中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「秋の一日」
中原中也は
1926年(大正15年・昭和元年)1月16日付けの正岡忠三郎宛書簡で
正岡に原語(フランス語)版のランボー著作集の送付を依頼し
1月26日付け書簡で
それを入手した御礼を書き送りました。
前年11月に長谷川泰子は中也から去り
小林秀雄と暮らしはじめましたから
上京して一人で迎えた新年はじめのことです。
◇
この年に
「むなしさ」「朝の歌」「臨終」は書かれました。
年譜によると
この順序で制作されたようですが
断定はできません。
「山羊の歌」には
「初期詩篇」の中に
「朝の歌」の次に「臨終」が配置され
「むなしさ」は「在りし日の歌」の2番詩として配置されました。
「むなしさ」は
最初、1番詩(冒頭詩)の計画でしたが
長男文也の死の影響で
「含羞(はじらい)」に替えられました。
◇
「むなしさ」と「朝の歌」と「臨終」と――。
この3作が
中也の詩活動の起点となりました。
「朝の歌」は
「詩的履歴書」(1936年)に、
大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見
せる最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった十四行書くため
に、こんなに手数がかかるのではとガッカリす。
――と記されるほどに
重大な生涯の出来事でした。
◇
この1926年という年に
詩人はランボー詩集の原書を手に入れ
本格的に取り組むことになります。
◇
それでは
ランボーが「山羊の歌」に現われるのは
いつだったのでしょうか?
「初期詩篇」をひもとくと
なんといってもはじめに目に飛び込んでくるのは
この詩です。
◇
秋の一日
こんな朝、遅く目覚める人達は
戸にあたる風と轍(わだち)との音によって、
サイレンの棲む海に溺れる。
夏の夜の露店の会話と、
建築家の良心はもうない。
あらゆるものは古代歴史と
花崗岩(かこうがん)のかなたの地平の目の色。
今朝はすべてが領事館旗(りょうじかんき)のもとに従順で、
私は錫(しゃく)と広場と天鼓(てんこ)のほかのなんにも知らない。
軟体動物のしゃがれ声にも気をとめないで、
紫の蹲(しゃが)んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。
(水色のプラットホームと
躁(はしゃ)ぐ少女と嘲笑(あざわら)うヤンキイは
いやだ いやだ!)
ぽけっとに手を突込んで
路次(ろじ)を抜け、波止場(はとば)に出(い)でて
今日の日の魂に合う
布切屑(きれくず)をでも探して来よう。
(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)
◇
今回はここまで。
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