中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その9>/「Au Rimbaud」
僕は、不服を唱えた。これはランボオではない、寧ろ“Au Parnassien”とすべきだ。
――と小林秀雄が書いたのは
昭和22年(1947年)のことです。
雑誌「展望」に載せた「ランボオの問題」の中でですが
富永太郎も中原中也も
この世にいませんでした。
◇
富永太郎が生存中に小林秀雄は
“Au Rimbaud”の感想を喋ったことを回想したものですが
この感想はこれで終わってはいません。
其他、何や彼や目下の苦衷めいた事を喋った様だが、記憶しない。
僕の方が間違っていた事だけは確かである。
――と続けています。
さらに続くのですが
ここでは自らの感想の間違いを述べていることだけを
取り出しておきます。
“Au Parnassien”はパルナシアンのことですから
それが見当外れであったことを
すぐに気づくことになります。
◇
富永太郎が京都滞在中の1924年
小林秀雄はランボーの「地獄の季節」の衝撃の中にあり
その最後の章「別れ」を筆写して
富永に送りました。
富永太郎と中也とが邂逅(かいこう)した頃のことです。
◇
富永の詩が
みるみるランボーの生気で染色されるのを
小林秀雄は見て取ったのですが
この頃、富永の病体がその為に(ランボーの影響で)
刻々と破滅へ向っていることに気づかなかったことを告白します。
小林もまた
ランボーの熱の中にあったために
自然には見えるものが見えない
特別な状態だったというのです。
パルナシアンという誤読も
この状態の中で生じたという弁明でした。
この状態の中で
富永の病床を訪れた小林秀雄の回想――。
◇
僕は、富永の病床を訪れた。彼は、腹這いになって食事をしていたが、蓬髪を揺すって、こ
ちらを振向いて笑った時、僕はぞっとした。
熱で上気した子供の様な顔と凡そ異様な対照で、眼の周りに、眼鏡でもかけた様な黒い隈
取りが見えた。死相、と僕は咄嗟(とっさ)に思った。
◇
この描写に気を取られているばかりではなりません。
この時の小林は
もう一度、自身の特別な状態を
記しているのです。
◇
だが、この強い印象は一瞬に過ぎ去って了った。
何故だったろう。何故、僕は、死が、殆ど足音を立てて、彼に近寄っているのに、想いを致
さなかったのだろう。
今になって、僕はそれを訝るのである。
(以上の引用は「ランボウⅢ」より。いずれも改行を加えてあります。編者。)
◇
この訪問の時に
富永太郎が小林秀雄に渡したのが
「Au Rimbaud」でした。
◇
今回はここまで。
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