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中原中也を歌う(曲と歌:桜木うさこさん)

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2018年5月

2018年5月31日 (木)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/亡き乙女たちと「深夜の思い」

 

 

「朝の歌」

「臨終」

「都会の夏の夜」

「秋の一日」

「黄昏」

「深夜の思い」

「冬の雨の夜」

「帰郷」

――という「山羊の歌」「初期詩篇」の並びに

ここで注目してみることにしましょう。

 

とりわけ

「深夜の思い」と

「冬の雨の夜」という

二つの詩のつながりについて。

 

そのためにここで

「深夜の思い」を呼び出してみます。

 

 

深夜の思い

 

これは泡立つカルシウムの

乾きゆく

急速な――頑(がん)ぜない女の児の泣声(なきごえ)だ、

鞄屋(かばんや)の女房の夕(ゆうべ)の鼻汁だ。

 

林の黄昏は

擦(かす)れた母親。

虫の飛交(とびか)う梢(こずえ)のあたり、

舐子(おしゃぶり)のお道化(どけ)た踊り。

 

波うつ毛の猟犬見えなく、

猟師は猫背を向(むこ)うに運ぶ。

森を控えた草地が

  坂になる!

 

黒き浜辺にマルガレエテが歩み寄(よ)する

ヴェールを風に千々(ちぢ)にされながら。

彼女の肉(しし)は跳び込まねばならぬ、

厳(いか)しき神の父なる海に!

 

崖の上の彼女の上に

精霊が怪(あや)しげなる条(すじ)を描く。

彼女の思い出は悲しい書斎の取片附(とりかたづ)け

彼女は直(じ)きに死なねばならぬ

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

この詩に現れる、

 

頑(がん)ぜない女の児

鞄屋(かばんや)の女房

擦(かす)れた母親

マルガレエテ

――がどのような意味を背負っているのか

読み方はさまざまですが

マルガレエテだけは

長谷川泰子であることを疑えません。

 

第3連、第4連は

詩人を捨て去った泰子が

神の厳罰を受けるべき存在であることを

マルガレエテに見立てて歌っています。

 

 

「冬の雨の夜」に出てくる

亡き乙女たちは

この詩に現れる女たち(女の児を含めて)に起源を持ち

その中のマルガレエテ(長谷川泰子)のように

すでに死んでしまった世界の女性のイメージを

形象化したものではないでしょうか。

 

亡き乙女たちの「たち」が気になるところですが

マルガレエテを含む女性たちは

死んでしまったり

過去に遠ざかって思い出だけになったりした

亡き女たちと呼んでおかしくない

一群の存在と読むのは無理でしょうか。

 

長谷川泰子は

マルガレエテになった時に

すでに現実の長谷川泰子ではなく

物語の中の存在であり

その彼女は亡き乙女たちの一人なのでした。

 

 

今回はここまで。

2018年5月30日 (水)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「暗い天候三つ」

 

 

「ブリュッセル」の詩行の

発声練習の音節のようなものが

「冬の雨の夜」に現われたのは

死んだ乙女たちの声のイメージが

誘い出されたからでしょう。

 

土砂降りの雨が

死んだ乙女たちを呼んだのです。

 

 

「冬の雨の夜」は

初出の「白痴群」第5号(1930年1月1日発行)では

「暗い天候三つ」というタイトルの

3節構成の第1節でした。

 

「山羊の歌」に収録されたときに

第1節が独立し

「冬の雨の夜」のタイトルがつけられました。

 

第2節と第3節は

以後、再公開されることは無かったのですが

ここに死んだ女たちの声につながる

ヒントが見つかるかもしれません。

 

「新編中原中也全集」には

「生前発表詩篇」の中に

「暗い天候(二・三)」として収録されています。

 

 

暗い天候(二・三)

 

   二

 

こんなにフケが落ちる、

   秋の夜に、雨の音は

トタン屋根の上でしている……

   お道化(どけ)ているな――

しかしあんまり哀しすぎる。

犬が吠える、虫が鳴く、

   畜生(ちくしょう)! おまえ達には社交界も世間も、

ないだろ。着物一枚持たずに、

   俺も生きてみたいんだよ。

吠えるなら吠えろ、

   鳴くなら鳴け、

目に涙を湛(たた)えて俺は仰臥(ぎょうが)さ。

   さて、俺は何時(いつ)死ぬるのか、明日(あした)か明後日(あさって)か……

――やい、豚、寝ろ!

