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2018年5月16日 (水)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その25>/悔しき人

 

 

「或る男の肖像」は

1937年(昭和12年)8月にはじめられた「在りし日の歌」の編集で

「或る夜の幻想」のうちの「彼」を主格にして再構成されたものです。

 

長谷川泰子が小林秀雄と暮らしはじめたのは

中也上京の年、1925年、18歳のときでした。

 

それから10余年の歳月が流れています。

 

 

「在りし日の歌」の清書原稿は

1937年9月、中也自ら小林秀雄に手渡され

1か月後に中也は急逝しますが

翌年(1938年)に小林の尽力で刊行されました。

 

 

「或る男の肖像」は

時の洗礼を受けて漂白された

恋の記録です。

 

恋の残滓(ざんし)というには真新しい

洗い晒(ざら)しの木綿の艶(つや)が残ります。

 

10年の歳月を経て

茫々とする記憶をたどれば

壁の中に消えた彼女を忘れるようにしてなのか

机を拭いている彼は脱け殻のようです。

 

 

中也は泰子に逃げられた事件を

およそ3年後の1928年(昭和3年)に

「我が生活」という散文(小説)に記し

「悔しき人」の内面を告白しました。

 

 

 私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶めることが出来ていたのと確信する。

つまり、私は自己統一ある奴であったのだ。若し、若々しい言い方が許して貰えるなら、私

はその当時、宇宙を知っていたのである。手短かに云うなら、私は相対的可能と不可能の

限界を知り、そうして又、その可能なるものが如何にして可能であり、不可能なるものが如

何に不可能であるかを知ったのだ。私は厳密な論理に拠った、而して最後に、最初見た神

を見た。

 

 然るに、私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、私はただもう口

惜しくなるのだった。――このことは今になってようやく分るのだが、そのために私は甞て

の日の自己統一の平和を、失ったのであった。全然、私は失ったのであった。一つにはだ

いたい私がそれまでに殆んど読書らしい読書をしていず、術語だの伝統だのまた慣用形

象などに就いて知る所殆んど皆無であったのでその“口惜しさ”に遇って自己を失ったので

もあっただろう。

 

 とにかく私は自己を失った! 而も私は自己を失ったとはその時分ってはいなかったの

である! 私はただもう口惜しかった。私は「口惜しき人」であった。

 

(「新編中原中也全集」第4巻・「評論・小説」より。新かなに変え、改行を加えました。原文

の傍点は” “で示しました。編者。)

 

※「我が生活」は、青空文庫で全文を読むことができます。

 

 

事件から3年ほどが経っていますが

ほとぼりが完全に消えていないなかで

冷めた眼差しがなければ

これほど詳細に記すこともできなかったはずのものです。

 

悔しい、悔しいと

詩人は何度も繰り返していますがしかし

その悔しさの感情を掌中のものにしているようです。

 

つまりは冷静に捉えています。

 

書くことができたのですから。

 

 

「或る男の肖像」に

悔しさは微塵(みじん)もありません。

 

彼(=或る男)はすでに

死んだ人です。

 

「在りし日の歌」の絶唱詩群が集められた「永訣の秋」の

「冬の長門峡」の前に置かれてあるのにも

詩人の強い意図を感じずにいられません。

 

 

今回はここまで。

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