中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その21>/長谷川泰子のまなざし
小林秀雄と中原中也と長谷川泰子の3人が
街を歩きながら
書生っぽいジョークを言い合っている
1925年9月の青山通り。
泰子の心は
すでに小林に傾いていました。
この場面に通じる
泰子の回想があります。
◇
富永さんが亡くなったのは、大正14年の11月でした。電報で中原に知らせて来ました。
中原は「富永が亡くなった」と私にいいました。それから中原がどうしたか、覚えておりませ
ん。富永さんも死んじゃったかと思いながらも、私の人生問題のほうに頭がいっぱいでし
た。もうあのころは小林のところへ行くことを、内心きめてました。
◇
作家、村上護による聞き書き「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」(角川ソフィア文庫)で
長谷川泰子は小林との出会いと別れの経緯を
走り抜けるように語っています。
富永太郎が死んだころに
泰子が人生問題で頭がいっぱいだったというのは
小林秀雄が
自分が人生の入口に立っていた事を記すのとパラレルです。
泰子のこの回想の続きに語られるエピソードに
泰子という人間の一側面が浮かび上がります。
一側面という以上に
泰子が泰子自身を捉えた全体像が浮き彫りになります。
中也も現れて
「永遠の三角関係(エターナル・トライアングル)」みたいな光景が出現しますが
おっとりした口調の中に
繊細な泰子その人が出現します。
◇
私はのちに潔癖症というのに悩まされるんですが、考えてみると高円寺のころから、その
兆候はありました。高円寺の家に梅の木があって、その梅の実が2階の屋根にポトッ、ポ
トッと落ちるんです。それがはじめは何の音だかわからなく、屋根を人が歩いているのかと
思いました。恐ろしくって、しばらくは息をころしておりました。だけど人ではないらしいの
で、外に出て家のまわりをめぐってみると、梅の実が落ちているんです。それで安心しまし
たが、私は気になりだすと、どうにも気分の転換ができなくなるんです。
(同上書。)
◇
中也と泰子の会話が
この頃の2人の絡まりあった気持ちを象徴しています。
◇
中原も夜遅く帰って来て、やっぱりその音が気になりだしたんです。起き出して「あれは泥
棒だ」といいました。
「あれは梅の実が屋根に落ちている音なのよ」
「いいや、泥棒だ」
「梅の実よ」
「いいや、泥棒だ、動いている」
中原は私が戸外に出て、それを確かめたことをいっても信じないんです。泥棒が玄関から
来るといって、階段のところに腰かけて、じっと見ているんです。私もやっぱり起き出さずに
おれません。
「梅の実が落ちてるんだから」
「シィーッ、影が動く」
「梅の音よ」
「泥棒だ」
こうなってくると、私はもう寝られません。梅の実が屋根に落ちる音だとおもっていたか
ら、別にその音が気にならなくなっていましたけど、中原がこんなにまでいうと、その音を泥
棒のだとは思わなくても、別の強迫観念みたいなものが、わたしの心に頭をもたげてきた
んです。
(同。)
◇
泰子はここまで喋って
この状態の自分の潔癖症が
中原と同棲時にはそれほどひどいものではなく
ひどくなったのは
小林のところへ行ってからだったことをあかします。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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