仏文科1年の夏のことでした。
人生の入口にあったとある中に
泰子との暮らしが含まれていることも
間違いないことでしょう。
◇
富永太郎の死から10余年後
中原中也が亡くなったとき
小林は「死んだ中原」という詩を書き
自ら編集責任者であった「文学界」へ載せました。
◇
死んだ中原
君の詩は自分の死に顔が
わかって了った男の詩のようであった
ホラ、ホラ、これが僕の骨
と歌ったことさえあったっけ
僕の見た君の骨は
鉄板の上で赤くなり、ボウボウと音をたてていた
君が見たという君の骨は
立札ほどの高さに白々と、とんがっていたそうな
ほのか乍ら確かに君の屍臭を嗅いではみたが
言うに言われぬ君の額の冷たさに触ってはみたが
とうとう最後の灰の塊りを竹箸の先きで積ってはみたが
この僕に一体何が納得できただろう
夕空に赤茶けた雲が流れ去り
見窄(みすぼ)らしい谷間(たにあ)いに夜気が迫り
ポンポン蒸気が行く様な
君の焼ける音が丘の方から降りて来て
僕は止むなく隠坊(おんぼう)の娘やむく犬どもの
生きているのを確めるような様子であった
ああ、死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉が言えようか
君に取返しのつかぬ事をして了ったあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった
ああ、死んだ中原
例えばあの赤茶けた雲に乗って行け
何んの不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば
(文春文庫「考えるヒント4/「ランボオ・中原中也」より。新かなに変えました。編者。)
◇
死の直前、と言っても
詩人自身は死ぬつもりはなかったはずですが
「在りし日の歌」の清書原稿を
小林秀雄に託したのでした。
「奇怪な三角関係」(小林秀雄)とはいえ
揺るぎのない線が
詩人同士の間に通っていました。
◇
今回はここまで。
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