中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その25>/悔しき人
「或る男の肖像」は
1937年(昭和12年)8月にはじめられた「在りし日の歌」の編集で
「或る夜の幻想」のうちの「彼」を主格にして再構成されたものです。
長谷川泰子が小林秀雄と暮らしはじめたのは
中也上京の年、1925年、18歳のときでした。
それから10余年の歳月が流れています。
◇
「在りし日の歌」の清書原稿は
1937年9月、中也自ら小林秀雄に手渡され
1か月後に中也は急逝しますが
翌年(1938年)に小林の尽力で刊行されました。
◇
「或る男の肖像」は
時の洗礼を受けて漂白された
恋の記録です。
恋の残滓(ざんし)というには真新しい
洗い晒(ざら)しの木綿の艶(つや)が残ります。
10年の歳月を経て
茫々とする記憶をたどれば
壁の中に消えた彼女を忘れるようにしてなのか
机を拭いている彼は脱け殻のようです。
◇
中也は泰子に逃げられた事件を
およそ3年後の1928年(昭和3年)に
「我が生活」という散文(小説)に記し
「悔しき人」の内面を告白しました。
◇
私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶めることが出来ていたのと確信する。
つまり、私は自己統一ある奴であったのだ。若し、若々しい言い方が許して貰えるなら、私
はその当時、宇宙を知っていたのである。手短かに云うなら、私は相対的可能と不可能の
限界を知り、そうして又、その可能なるものが如何にして可能であり、不可能なるものが如
何に不可能であるかを知ったのだ。私は厳密な論理に拠った、而して最後に、最初見た神
を見た。
然るに、私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、私はただもう口
惜しくなるのだった。――このことは今になってようやく分るのだが、そのために私は甞て
の日の自己統一の平和を、失ったのであった。全然、私は失ったのであった。一つにはだ
いたい私がそれまでに殆んど読書らしい読書をしていず、術語だの伝統だのまた慣用形
象などに就いて知る所殆んど皆無であったのでその“口惜しさ”に遇って自己を失ったので
もあっただろう。
とにかく私は自己を失った! 而も私は自己を失ったとはその時分ってはいなかったの
である! 私はただもう口惜しかった。私は「口惜しき人」であった。
(「新編中原中也全集」第4巻・「評論・小説」より。新かなに変え、改行を加えました。原文
の傍点は” “で示しました。編者。)
※「我が生活」は、青空文庫で全文を読むことができます。
◇
事件から3年ほどが経っていますが
ほとぼりが完全に消えていないなかで
冷めた眼差しがなければ
これほど詳細に記すこともできなかったはずのものです。
悔しい、悔しいと
詩人は何度も繰り返していますがしかし
その悔しさの感情を掌中のものにしているようです。
つまりは冷静に捉えています。
書くことができたのですから。
◇
「或る男の肖像」に
悔しさは微塵(みじん)もありません。
彼(=或る男)はすでに
死んだ人です。
「在りし日の歌」の絶唱詩群が集められた「永訣の秋」の
「冬の長門峡」の前に置かれてあるのにも
詩人の強い意図を感じずにいられません。
◇
今回はここまで。
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