こんなにフケが落ちる、

   秋の夜に、雨の音は

トタン屋根の上でしている。

   なんだかお道化ているな

しかしあんまり哀しすぎる。

 

   三

 

この穢(けが)れた涙に汚れて、

今日も一日、過ごしたんだ。

暗い冬の日が梁(はり)や壁を搾(し)めつけるように、

私も搾められているんだ。

赤ン坊の泣声や、おひきずりの靴の音や、

昆布や烏賊(するめ)や洟紙(はながみ)や首巻や、

みんなみんな、街道沿(かいどうぞ)いの電線の方へ

荷馬車の音も耳に入らずに、舞い颺(あが)り舞い颺り

吁(ああ)! はたして昨日が晴日(おてんき)であったかどうかも、

私は思い出せないのであった。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

「二」は、秋の夜を、

「三」は、暗い冬の夜を歌っています。

 

「三」では、雨は降っていません。

 

これに「冬の雨の夜」となる前の「一」が加わり

一体の詩でした。

 

「一」は土砂降りの雨の夜です。

 

 

季節が変わるほどに長い時間が

元の詩「暗い天候三つ」には流れていました。

 

詩全体は

「三」の終行、

 

吁(ああ)! はたして昨日が晴日(おてんき)であったかどうかも、

私は思い出せないのであった。

 

――という混乱、茫然自失の流れに向っています。

 

この流れに詩人を追いやったものは

何だったのでしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年5月28日 (月)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「ブリュッセル」

 

 

ランボーの「ブリュッセル」Bruxellesは

どんな詩でしょうか。

 

これも目を通しておきましょう。

 

 

ブリュッセル     

 

快きジュピター殿につゞける

葉鶏頭(はげいとう)の花畑。

――これは常春藤(きづた)の中でその青さをサハラに配る

君だと私は知つてゐる。

 

して薔薇と太陽の棺と葛のやうに

茲(ここ)に囲はれし眼を持つ、

小さな寡婦(かふ)の檻! ……

                 なんて

鳥の群だ、オ イア イオ、イア、イア イオ!……

 

穏かな家、古代の情熱!

ざれごとの四阿屋(あずまや)。

薔薇の木の叢(むら)尽きる所、蔭多きバルコン、

ジュリエットよりははるか下に。

 

ジュリエットは、アンリエットを呼びかへす、

千の青い悪魔が踊つてゐるかの

果樹園の中でのやうに、山の心に、

忘れられない鉄路の駅に。

 

ギタアの上に、驟雨(しゅうう)の楽園に

唱ふ緑のベンチ、愛蘭土(アイルランド)の白よ。

それから粗末な食事場や、

子供と牢屋のおしやべりだ。

 

私が思ふに官邸馬車の窓は

蝸牛(かたつむり)の毒をつくるやうだ、また

太陽にかまはず眠るこの黄楊(つげ)を。

               とにまれ

これは大変美しい! 大変! われらとやかくいふべきでない。

 

     ※

 

――この広場、どよもしなし売買ひなし、

それこそ黙つた芝居だ喜劇だ、

無限の舞台の連り、

私はおまへを解る、私はおまへを無言で讃へる。

 

(「新編中原中也全集」第3巻・翻訳より。)

 

 

ブリュッセルは

ベルギー国の首都であり

ランボーの生地、シャルルビルに近い都会であり

ランボーがヴェルレーヌと放浪した地であり

ヴェルレーヌがランボーに発砲した事件を起こした街でもあります。

 

これらの何かが

「ブリュッセル」に映っているのかわかりません。

 

ブリュッセルという土地への讃歌なのでしょうか

その逆なのでしょうか

ランボー一流のアレゴリカル(風刺的)な語彙の使用が読み取れますが

ここでは中也が

鳥の群だ、オ イア イオ、イア、イア イオ!……

――の1行を取り出したことを知るだけで十分です。

 

