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2018年4月

2018年4月29日 (日)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その15>/小林秀雄と長谷川泰子の恋愛

 

 

富永太郎の臨終から絶命、

葬儀そしてその後の経過は

富永の2高からの友人、正岡忠三郎がつけていた日記やメモに

詳細に記録されました。

 

大岡昇平の「朝の歌」中の「七」は

正岡が残した記録を引用しての克明な終焉記になっています。

 

正岡は

富永太郎が息を引き取った時にも

富永家にあり

富永の言葉に耳を傾けながら

家族や看護師をサポートしました。

 

 

正岡の記録の克明さとは異なる距離感で書かれた

「新編中原中也全集」の年譜は

中原中也の行動記録ですから

一歩を引いた広角度から

富永太郎の死の前後を記録します。

 

中原中也の交友関係の記録の中に

富永太郎の死は位置づけられます。

 

 

10月8日 小林秀雄、ひとりで伊豆大島に出発(*42)。

 

10月23日 この日付の富永太郎書簡に中也への言及がある。「ダゝさんだけは相変わら

ずずゐぶんちょいちょい来るが、これとてもこの頃では一向有難からぬことになっている」(*43)。

 

このころ、小林秀雄から絶交を言い渡される(*44)。

 

11月4日 このころ富永太郎、小林秀雄と長谷川泰子の恋愛を知る。この日付の小林宛

書簡に、中也との絶交について「当り前のことだ」と記す(*45)。

 

(「新編中原中也全集」別巻(上)より。*42、*43、*44、*45の注釈は省略。)

 

 

正岡忠三郎は、年譜が記す11月4日には、まだ京都にいます。

 

小林秀雄と長谷川泰子の恋愛の進行が

富永太郎に伝わった経緯が

迫りくる富永太郎の死の記録の前に置かれています。

 

中原中也は

小林秀雄と長谷川泰子の恋愛の進行を

知っていません。

 

 

11月6日 正岡忠三郎、前日の富永太郎危篤の電報を受けて上京。富永、自分と正岡の

面会を中也に伝えないよう筆談で正岡に伝える。8日、中也が悪く変わったこと、概念的な

ことばかりいっていることなどを正岡に話す。

 

12日午後1時2分、富永死去。24歳。正岡、冨倉徳次郎、村井康男が看取る。夕方、富

永の死顔の写真を撮影(*46)

 

(この部分、改行を加えました。*46の注釈は省略。編者。)

 

 

中原中也が、富永太郎の死をどのようにして知ったのか

年譜は記していませんが

死の翌13日夕方、富永家を訪れます。

 

 

今回はここまで。

2018年4月25日 (水)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その14/「地獄の季節」の「別れ」

 

 

富永太郎が「酔いどれ船」をフランス語で自分のノートに筆写したものを

中也に読み聞かせしていた丁度そのころ

東京・神田の古本店で

小林秀雄はメルキュール版「地獄の季節」と出会い

衝撃を受けます。

 

その衝撃を伝える相手は

富永太郎のほかにありませんでした。

 

 

小林秀雄が富永太郎に送ったのは

「地獄の季節」最終章「別れ」でした。

 

 

別れ

 

 もう秋か。――それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか、俺達はきよらかな光の発

見に心ざす身ではないのか、――季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。

 

秋だ。俺達の舟は、動かぬ霧の中を、纜(ともづな)を解いて、悲惨の港を目指し、焔と泥

のしみついた空を負う巨きな街を目指して、舳先をまわす。ああ、腐った襤褸(らんる)、雨

にうたれたパン、泥酔よ、俺を磔刑にした幾千の愛欲よ。さてこそ、“遂には審かれねばな

らぬ”幾百万の魂と死屍とを啖ふこの女王蝙蝠(こうもり)の死ぬときはないだろう。

 

皮膚は泥と鼠疫(ペスト)に蝕まれ、蛆虫は一面に頭髪や腋の下を這い、大きい奴は心臓

に這い込み、年も情も弁えぬ、見知らぬ人の直中(ただなか)に、横わる俺の姿が又見え

る、……俺はそうして死んでいたかもしれない、……ああ、むごたらしい事を考える。俺は

悲惨を憎悪する。

 

冬が慰安の季節なら、俺には冬がこわいのだ。

 

(文春文庫「考えるヒント4 ランボオ・中原中也」所収「地獄の季節」より。新かなに変えま

した。傍点は” “で示し、改行を加えてあります。編者。)

 

 

「別れ」は

この3倍強の量の散文詩ですが

小林が送ったのは

このあたりまでの冒頭部分ではなかったでしょうか。

 

富永は

それを大書して自室の壁に掲げていたと

大岡昇平は記しています。

 

それは

京都の下宿でのことだったのでしょうか

はっきり記されていません。

 

 

冬が慰安の季節なら、俺には冬がこわいのだ。

――という詩行が

結核菌に冒される富永太郎を

どれだけ励まし、心の救済になったかを

想像することができます。

 

やがて、彼の詩の衰弱と倦怠とが、ランボオの生気で染色されるのを、僕は見て取った

(以下略)

