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2018年5月 8日 (火)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その20>/小林秀雄・恋の頂点

 

 

私はNに対して初対面の時から、魅力と嫌悪とを同時に感じた。

――と小林秀雄の手記断片は続きます。

 

富永太郎が中原中也について

ダダイストとのdégoutに満ちたamitiéに淫して40日を徒費した

――と村井康男に書き送ったのが

1924年(大正13年)11月のことでした。

 

それから1年も経っていません。

 

小林秀雄も富永太郎も

中也に対して

両極に分裂した感覚を抱いたところで

同じでした。

 

 

Nは確かに私の持っていないものを持っていた。ダダイスト風な、私と正反対の虚無を持っ

ていた。しかし嫌悪はどこから来るのか解らなかった。彼はそれを早熟の不潔さなのだと

説明した。

 

(「新編中原中也全集」別巻(上)より。新かなに変えました。編者。)

 

 

1925年9月7日の日付をもつこの手記は

日記か書簡かの下書として書かれたものと推定されています。

 

小林秀雄は昭和3年(1928年)5月、

泰子との同棲生活に終止符を打ち

泰子から逃げる格好で関西へ下りますが

この手記を泰子が保管していました。

 

泰子が保管していたものが

戦後、昭和22年(1947年)に大岡昇平の手に渡り

やがて「朝の歌」で公開されます。

 

 

この手記断片とともに

日付不明の断片があります。

 

9月7日の手記を

いったん中断してから再び書かれたものか

同日に書かれたものか不明ですが

小林秀雄の恋は絶頂に達しているかのようです。

 

 

 私は自分が痴情の頂点にあると思った。

 

 こんなことがあった。Nは私に、君は、この辺で物を考えると言って、手を眼の下にやった。

そして俺はこの辺で考えていると額に手をやった。傍らでY子が、あたしはこの辺だわと白

魚のような指を揃えて頭の頂点にのせた。私は彼女がいつか、いんげん豆が椅子を降り

て来る夢を見たと話したことを思い出した。

 

(同上。)

 

 

小林と中也と泰子の3人が

親し気に語らっている情景が彷彿(ほうふつ)として来ますが

この時、3人は3様の思いを心の中に

秘めていたということになり

そのことを知りながら小林秀雄がこれを記しているところに

小説的な面白さみたいなものがあります。

 

やはりここには

虚構(フィクション)への意志が

あったのでしょうか。

 

 

ここに長谷川泰子が現われ

2人の男にジョークで伍しているのも

自然ですしリアルです。

 

 

今回はここまで。

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