この1行が

死んだ乙女たちの声になるのです、

中也の「冬の雨の夜」では。

 

 

中也が原典とした第2次ベリション版は

「ブリュッセル」という題名が通用していましたが

後の研究では

ブリュッセルはタイトルではなく

詞書のようなものであることがわかり

無題の作品として現在では扱われているそうです。

 

 

まだ措辞が整っていないのは

この訳が制作途中だからなのでしょう。

 

初めて訳したときの

逐語訳に近い草稿を

いつかまた完成稿に仕上げるために

記録しておいたほどのものだったのでしょう。

 

何が書かれているのか

全体をつかむために

こうして逐語訳を取っておくことは

よく行われる方法です。

 

 

今回はここまで。

2018年5月27日 (日)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「冬の雨の夜」

 

 

「山羊の歌」の「初期詩篇」で

ランボーが現われるもう一つの詩が

「冬の雨の夜」です。

 

 

冬の雨の夜

 

 冬の黒い夜をこめて

どしゃぶりの雨が降っていた。

――夕明下(ゆうあかりか)に投げいだされた、萎(しお)れ大根(だいこ)の陰惨さ、

あれはまだしも結構だった――

今や黒い冬の夜をこめ

どしゃぶりの雨が降っている。

亡き乙女達(おとめたち)の声さえがして

aé ao, aé ao, éo, aéo éo!

 その雨の中を漂いながら

いつだか消えてなくなった、あの乳白の脬囊(ひょうのう)たち……

今や黒い冬の夜をこめ

どしゃぶりの雨が降っていて、

わが母上の帯締(おびじ)めも

雨水(うすい)に流れ、潰(つぶ)れてしまい、

人の情けのかずかずも

竟(つい)に密柑(みかん)の色のみだった?……

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

この詩を

1字下げではじまる前節と後節に分けたとして

前節の終行にあたる部分、

 

亡き乙女達(おとめたち)の声さえがして

aé ao, aé ao, éo, aéo éo!

 

――のこの声は

ランボーの「ブリュッセル」から

直接に取ったものと推測されています。

 

中原中也が

ランボーの「ブリュッセル」を翻訳したのは

昭和4年から8年の間と推定されていますが

この詩の第10行に、

 

鳥の群れだ、オ イア イオ、イア イオ!……

 

――とあるイメージを

幼少時の原風景の描写に取り込んだもののようです。

 

 

父の経営する病院と

中也少年の暮らしは地続きでしたから

萎(しお)れ大根(だいこ)や

乳白の脬囊(ひょうのう)たちや

母上の帯締(おびじ)め……など

普段よく目にするものだったのでしょう。

 

あの頃からどれほどの時が経過したでしょうか

今、目の前にある

冬の雨の夜の風景が

幼少期に馴染んだ陰惨な思い出を呼び覚まします。

 

土砂降りの雨の

漆黒の中からは

死んだ乙女たちの声さえ聞こえてきそうです。

 

実際にそれが聞こえたと

詩は歌っているものではないのに

その声が聞こえているのは

この

aé ao, aé ao, éo, aéo éo!

――のせいなのでしょう。

 

 

「ブリュッセル」から

死んだ乙女たちの声が

引き出されました。

 

 

今回はここまで。

2018年5月26日 (土)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/大木篤夫の「わが放浪」

 

 

「わが放浪」Ma Bohèmeの同時代翻訳として

「新編中原中也全集」が案内するもう一つの詩は

大木篤夫(後の大木惇夫)の制作です。

 

同全集にこちらは

掲出されていませんが

参考のために読んでおきましょう。

 

 

わが放浪

 

俺は行く、裂けた衣嚢(かくし)に 両の拳(こぶし)を突ッ込んで。

今では俺の外套も 理想ばかりになつてしまつた。

俺は行く、大空の下を、ミューズよ、私はあなたの賛美者です。

――まあ、まあ、何と、すばらしい愛を夢見るものだ!