――と小林が書いたのはこのことでした。

 

 

富永太郎が「酔いどれ船」の原文を筆写し

スラッシュ(/)入りで読んで聞かせたのを

中原中也は目を輝かせて

聞き入っている様子が目に見えるようです。

 

富永太郎が鼻濁音まじりのフランス語で

その「酔いどれ船」を朗読している姿も

彷彿(ほうふつ)としてきますよね。

 

ベルレーヌが描いた

パイプをくわえてポケットに手を突っ込んで歩いている

流竄天使のようなランボーに

富永太郎は似ていると

小林は他のところで書いているのですが(「ランボオⅡ」)

京都の中也が

そのようないでたちの富永太郎に感化されるのも

手に取るように見えるようです。

 

 

「酔いどれ船」を通じた交流が

富永太郎と中原中也の間で頂点に達している頃に

文学との訣別を告げる「地獄の季節」を

小林秀雄は富永太郎に送ったのでした。

 

 

今回はここまで。

2018年4月23日 (月)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その13/小林秀雄の人生の入口

 

 

富永太郎の「遺産分配書」を知らなかった小林秀雄が

「Au Rimbaud」について

「これはランボオではない、寧ろ“Au Parnassien”とすべきだ。」

――などと富永に喋りまくった見舞いの日を回想するのは

「ランボオⅢ」の中でのことですから

1947年(昭和22年)のことです。

 

1947年に1925年のある日を

回想していることになります。

 

20余年の歳月が流れているのでした。

 

小林秀雄の回想は

もう少し続きます。

 

 

間もなく彼は死んだが、僕はその時、病院にいて、手術の苦痛以外の事を考えていなかった。

 

やがて、僕は、いろいろの事を思い知らねばならなかった。

 

とりわけ自分が人生の入口に立っていた事について。

 

(「ランボオⅢ」。改行を加えました。編者。)

 

 

伊豆大島から帰ったばかりの小林秀雄は

突如、盲腸炎を発症し

そのまま京橋にあった泉橋病院に入院し

手術に臨んでいました。

 

伊豆大島へのこの旅行は

長谷川泰子との媾曳(こうえい又はあいびき)のはずでしたが

待ち合わせの場所に泰子は現われなかったために

単独行となったものでした。

 

富永太郎が死の淵にあった頃

小林秀雄は盲腸炎で七転八倒していました。

 

この頃を回想して

富永太郎の死とともに

盲腸炎の手術を思い出したのと同時に

自分が人生の入口に立っていたことを吐露(とろ)しているのです。

 

帝大仏文科1年の夏のことでした。

 

人生の入口にあったとある中に

泰子との暮らしが含まれていることも

間違いないことでしょう。

 

 

富永太郎の死から10余年後

中原中也が亡くなったとき

小林は「死んだ中原」という詩を書き

自ら編集責任者であった「文学界」へ載せました。

 

 

死んだ中原

 

君の詩は自分の死に顔が

わかって了った男の詩のようであった

ホラ、ホラ、これが僕の骨

と歌ったことさえあったっけ

 

僕の見た君の骨は

鉄板の上で赤くなり、ボウボウと音をたてていた

君が見たという君の骨は

立札ほどの高さに白々と、とんがっていたそうな

 

ほのか乍ら確かに君の屍臭を嗅いではみたが

言うに言われぬ君の額の冷たさに触ってはみたが

とうとう最後の灰の塊りを竹箸の先きで積ってはみたが

この僕に一体何が納得できただろう

 

夕空に赤茶けた雲が流れ去り

見窄(みすぼ)らしい谷間(たにあ)いに夜気が迫り

ポンポン蒸気が行く様な

君の焼ける音が丘の方から降りて来て

僕は止むなく隠坊(おんぼう)の娘やむく犬どもの

生きているのを確めるような様子であった

 

ああ、死んだ中原

僕にどんなお別れの言葉が言えようか

君に取返しのつかぬ事をして了ったあの日から

僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった

 

ああ、死んだ中原

例えばあの赤茶けた雲に乗って行け

何んの不思議な事があるものか

僕達が見て来たあの悪夢に比べれば

 

(文春文庫「考えるヒント4/「ランボオ・中原中也」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

死の直前、と言っても

詩人自身は死ぬつもりはなかったはずですが

「在りし日の歌」の清書原稿を

小林秀雄に託したのでした。

 

「奇怪な三角関係」(小林秀雄)とはいえ

揺るぎのない線が

詩人同士の間に通っていました。

 

 

 

今回はここまで。

2018年4月22日 (日)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その12>/富永太郎の死、その前後

 

 

家族と医者の忠告を無視して、富永は小林や中原と共に、町を歩いた。

 

「彼に全く無関心な群集」を眺めながら、「おい、こゝ曲らう、こんな処で血を吐いちや、つま

らないからな」と呟く富永の姿を小林は伝えている(「富永太郎」)。

 

「思へば、私は彼の夭折を随分助けた」(「ランボオⅡ」)。

 

――と大岡昇平は記しています。

 

