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2018年4月17日 (火)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その9>/「Au Rimbaud」

 




僕は、不服を唱えた。これはランボオではない、寧ろ“Au Parnassien”とすべきだ。

――と小林秀雄が書いたのは

昭和22年(1947年)のことです。

 

雑誌「展望」に載せた「ランボオの問題」の中でですが

富永太郎も中原中也も

この世にいませんでした。

 

 

富永太郎が生存中に小林秀雄は

“Au Rimbaud”の感想を喋ったことを回想したものですが

この感想はこれで終わってはいません。

 

其他、何や彼や目下の苦衷めいた事を喋った様だが、記憶しない。

僕の方が間違っていた事だけは確かである。

――と続けています。

 

さらに続くのですが

ここでは自らの感想の間違いを述べていることだけを

取り出しておきます。



“Au Parnassien”はパルナシアンのことですから

それが見当外れであったことを

すぐに気づくことになります。

 

 

富永太郎が京都滞在中の1924年

小林秀雄はランボーの「地獄の季節」の衝撃の中にあり

その最後の章「別れ」を筆写して

富永に送りました。

 

富永太郎と中也とが邂逅(かいこう)した頃のことです。

 

 

富永の詩が

みるみるランボーの生気で染色されるのを

小林秀雄は見て取ったのですが

この頃、富永の病体がその為に(ランボーの影響で)

刻々と破滅へ向っていることに気づかなかったことを告白します。

 

小林もまた

ランボーの熱の中にあったために

自然には見えるものが見えない

特別な状態だったというのです。



パルナシアンという誤読も

この状態の中で生じたという弁明でした。

 

この状態の中で

富永の病床を訪れた小林秀雄の回想――。

 

 

僕は、富永の病床を訪れた。彼は、腹這いになって食事をしていたが、蓬髪を揺すって、こ

ちらを振向いて笑った時、僕はぞっとした。

 

熱で上気した子供の様な顔と凡そ異様な対照で、眼の周りに、眼鏡でもかけた様な黒い隈

取りが見えた。死相、と僕は咄嗟(とっさ)に思った。

 

 

この描写に気を取られているばかりではなりません。

 

この時の小林は

もう一度、自身の特別な状態を

記しているのです。

 

 

だが、この強い印象は一瞬に過ぎ去って了った。

 

何故だったろう。何故、僕は、死が、殆ど足音を立てて、彼に近寄っているのに、想いを致

さなかったのだろう。

 

今になって、僕はそれを訝るのである。

(以上の引用は「ランボウⅢ」より。いずれも改行を加えてあります。編者。)

 

 

この訪問の時に

富永太郎が小林秀雄に渡したのが

「Au Rimbaud」でした。

 

 

今回はここまで。

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