中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その6>/富永太郎「橋の上の自画像」
小林秀雄への手紙に同封された「秋の悲歎」は
どのように読まれたのでしょうか。
小林の所感は残されていないようですが
否定的なものではなく
好感を表明されたことがあったに違いありません。
それで富永太郎は
これを公表する決意を固めたものと想像できます。
「山繭」創刊号(1924年末)には
「秋の悲歎」とともに「橋の上の自画像」が発表されました。
◇
橋の上の自画像
今宵私のパイプは橋の上で
狂暴に煙を上昇させる。
今宵あれらの水びたしの荷足(にたり)は
すべて昇天しなければならぬ、
頬被りした船頭たちを載せて。
電車らは花車(だし)の亡霊のように
音もなく夜(よ)の中に拡散し遂げる。
(靴穿きで木橋(もくきょう)を踏む淋しさ!)
私は明滅する「仁丹」の広告塔を憎む。
またすべての詞華集(アントロジー)とカルピスソーダ水とを嫌う。
哀れな欲望過多症患者が
人類撲滅の大志を抱いて、
最後を遂げるに間近い夜(よる)だ。
蛾よ、蛾よ、
ガードの鉄柱にとまって、震えて、
夥しく産卵して死ぬべし、死ぬべし。
咲き出でた交番の赤ランプは
おまえの看護(みとり)には過ぎたるものだ。
(現代詩文庫「富永太郎詩集」より。新かな・新漢字に変え、ルビは( )で示しました。編者。)
◇
この詩に出てくる「仁丹」の広告塔とは
渋谷・宮益坂を上り詰めたところにあったビルディングのことでしょう。
この詩を作った頃
詩人の実家は渋谷区富ヶ谷にありましたから
渋谷の街並は馴染みのものでした。
北村太郎が「富永太郎詩集」の解説で書いているように
詩人はリアリストの側面を持っていました。
勿論、詩は喩(メタファー)ですから
その実物を直接に歌っているものではありません。
詩は
仁丹の広告塔よりも
夜の街の蛾に親しいのですから。
◇
「山繭」創刊号へ詩を発表した頃
富永太郎は
ランボーの「饑餓の饗宴」を翻訳しています。
◇
今回はここまで。
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