(講談社文芸文庫「中原中也」中の「朝の歌」。改行を加えました。編者。)

 

 

富永太郎が小林秀雄と東京の街を

そして中原中也とは京都の街を

それぞれ歩いたことは確かですが

3人が一緒に歩いたことがあったでしょうか。

 

大岡昇平は

3人が共に歩いたことを言ってはいません。

 

それを実証する資料は

現在のところないようですが

なかったと断言できるものでもありません。

 

日記や書簡から読み取ることのできる事実の隙間(すきま)に

10分でも1時間でも

3人が顔を揃えた時間があった可能性を否定できません。

 

 

こうして実証的姿勢になっているのは

研究者のそれであるようで気が引けますが

たとえば、

「新編中原中也全集」の年譜の

1925年(大正14年)4月9日の項に、

東京出発、山口へ向かう。小林秀雄とともに富永太郎を片瀬に見舞ったのは、このときか(*26)。

――とあるのに出くわすと

街を歩いたとまで言わずとも

3人が同じ場所に居合わせたことを想像させるに十分ではありませんか。

※(*26)の語註として、大岡昇平「富永太郎――書簡を通して見た生涯と作品」(大岡昇

平全集第17巻)が付記されています。

 

山口へ向かうとあるのは

中也が小林から20円を借りて

一時帰省した時のことです。

 

上京後1か月のことでした。

 

 

富永太郎が

片瀬の療養先を抜け出すのは5月3日でした。

 

年譜の5月11日の項には

富永太郎来訪か。

――とあり

富永太郎は療養先から帰った後も

中也を訪ねた可能性があるのですし

外出する機会があったようですから

6月に面会謝絶を言い渡されるまでの間に

街に出なかったと断定するまでもないことでしょう。

 

可能性は

極めて小さいにもかかわらず

ゼロであったと断定はできません。

 

研究がどこかで誰かが進められているのかわかりませんが

3人が会したという事実が

たとえなくても

3人の間には

ランボーを介した交流交感が続いていたことは

これまでその一部を見て来たように確かです。

 

 

それは

富永太郎の死後にも3人以外の周辺に伝播し

そして中原中也の死後にも継承されてゆきます。

 

ランボーという事件は

富永太郎の死の前後に

はじまったばかりでした。

 

 

今回はここまで。

2018年4月20日 (金)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その11>/富永太郎「遺産配分書」


それに、僕は富永が既にランボオの“Solde”(見切物)に倣(なら)って、美しい「遺産配分

書」を書いていた事を知らなかった。

――と小林秀雄の告白は続きます。

(「ランボオⅢ」より。)

 

 

遺産配分書

 

 わが女王へ。決して穢れなかった私の魂よりも、更に清浄な私の両眼の真珠を。おんみ

の不思議な夜宴の觴に投げ入れられようために。

 

 善意ある港の朝の微風へ。昨夜の酒に濡れた柔かい私の髪を。――蝋燭を消せば、海

の旗、陸の旗。人間は悩まないように造られてある。

 わが友M***へ。君がしばしば快く客となってくれた私の Sabbat の洞穴の記念に、一

本の蜥蜴の脚を、すなわち蠢めく私の小指を。――君の安らかならんことを。

 今日もまた、陽(ひ)は倦怠の頂点を燃やす。

 

 シェヘラザードへ。鳥肌よりもみじめな一夜分の私の歴史を。

 

 S港の足蹇(あしなえ)へ。私の両脚を。君の両腕を断って、肩からこれを生やしたまえ。

私の血は想像し得られる限り不純だから、もしそれが新月の夜ならば、君は壁を攀じて天

に昇ることが出来る。

 

 ***嬢へ。私の悲しみを。

 

 売笑婦T***へ。おまえがどれほど笑いを愛する被造物であるかを確かめるために、

両乳房(ちち)の間に蠍のような接吻を。

 

 巌頭に立って黄銅のホルンを吹く者へ。私の夢を。――紫の雨、螢光する泥の大陸。

――ギオロンは夜鳥の夢に花を咲かす。

 

 母上へ。私の骸は、やっぱりあなたの豚小屋へ返す。幼年時を被うかずかずの抱擁(だ

きしめ)の、沁み入るような記憶と共に。

 

 泡立つ春へ。pang ! pang !

 

(「富永太郎詩集」より。新かな・新漢字に変えました。編者。)

 

 

小林秀雄は

瀕死の病床にあった富永太郎を見舞った時には知らなかった

この詩を後になって読んで

ランボーの匂いを嗅ぎとったようです。

 

 

年譜によれば

「遺産配分書」は1925年(大正14年)4月ごろの制作と推定されています。

 

中原中也が

長谷川泰子とともに上京したのが3月。

 

富永太郎は

4月上旬に転地療養先の藤沢から

代々木富ヶ谷の自宅へ帰ります。

 

この8か月後には亡くなります。

 

「Au Rimbaud」「ランボオへ」は7月に書かれ

これが最終作と考えられていますから

その少し前に「遺産配分書」は書かれたことになります。

 

この3作ともに

ランボーをモチーフにしていることになります。

 

 

東京の街を

富永太郎、小林秀雄、中原中也の3人が

歩いたことはあったのでしょうか。

 

 

今回はここまで。

2018年4月17日 (火)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その10>/「Au Rimbaud」続

 

 

病状が悪化する富永太郎を訪ねた小林秀雄が

富永から渡された紙片に記されていたのが

「Au Rimbaud」でした。

 

 

Au Rimbaud

 

   Ⅰ

 

Kiosque au Rimbaud,

“Manila” à la main,

Le ciel est beau,

Eh! tout le sang est Pain.

