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2018年5月19日 (土)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「秋の一日」

 

 

中原中也は

1926年(大正15年・昭和元年)1月16日付けの正岡忠三郎宛書簡で

正岡に原語(フランス語)版のランボー著作集の送付を依頼し

1月26日付け書簡で

それを入手した御礼を書き送りました。

 

前年11月に長谷川泰子は中也から去り

小林秀雄と暮らしはじめましたから

上京して一人で迎えた新年はじめのことです。

 

 

この年に

「むなしさ」「朝の歌」「臨終」は書かれました。

 

年譜によると

この順序で制作されたようですが

断定はできません。

 

「山羊の歌」には

「初期詩篇」の中に

「朝の歌」の次に「臨終」が配置され

「むなしさ」は「在りし日の歌」の2番詩として配置されました。

 

「むなしさ」は

最初、1番詩(冒頭詩)の計画でしたが

長男文也の死の影響で

「含羞(はじらい)」に替えられました。

 

 

「むなしさ」と「朝の歌」と「臨終」と――。

 

この3作が

中也の詩活動の起点となりました。

 

「朝の歌」は

「詩的履歴書」(1936年)に、

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見

せる最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった十四行書くため

に、こんなに手数がかかるのではとガッカリす。

 

――と記されるほどに

重大な生涯の出来事でした。

 

 

この1926年という年に

詩人はランボー詩集の原書を手に入れ

本格的に取り組むことになります。

 

 

それでは

ランボーが「山羊の歌」に現われるのは

いつだったのでしょうか?

 

「初期詩篇」をひもとくと

なんといってもはじめに目に飛び込んでくるのは

この詩です。

 

 

秋の一日

 

こんな朝、遅く目覚める人達は

戸にあたる風と轍(わだち)との音によって、

サイレンの棲む海に溺れる。 

 

夏の夜の露店の会話と、

建築家の良心はもうない。

あらゆるものは古代歴史と

花崗岩(かこうがん)のかなたの地平の目の色。

 

今朝はすべてが領事館旗(りょうじかんき)のもとに従順で、

私は錫(しゃく)と広場と天鼓(てんこ)のほかのなんにも知らない。

軟体動物のしゃがれ声にも気をとめないで、

紫の蹲(しゃが)んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。

 

    (水色のプラットホームと

     躁(はしゃ)ぐ少女と嘲笑(あざわら)うヤンキイは

     いやだ いやだ!)

 

ぽけっとに手を突込んで

路次(ろじ)を抜け、波止場(はとば)に出(い)でて

今日の日の魂に合う

布切屑(きれくず)をでも探して来よう。

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

今回はここまで。

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