 

この一張羅の半ズボンには 大きな孔が一つ、それでも、

夢想家プチイ・プセエのこの俺は、行く道すがら韻を踏む。

俺の宿は大熊星座のなかにある、

俺の星々は高い空から珊々(さんさん)と鳴る、

 

俺は恍(うつと)りそれに聴き入る、路ばたに腰を下ろして、

かうした九月の美しい晩、額にかゝる露のしづくを

俺は感じる、芳しい葡萄酒のやうに。

 

かうした夜(よる)は、幻めいた影のさなかで、詩の韻を合はすのだ。

片足を胸の上まで持ちあげて、七絃琴でも奏(ひ)くやうに

ピイーン・ピイーンと弾(はじ)くのだ、破れた靴のゴム絲を!

 

(ARS「近代佛蘭西詩集」1928年初版より。)

 

 

中原中也の日記や書簡などに

この詩を読んだ形跡を見ることはできませんが

読まなかったという確実な証拠が存在するものではありませんし

たとえば古本店でふとした折に立ち読みしたとか

知人が所有しているのを読ませてもらったとか

そういうことがあった可能性を否定できるものでもありません。

 

ランボー翻訳の同時代の状況や空気などを

知っておいて無駄なことではないでしょう。

 

 

今回はここまで。

2018年5月25日 (金)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/三富朽葉の「魂の夜」

 

 

三富朽葉は

フランス詩を早稲田大学に入った頃から学びはじめ

没するまでのおよそ10年間

自らの創作詩に摂取したり

詩や評論の翻訳にも早くから取り組みました。

 

翻訳は

ボードレール

マラルメ

ヴェルハーレン

アルチュール・ランボー

――らの象徴主義の詩および詩論におよびました。

 

 

自作詩のなかでも

どうしてもここで読んでおきたい散文詩「魂の夜」には

「1911―1912」という制作年が記されています。

 

明治44、45年に作られた詩です。

 

 

魂の夜

 

 もはや、秋となつた。やがて此の明るい風物に続いて、鴉の群れが黒い礫のやうに灰色の

空を飛び散る、鬱陶しい冬が来るであらう。

 四季と群集との中に在つて、脆く苦い、また物怖ぢする私の生命をば運命は異様に麗しく

飾つた。私は常に感性の谷間を彷徨つて空気から咽喉へ濃い渇きを吸つた。又、夢魔に

圧されるやうな私のか碧い生活の淵にも、時時幽妙な光りが白んで煌いた。幽玄と酷薄と

の海に溺れて、私の紅い祈禱と生命の秘鍵とは永久に沈み入るであらう。

 秋の夜の長い疲労の後、私は眠られぬまま、とりとめのない、やや熱に浮かされたやうな

物思ひに耽つてゐた。

 

 私は何処とも知れぬ丘の上に、ゆるやかなマントオに身を包ませて、土塗れのまま横はつ

ている。眼の上には一旒の黒い旗がどんよりと懸かつていて、その旗は夏の白日の太陽

の輝くやうに烈しく私の額を照した。

 

 私は薄ら明りの高窓から海底のやうな外を覗いた。遠方にもう夜が静かに紅い翅を伸し拡

げ、蒼い瞳を見開いてゐる。私の唯一の宝はおもむろに彼方の夜の中に掻き消えてしま

つた。

 

 泉の周辺に色や匂ひが一杯に溢れてゐる。その傍を獣は一匹づつ、人は一人づつ、長い

間を置いて走る。獣は光の如く飛び、人は悲鳴を挙げた。いつまで見ていても影は一つづ

つであつた。

 

 私は何といふこともなく涙を落した。そして⦅愛⦆に対する消し難い悲歎に襲はれた。

 

 眼が覚めると、もう朝であつた! 雨の音と、そして、例へば牢獄の中へ僅かに射し入るよ

うな薄白い光線とが取り乱した身の周囲に零れてゐる……。

 

(牧神社「三富朽葉研究」中の村松剛「三富朽葉」より。)

 

 

この詩に

ボードレールの反響を見る人もいれば

マラルメの影を読む人もいますが

仏文学者、村松剛はとりわけアルチュール・ランボーの形跡があるのを

鋭敏に見て取りました。

 

 