 

   Ⅱ

 

Ne voici le poète,

Mille familles dans le même toit

Revoici le poète :

On ne fait que le droit.

 

   Ⅲ

 

Que Dieu le luise et le pose!

Qu'il ne voie pas ouvrir

Les parasols bleus et rose

Parmi les flots : les martyrs!



(「ランボオⅢ」より。)

 

 

小林秀雄は

この詩を暗誦するほどに読み慣れ

長く記憶していたため

「ランボオⅢ」(1947年)に書き出すことができました。

 

いっぽう、中原中也は

富永太郎の死に際して

太郎の残した作品を集中して読み

一時はそれらを所有していましたが

遺稿集の発行計画が進む中で返却します。

 

「ランボオへ」は

その中にありました。

 

そのあたりの事情を

中也が富永家に送った二つの書簡で

知ることができます。

 

 

大正14年(1925年)

11月16日 富永家宛 封書

 

   表 府下代々木富ヶ谷1456 富永様

   裏 16日

 

発表順に書き付けます。

「橋の上の自画像」(1924、6、頃作)

「秋の悲嘆(ママ)」(1924、10、作)

「鳥獣剥製所」(1925年、1、作)

「四行詩」「頌歌」「恥の歌」「無題」(1925、2、頃作)

   此の四つと共に作された「焦燥」があります。これは一時的な或感情のために発表さ

れなかつたのですが、韻文中最も立派なもので、自分でも余程自信のあつたものです。

「断片」(1925、4、作)

「ランボオへ」(1925、7、作)

   其の他、ボオドレエルの「人工天国」中の、「ハシーシュの詩」の箇所だけの翻訳があ

ります。

 

茶色の原稿袋の中に、仙台にをられた頃の作が数篇ありますが、これは自分でも発表し

たくないと云ってゐられたものです。

 

発表された原稿は近々におとどけします

 

 

11月下旬(推定) 富永家宛 封書

 

これは最初仏語で書かれたものです。それは富永君の床のまはりの何処かにあることだ

と思はれます。今年7月末頃の作で、そして最後の詩です。

 

ランボオへ(未定稿)

               富永太郎

 

  1

 

キオスクにランボオ

手にはマニラ

空は美しい

えゝ 血はみなパンだ        

 

  2

 

詩人が御不在になると

千家族が一家で軋めく

またおいでになると

掟(おきて)に適つたことしかしない

 

  3

 

神様があいつを光らして、横にして下さるやうに!

それからあれが青や薔薇色の

パラソルを見ないやうに!

波の中は殉教者でうようよですよ

 

(「新編中原中也全集」第5巻「日記・書簡」より。※「富永太郎詩集」収録のものとは、表記

に若干の違いがあります。編者。)

 

 

大岡昇平は「ランボオへ」について

フランス語に未熟だった中原中也のために

富永太郎がフランス語詩を

日本語詩にしたものと推理しています。

 

 

今回はここまで。

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その9>/「Au Rimbaud」

 




僕は、不服を唱えた。これはランボオではない、寧ろ“Au Parnassien”とすべきだ。

――と小林秀雄が書いたのは

昭和22年(1947年)のことです。

 

雑誌「展望」に載せた「ランボオの問題」の中でですが

富永太郎も中原中也も

この世にいませんでした。

 

 

富永太郎が生存中に小林秀雄は

“Au Rimbaud”の感想を喋ったことを回想したものですが

この感想はこれで終わってはいません。

 

其他、何や彼や目下の苦衷めいた事を喋った様だが、記憶しない。

僕の方が間違っていた事だけは確かである。

――と続けています。

 

さらに続くのですが

ここでは自らの感想の間違いを述べていることだけを

取り出しておきます。



“Au Parnassien”はパルナシアンのことですから

それが見当外れであったことを

すぐに気づくことになります。

 

 

富永太郎が京都滞在中の1924年

小林秀雄はランボーの「地獄の季節」の衝撃の中にあり

その最後の章「別れ」を筆写して

富永に送りました。

 

富永太郎と中也とが邂逅(かいこう)した頃のことです。

 

 

富永の詩が

みるみるランボーの生気で染色されるのを

小林秀雄は見て取ったのですが

この頃、富永の病体がその為に(ランボーの影響で)

刻々と破滅へ向っていることに気づかなかったことを告白します。

 

小林もまた

ランボーの熱の中にあったために

自然には見えるものが見えない

特別な状態だったというのです。



パルナシアンという誤読も

この状態の中で生じたという弁明でした。

 

