中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その18>/小林秀雄の絶交
小林秀雄が中也を絶交したという年譜の記述は
10月23日(1925年)の項にあり
正岡忠三郎宛の富永太郎書簡に拠っています。
この書簡の全文を読んでおきましょう。
◇
其後病気どうした?
こっちは未だ立てそうにもない そろそろ練習しなくてはいけないのだそうだが面倒くさい
実際何をするのも面倒くさい
一日中あうのけになっているのだが本を読むのも、ものを考えるのさえ面倒だ それに咳
が出たり呼吸が苦しかったりするので口をきくのまでが面倒になった
近頃は全く誰一人訪ねて来ないが結局好都合になっている それに近頃は人に会う興味
などまるで無いし また会うと妙にあてはづれしか感じないので却って楽だ 尤もダダさん
だけは相変らずずいぶんちょいちょい来るが これとてもこの頃では一向有難からぬことに
なっている 仔細はというほどでもないが かれこの頃小林に絶交を申渡されたのだ
前々からのダダさんの話で考えると 例の悪癖が小林を怒らせてしまったことは明白なの
だが、またそれに一向気づかぬ当人でもないのだが「小林という男はちがった生活の人間
に接していると焦燥を感じる質なので遂にそれが高潮に達して今度のことになったのだ」と
演説口調で云って見たり 小林をセンチメンタルだの馬鹿正直だのと言ってみたり、その後
小林がある友達に話したという「俺は友達を間違えたんだ」という言葉をどこからかきいて
来て「小林もずいぶん失敬したと思っていたがこれでそうではなくなった」などと愚にもつか
にことをいうので僕を怒らせてしまった
尤も近頃は来ても僕は殆んど一言も口をきかず むこうでしゃべりたいことだけしゃべって
帰ってしまう有様なので 勿論反駁などしたことはないし出した以上は止めるわけには行
かぬ そんなことを考えるとたまらなくなる
こんな工合になっているのはつまりもうペテルブルグを見棄てて采邑へ帰るべき時なんだ
な 一日中寝間着の帯へ手をはさんで書斎の窓から農奴の働くのを眺めにに帰る時なん
だなそれにしても 一生悪執事にチョロマカサれ通しても死ぬまで無くならぬ所領があると
いい
もう止めよう
(「新編中原中也全集」別巻(下)より。新かなに変え、改行を加えました。編者。)
◇
この書簡の少し前に
小林は中也と絶交したことになりますから
12月21日の富永太郎遺稿集出版相談会までは
2か月余りということになります。
この相談会で
小林秀雄と中原中也は
口をきかなかったのでしょうか。
それとも
普通に言葉を交わしたのでしょうか。
絶交は続いていたのでしょうか。
◇
もとより絶交という実態を
富永太郎が目撃したわけではなく
正岡宛の書簡は
小林とのやりとりの中で知っただけの話を書いたはずのものですから
親しい者同士のため口で伝わった話が
誇張されたという可能性もないものではありません。
絶交という言葉そのものが
一人歩きしていたのかもしれません。
小林が中也を絶交したということが
たとえ事実であっても
わずか2か月で富永太郎遺稿詩集出版の打ち合わせの会合で
2人は顔を合わせました。
そしてこの2か月の間に
小林は長谷川泰子と密通していたのですから
絶交を言い渡す側にあったというのにも
無理が残ります。
友人のパートナーを奪ったうえで
その友人を絶交したというには
奪った側に相当の理由がなければならないでしょうし。
◇
富永太郎は
小林秀雄と長谷川泰子の恋愛の進行を
10月23日のこの書簡を書いている時に
知らなかったということです。
知っていれば
この書簡の内容は
もっと他の調子になっていたかもしれませんし。
◇
今回はここまで。
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