中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その8>/「ランボオへ」
富永太郎が最初に喀血したのは
京都下鴨に滞在中で
中原中也との交流が頻繁になった
1924年9月頃のことでした。
この交流は
富永の方が中也を足繁く訪問するというかたちではじまったようですが
11月には村井康男に宛てた手紙に
ダダイストとのdegout(嫌悪)に満ちたamitie(友情)に淫して40日を徒費した
――と書かせることになります。
喀血による不安や衰弱が
このように書かせた理由を増幅したのかわかりませんが
富永は12月、帰京します。
「山繭」創刊号はこの頃に発行され
「橋の上の自画像」と「秋の悲歎」が発表されました。
◇
「山繭」への発表はその後も続行され
翌1925年(大正14年)2月発行の第3号に
「鳥獣剥製所」、
3月発行の第4号に、
「無題(富倉次郎に)」
「4行詩(琺瑯の野外の空に)」
「頌歌」
「恥の歌」
――の詩のほか
ボードレールの「人工楽園」の一部を翻訳し発表します。
「人工楽園」は
「ハシーシュの詩―Ⅰ永遠の味、Ⅱハシーシュとは何か」。
この間、2度目、3度目の喀血があり
3月には神奈川県片瀬に転地療養となりました。
この直後に
京都から中原中也は長谷川泰子とともに
上京します。
◇
4月、「山繭」第5号に
ボードレール「人口楽園」の「ハシーシュの詩―Ⅳ人間神、Ⅴ道徳」、
5月、「山繭」第6号に
「断片」
――と発表は続けられます。
ランボーの
「労働者」
「古代」
「朝」
「小説(コント)」
「錯乱(一)」
――を訳したのもこの頃と推定されています。
翻訳に集中した形跡ですが
5月、転地先から渋谷の実家に帰ります。
6月、病状は悪化、肋膜炎を併発し
臥床を余儀なくされます。
この頃にも、
ランボーを歌ったフランス語詩「Au Rimbaud」、
韻語詩「ランボオへ」(日本語)を作ります。
◇
ランボオへ
Ⅰ
キオスクにランボオ
手にはマニラ
空は美しい
えゝ 血はみなパンだ
Ⅱ
詩人が御不在になると
千家族が一家で軋めく
またおいでになると
掟(おきて)に適つたことしかしない
Ⅲ
神様があいつを光らして、横にして下さるやうに!
それからあれが青や薔薇色の
パラソルを見ないやうに!
波の中は殉教者でうようよですよ
(現代詩文庫「富永太郎詩集」より。)
◇
今回はここまで。
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