この状態の中で

富永の病床を訪れた小林秀雄の回想――。

 

 

僕は、富永の病床を訪れた。彼は、腹這いになって食事をしていたが、蓬髪を揺すって、こ

ちらを振向いて笑った時、僕はぞっとした。

 

熱で上気した子供の様な顔と凡そ異様な対照で、眼の周りに、眼鏡でもかけた様な黒い隈

取りが見えた。死相、と僕は咄嗟(とっさ)に思った。

 

 

この描写に気を取られているばかりではなりません。

 

この時の小林は

もう一度、自身の特別な状態を

記しているのです。

 

 

だが、この強い印象は一瞬に過ぎ去って了った。

 

何故だったろう。何故、僕は、死が、殆ど足音を立てて、彼に近寄っているのに、想いを致

さなかったのだろう。

 

今になって、僕はそれを訝るのである。

(以上の引用は「ランボウⅢ」より。いずれも改行を加えてあります。編者。)

 

 

この訪問の時に

富永太郎が小林秀雄に渡したのが

「Au Rimbaud」でした。

 

 

今回はここまで。

2018年4月 8日 (日)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その8>/「ランボオへ」

 

 

富永太郎が最初に喀血したのは

京都下鴨に滞在中で

中原中也との交流が頻繁になった

1924年9月頃のことでした。

 

この交流は

富永の方が中也を足繁く訪問するというかたちではじまったようですが

11月には村井康男に宛てた手紙に

ダダイストとのdegout(嫌悪)に満ちたamitie(友情)に淫して40日を徒費した

――と書かせることになります。

 

喀血による不安や衰弱が

このように書かせた理由を増幅したのかわかりませんが

富永は12月、帰京します。

 

「山繭」創刊号はこの頃に発行され

「橋の上の自画像」と「秋の悲歎」が発表されました。

 

 

「山繭」への発表はその後も続行され

翌1925年(大正14年)2月発行の第3号に

「鳥獣剥製所」、

3月発行の第4号に、

「無題(富倉次郎に)」

「4行詩(琺瑯の野外の空に)」

「頌歌」

「恥の歌」

――の詩のほか

ボードレールの「人工楽園」の一部を翻訳し発表します。

 

「人工楽園」は

「ハシーシュの詩―Ⅰ永遠の味、Ⅱハシーシュとは何か」。

 

この間、2度目、3度目の喀血があり

3月には神奈川県片瀬に転地療養となりました。

 

この直後に

京都から中原中也は長谷川泰子とともに

上京します。

 

 

4月、「山繭」第5号に

ボードレール「人口楽園」の「ハシーシュの詩―Ⅳ人間神、Ⅴ道徳」、

5月、「山繭」第6号に

「断片」

――と発表は続けられます。

 

ランボーの

「労働者」

「古代」

「朝」

「小説(コント)」

「錯乱(一)」

――を訳したのもこの頃と推定されています。

 

翻訳に集中した形跡ですが

5月、転地先から渋谷の実家に帰ります。

 

6月、病状は悪化、肋膜炎を併発し

臥床を余儀なくされます。

 

この頃にも、

ランボーを歌ったフランス語詩「Au Rimbaud」、

韻語詩「ランボオへ」(日本語)を作ります。

 

 

ランボオへ

 

 

キオスクにランボオ

手にはマニラ

空は美しい

えゝ 血はみなパンだ        

 

 

詩人が御不在になると

千家族が一家で軋めく

またおいでになると

掟(おきて)に適つたことしかしない

 

 

神様があいつを光らして、横にして下さるやうに!

それからあれが青や薔薇色の

パラソルを見ないやうに!

波の中は殉教者でうようよですよ

 

(現代詩文庫「富永太郎詩集」より。)

 

 

今回はここまで。

2018年4月 7日 (土)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その7>/「飢餓の饗宴」

 

 




飢餓の饗宴

 

  俺の飢(うえ)よ、アヌ、アヌ、

   驢馬に乗って 逃げろ。

 

俺に食気(くいけ)が あるとしたら、

食いたいものは、土と石。

ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、空気を食おう、

岩を、火を、鉄を。

 

俺の飢(うえ)よ、廻れ、去れ。

   音(おん)の平原!

 

旋花(ひるがお)のはしゃいだ

   毒を吸え。

 

貧者の砕いた 礫を啖え、

  教会堂の 古びた石を、

  洪水の子なる 磧(かわら)の石を、

  くすんだ谷に 臥ている麺麭(ぱん)を。

 

俺の飢は、黒い空気のどんづまり、

  鳴り響く蒼空!

