中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その4>/富永太郎「秋の悲歎」再
大正13年(1924年)10月23日付けで
富永太郎は小林秀雄に書簡を出しています。
「秋の悲歎」を書き
それを同封しているのですが
発信したのは
京都市上京区下鴨の下宿でした。
太郎がこの住所に住みはじめたのは
9月初旬でした。
7月に中原中也と知り合っていますし
中也が太郎のこの住所にほど近い
寺町今出川下ル西入ルに越して来たのは10月ですから
この詩の時間に
中也はなんらか感応する域内にあったということができます。
◇
秋の悲歎
私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去った。道路のあらゆる直線が甦る。あれら
のこんもりとした貪婪な樹々さえも闇を招いてはいない。
私はただ微かに煙を挙げる私のパイプによってのみ生きる。あの、ほっそりとした白陶土
製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色(あかがね)
の空を蓋う公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦そう。オールドローズのおかっぱ
さんは埃も立てずに土塀に沿って行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上
に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チャン)色の疲れた空に炊煙の立
ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食ったかしら、私は知らない。多分柿ぐらいは食
えたのだろうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習いであった……
夕暮、私は立ち去ったかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞(ひ
だ)を、夢のように萎れたかの女の肩の襞を私は昔のようにいとおしむ。だが、かの女の髪
の中に挿し入った私の指は、昔私の心の支えであった、あの全能の暗黒の粘状体に触れ
ることがない。私たちは煙になってしまったのだろうか? 私はあまりに硬い、あまりに透
明な秋の空気を憎もうか?
繁みの中に坐ろう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フィジオグノ
ミー)をさえ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき
時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は
要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保
つ、錫箔のような池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。
(思潮社、現代詩文庫「富永太郎詩集」、1975年より。新かなに変え、ルビは( )で示しま
した。編者。)
◇
すでに一度読んだのですが
この詩「秋の悲歎」が
京都滞在中の富永太郎が
東京の大学生、小林秀雄への手紙に同封されていたことを知り
さらに手紙の内容を読むと
読みに深さが出てきます。
この手紙を読みましょう。
◇
近頃どうしてる。学校へ通ってちゃ、手も足も出ないだろうと思う。
こっちもあんまりよろしくない。へんに弱っていて、元気がよくても、カンバスなんか下げて
表へ出かけるのが、あんまりガセな仕事に思って出来ないような工合だ。今になんとかな
るだろう。
こんなものが出来たから近況報告がわりに送ってみる。ははあランボオばりだな、と言って
もいい。とにかく日本流行の「情調派」でないというレッテルをつけてくれたら本望だ。出来
不出来は問わず。
10月23日 太
秀雄様
(同。)
◇
今回はここまで。
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