――俺を牽くのは 胃の腑ばかり、

  それが不幸だ。

 

地の上に 葉が現われた。

饐えた果実の 肉へ行こう。

畝(うね)の胸で 俺が摘むのは、

野蒿苣(のぢしゃ)に菫。

 

  俺の餓(うえ)よ、アヌ、アヌ、

  驢馬に乗って 逃げろ。

 

(現代詩文庫「富永太郎詩集」より。新かな・新漢字に改めました。編者。)

 

 

これが富永太郎が

1924年(大正13年)に発表した

ランボーの「飢餓の饗宴」Fêtes de la Faimの翻訳です。

 

 

小林秀雄の翻訳は

「飢」のタイトルで

1930年(昭和5年)発行の「地獄の季節」(白水社)に初出しました。

 

 

 

俺に食いけがあるならば

先ず石くれか土くれか。

毎朝、俺が食うものは

空気に岩に炭に鉄。

 

俺の餓鬼奴ら、横を向け、

糠の牧場で腹肥やせ。

昼顔の陽気な毒を吸え。

 

出水の後の河原石、

踏み砕かれた砂利を食え、

教会堂の朽ち石を、

みじめな窪地に播かれたパンを。

 

(岩波文庫「地獄の季節」より。)

 

 

中原中也の訳は

1936年(昭和11年)6月から1937年8月の間に

制作されたと推定されています。



この訳は

1934年から1935年の間に作られたものを

推敲したものという推測もあります。

 

 

飢餓の祭り

 

俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、

驢馬(ろば)に乗って失せろ。

 

俺に食慾(くいけ)があるとしてもだ

土や礫(いし)に対してくらいだ。

Dinn! dinn! dinn! dinn! 空気を食おう、

岩を、炭を、鉄を食おう。

 

飢餓よ、あっちけ。草をやれ、

音(おん)の牧場に!

昼顔の、愉快な毒でも

吸うがいい。

 

乞食が砕いた礫(いし)でも啖(くら)え、

教会堂の古びた石でも、

洪水の子の磧の石でも、

寒い谷間の麺麭でも啖え!

 

飢餓とはかい、黒い空気のどんづまり、

   空鳴り渡る鐘の音。

――俺の袖引く胃の腑こそ、

   それこそ不幸というものさ。

 

土から葉っぱが現れた。

熟れた果肉にありつこう。

畑に俺が摘むものは

野蒿苣(のぢしゃ)に菫(すみれ)だ。

 

俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、

驢馬に乗って失せろ。

 

(「新編中原中也全集」第3巻・翻訳より。新かな・新漢字に変えました。編者。)

 

 

今回はここまで。

2018年4月 6日 (金)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その6>/富永太郎「橋の上の自画像」




小林秀雄への手紙に同封された「秋の悲歎」は

どのように読まれたのでしょうか。

 

小林の所感は残されていないようですが

否定的なものではなく

好感を表明されたことがあったに違いありません。

 

それで富永太郎は

これを公表する決意を固めたものと想像できます。

 

「山繭」創刊号(1924年末)には

「秋の悲歎」とともに「橋の上の自画像」が発表されました。

 

 

橋の上の自画像

 

今宵私のパイプは橋の上で

狂暴に煙を上昇させる。

 

今宵あれらの水びたしの荷足(にたり)は

すべて昇天しなければならぬ、

頬被りした船頭たちを載せて。

 

電車らは花車(だし)の亡霊のように

音もなく夜(よ)の中に拡散し遂げる。

(靴穿きで木橋(もくきょう)を踏む淋しさ!)

 

私は明滅する「仁丹」の広告塔を憎む。

またすべての詞華集(アントロジー)とカルピスソーダ水とを嫌う。

 

哀れな欲望過多症患者が

人類撲滅の大志を抱いて、

最後を遂げるに間近い夜(よる)だ。

 

蛾よ、蛾よ、

ガードの鉄柱にとまって、震えて、

夥しく産卵して死ぬべし、死ぬべし。

 

咲き出でた交番の赤ランプは

おまえの看護(みとり)には過ぎたるものだ。

 

(現代詩文庫「富永太郎詩集」より。新かな・新漢字に変え、ルビは( )で示しました。編者。)

 

 

この詩に出てくる「仁丹」の広告塔とは

渋谷・宮益坂を上り詰めたところにあったビルディングのことでしょう。

 

この詩を作った頃

詩人の実家は渋谷区富ヶ谷にありましたから

渋谷の街並は馴染みのものでした。

 

北村太郎が「富永太郎詩集」の解説で書いているように

詩人はリアリストの側面を持っていました。

 

勿論、詩は喩(メタファー)ですから

その実物を直接に歌っているものではありません。

詩は

仁丹の広告塔よりも

夜の街の蛾に親しいのですから。

 

 

「山繭」創刊号へ詩を発表した頃

富永太郎は

ランボーの「饑餓の饗宴」を翻訳しています。

 

 

今回はここまで。

2018年4月 5日 (木)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その5>/富永太郎と小林秀雄

 

 

富永太郎の「秋の悲歎」は

1924年(大正13年)末、

所属していた同人誌「山繭」創刊号に発表されました。

 

詩人が詩を発表したのは

これが初めてのことでした。

 

 

この詩には、

ほっそりとした白陶土製のかの女の頸

オールドローズのおかっぱさん

立ち去ったかの女の残像

天の方に立ち騰るかの女の胸の襞(ひだ)

夢のように萎れたかの女の肩の襞

――などと繰り返し繰り返しかの女が現れますが

このかの女が

詩人20歳の年、1921年(大正10年)の

失恋の相手であったH・S夫人であることは紛(まぎ)れもないことでしょう。

 

仙台の二高(現在の東北大学)を中退するきっかけになった

人妻との恋愛事件を

3年後の1924年(大正13年)の

京都滞在後の東京で発表したことになりますが

これは事件のほとぼりが未だ冷めていないことを物語るでしょうか。

 

それとも逆に

事件の沈静を物語るのでしょうか。

 

 

一つの詩の読まれ方はさまざまですが

制作者本人がこれを、

 

ははあランボオばりだなと言ってもいい。とにかく日本流行の「情調派」でないというレッテ

ルをつけてくれたら本望だ。出来不出来は問わず。

――と僚友、小林秀雄に書き送っているのは

この詩の読みへの有力なヒントになることでしょう。

 

 

詩は、しかし、

制作者本人の意図通りに読まれるとは限りませんし

本人の意図通りに詩が作られていないこともあります。

 

自ら作った詩に自らコメントしたとしても

そのコメント自体が詩とは別物であるという

断絶を超えるものはありません。

 

この断絶が

作品(詩)の独立性を保証するものです。

 

 

富永太郎は自作詩「秋の悲歎」に、

1、 この詩は、ランボーばりと言ってくれてもよい。

2、 この詩は、日本流行の情調派の詩ではない、と読んでくれたら本望だ。

3、 この詩の、出来不出来は問わないでほしい。

――とコメントしたのですが

これは願望です。

 

願望された小林秀雄が

詩をどのように読むかを制限するものではありませんが

小林がどのように読んだかの記録は

残っていないようです。

 

代わりにというか

この詩と直接に呼応するものではありませんが

ランボーに関して

独創的な記述を残しました。

 

 

小林秀雄が

ランボーという事件を

初めて記述し発表したのは

東京帝大仏文科に在学中の大正15年(1926年)10月でした。

それが

「人生斫断家アルチュル・ランボオ」でした。



「斫」は「しゃく」と音読みし

「斫る」は「はつ・る」と訓読みします。

 

「斫断家(しゃくだんか)」は

粉砕する人、破壊者という意味になります。

 

 

今回はここまで。

2018年4月 4日 (水)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その4>/富永太郎「秋の悲歎」再

 

 

大正13年(1924年)10月23日付けで

富永太郎は小林秀雄に書簡を出しています。

 

「秋の悲歎」を書き

それを同封しているのですが

発信したのは

京都市上京区下鴨の下宿でした。

 

太郎がこの住所に住みはじめたのは

9月初旬でした。

 

7月に中原中也と知り合っていますし

中也が太郎のこの住所にほど近い

寺町今出川下ル西入ルに越して来たのは10月ですから

この詩の時間に

中也はなんらか感応する域内にあったということができます。

 

 

秋の悲歎

 

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去った。道路のあらゆる直線が甦る。あれら

のこんもりとした貪婪な樹々さえも闇を招いてはいない。

 私はただ微かに煙を挙げる私のパイプによってのみ生きる。あの、ほっそりとした白陶土

製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色(あかがね)

の空を蓋う公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦そう。オールドローズのおかっぱ

さんは埃も立てずに土塀に沿って行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上

に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。

 私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チャン)色の疲れた空に炊煙の立

ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食ったかしら、私は知らない。多分柿ぐらいは食

えたのだろうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習いであった……

 夕暮、私は立ち去ったかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞(ひ

だ)を、夢のように萎れたかの女の肩の襞を私は昔のようにいとおしむ。だが、かの女の髪

の中に挿し入った私の指は、昔私の心の支えであった、あの全能の暗黒の粘状体に触れ

ることがない。私たちは煙になってしまったのだろうか? 私はあまりに硬い、あまりに透

明な秋の空気を憎もうか?

 繁みの中に坐ろう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フィジオグノ

ミー)をさえ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき

時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は

要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保

つ、錫箔のような池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。

 

(思潮社、現代詩文庫「富永太郎詩集」、1975年より。新かなに変え、ルビは( )で示しま

した。編者。)

 

 

すでに一度読んだのですが

この詩「秋の悲歎」が

京都滞在中の富永太郎が

東京の大学生、小林秀雄への手紙に同封されていたことを知り

さらに手紙の内容を読むと

読みに深さが出てきます。

 

この手紙を読みましょう。

 

 

 近頃どうしてる。学校へ通ってちゃ、手も足も出ないだろうと思う。

 

 こっちもあんまりよろしくない。へんに弱っていて、元気がよくても、カンバスなんか下げて

表へ出かけるのが、あんまりガセな仕事に思って出来ないような工合だ。今になんとかな

るだろう。

 

こんなものが出来たから近況報告がわりに送ってみる。ははあランボオばりだな、と言って

もいい。とにかく日本流行の「情調派」でないというレッテルをつけてくれたら本望だ。出来

不出来は問わず。

 

 10月23日                               太

 秀雄様

 

(同。)

 

 

今回はここまで。

2018年4月 2日 (月)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その3>/小林秀雄への波状訪問

 

 

4月3日付け富永太郎宛の葉書のはじめに

近々多分小林と二人で行きます。

――とあり

相当ヘコタれたから昨晩小林所へ遅くまでゐたんだがまた今這入られぬ試験場より小林所へ行く、今電車のなか。

――と中ごろにあり

中也の小林秀雄への波状訪問を知ることができます。

 

上京したのが3月10日でした。

 

昨晩とある4月2日が

初対面の日らしいのですから

1か月に満たず

熱心に小林を訪ねたことがわかります。

 

 

この手紙をさらにじっくり読むと――。

 

 早大の方が面白くないから日大にも願書出して今試ケン場行つたが三十分ばかり遅刻し

て入れて呉れない。

 これでもうおしまひ(だらう)といふものさ。

――とあるのは

日本大学予科へ入学願書を出し

試験に行ったが30分遅刻したため試験場に入ることができない。

これでほぼ日大への入学はおしまいになるだろうさ、

――という意味のことが書かれてあることがわかります。

 

上京した目的であったはずの入学試験を

遅刻してふいにしてしまった事情が見えませんが、

 

 相当ヘコタれたから昨晩小林所へ遅くまでゐたんだがまた今這入られぬ試験場より小林

所へ行く、今電車のなか。

――とあるのは、

相当落ち込んだいきおいで

昨晩、小林秀雄の所へ行って遅くまで滞在し

(今日また試験があったのでしょうか)

今、入れてもらえなかった試験場から

また小林の所へ行く電車の中なのだよ

――と富永太郎に報告しているのです。

 

今試ケン場行つたが、の今と、

今這入られぬ試験場、の今が

同じ今なのか混乱しますが

試験場への入場を許可されず

受験は失敗に終わったことを

富永太郎に報告する関係にあったことに

目が引かれます。

 

遅刻して入学試験に失敗するというのは

相当なヘマですから

それを打ち明ける相手で

富永太郎はあり、小林秀雄はあったわけです。

 

 

大学に通う計画を許可してもらうために

中也はいったん帰省し

両親に金銭援助を申し込みます。

 

この帰省の資金を持たなかった中也に

20円を貸したのは小林秀雄でした。

 

中也は

翌1926年4月に同じ日本大学予科に

1年間遅れで入学します。

 

 

今回はここまで。

2018年4月 1日 (日)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その2>/富永太郎への手紙

 



中原中也は

大正14年(1925年)3月10日に

長谷川泰子とともに上京しました。

 

早稲田鶴巻町414にあった旅館早成館に数日間止宿した後

戸塚町大字源兵衛195林方に下宿します。

 

ここに住むことにしたのは

早稲田大学の予科へ通う意志があったためでした。

 

 

中也が小林秀雄と初めて会ったのは

4月2日でした。

 

小林は初対面の中也の印象を

次のように記します。

 

 

私はNに対して初対面のときから、魅力と嫌悪とを同時に感じた。

 

Nは確かに私の持っていないものを持っていた。ダダイスト風な、私と正反対の虚無を持っていた。

 

しかし嫌悪はどこから来るのか解らなかった。彼は自分でそれを早熟の不潔さなのだと説明した。

 

(大岡昇平「朝の歌」より、とある「新編中原中也全集」第2巻解題篇の引用の孫引きです。

改行を加えました。編者。)

 

 

この、小林秀雄と初めて会った日の翌日の

中也発富永太郎宛ての書簡が残っています。

 

さしずめ現代のSNSといった書きぶりに

思わず笑います。

 

富永太郎は

藤沢の片瀬海岸に転地療養中でした。

 

この頃は

まだ元気が残っていたのでしょう。

 

 

4月3日 富永太郎宛 封緘葉書

   表 神奈川県片瀬 富永太郎様

   裏 4月3日 市外戸塚源兵衛195 林方 冲哉

 

 お手紙ありがたう

 近々多分小林と二人で行きます。

 先達から度々(二度だ)手紙を書いたがみんな出したか如何か知らない、戸籍謄本も此

の間からポケツトに入れて歩く中に捨てちやつたし、

 早大の方が面白くないから日大にも願書出して今試ケン場行つたが三十分ばかり遅刻し

て入れて呉れない。

 これでもうおしまひ(だらう)といふものさ。

 相当ヘコタれたから昨晩小林所へ遅くまでゐたんだがまた今這入られぬ試験場より小林

所へ行く、今電車のなか。隣席の御婦人が俺の書くのを見たがってゐるから、「サアサア

御覧なさいよ」といつてやつた。――とかう書くのさへ奴は見てるんだ。

 「字がお上手でございますわ。」――ホラ、今はこんなに云つたよ。――と書くのをみてい

よいよ吹き出しやがつた。

 「随分な方ね」

 「五月蠅いッ!」 増田の妻君に何処か似てる奴

 

(「新編中原中也全集」第5巻「日記・書簡」より。)

 

 

今回はここまで。

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