「魂の夜」の冒頭の一節は、ボオドレールの「秋の歌」の反響を感じさせる。しかしそれは

はじめの数行だけで「もはや秋となつた」L’automne dèjà! をはじめ「生命の秘鍵」、「泉」と

「獣」、「牢獄」等の措辞は、明らかにむしろ『地獄の季節』『イリュミナシオン』から直輸入の

ものだろう。「魂の夜」という表題自体が、ランボオの「地獄の夜」を連想させる。

 

ランボオは『地獄の季節』や『イリュミナシオン』の中で、いくどか自分の過去をふりかえり、

それをいくつかの輝く断片として羅列して、たとえばこれに「青春」とか「生活」とかいう題を

付した。

 

「生活表」に収められた「魂の夜」「生活表」等の散文詩は、構成の上でも、その直接の影

響下に立っているのである。

 

(同上書より。)

 

 

三富朽葉は

小林秀雄に10余年先立ち

「アルチュール・ランボオ伝」を書きました。

 

ランボーの詩では、

「わがさすらひ」

「SENSATION」

「生ひ立ち」

――の3作を訳しただけでしたが。

 

 

今回はここまで。

2018年5月23日 (水)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)

 

 

中原中也が

昭和7年(1931年)秋から同11年(1936年)の間に制作したと推定される詩に

三富朽葉が現われるものがあります。

 

 

(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)

 

宵(よい)に寝て、秋の夜中に目が覚めて

汽車の汽笛の音(ね)を聞いた。

 

  三富朽葉(くちば)よ、いまいずこ、

  明治時代よ、人力も

  今はすたれて瓦斯燈(ガスとう)は

  記憶の彼方(かなた)に明滅す。

 

宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて

汽車の汽笛の音を聞いた。

 

  亡き明治ではあるけれど

  豆電球をツトとぼし

  秋の夜中に天井を

  みれば明治も甦る。

 

  ああ甦れ、甦れ、 

  今宵故人が風貌(ふうぼう)の

  げになつかしいなつかしい。

  死んだ明治も甦れ。

 

宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて

汽車の汽笛の音を聞いた。

 

(「新編中原中也全集」第2巻「詩Ⅱ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて

汽車の汽笛の音を聞いた。

――というのがこの詩を歌った動機のようですが

詩人は宵の口に寝て

夜中にふと目覚めてしまうことがよくあったようなのは

詩を書くためであったので

苦痛を感じているものではなく

覚醒した意識はいや増して冴えわたっていたのかもしれません。

 

故郷の両親はこの中に現われたでしょうか。

 

古き佳き時代、明治を詩は懐旧する中に

三富朽葉の名が出てくるのは

ついでというものではなく

かなりな本心が露出したことのようです。

 

中也は

ことあるごとに朽葉に言及し

業績への敬意を途切らすことはありませんでした。

 

 

昭和9年(1934年)9月に書いた未発表評論「無題(自体、一と息の歌)」では

新体詩以来の詩を概観して、

 

後期印象派の要求が要望される限り、明治以来今日に到るまで、辛うじて三富朽葉と、岩野泡鳴を数

へることしかできないやうに思はれる

――と記すほどに絶賛しています。

 

 

 

今回はここまで。

2018年5月22日 (火)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/三富朽葉「わがさすらひ」

 

 

「わが放浪」Ma Bohèmeの同時代訳として

「新編中原中也全集」(第3巻「翻訳」解題篇)は

二つの作品を案内しています。

 

一つは三富朽葉(みとみ・くちは)訳の「わがさすらひ」で 

大正15年(1926年)発行の「三富朽葉詩集」(第一書房)に、

一つは大木篤夫訳の「わが放浪」で

昭和3年(1928年)発行の「近代仏蘭西詩集」(アルス)に収録されているということで

このうちの三富朽葉訳が参考文献として掲載されています。

 

 

わがさすらひ

 

私は歩んだ 拳を底抜けの隠衣(かくし)へ、

上衣(うはぎ)も亦理想的に成つてゐる、

御(み)空の下を行く私は、ミュウズよ、私は御身の忠臣であつた、

オオ、ララ、どんなにすばらしい恋を私は夢みたであらう!

 

わが唯一のズボンは大穴ができてゐる、

一寸法師の夢想家の私は路路

韻をひねくつた。私の宿は大熊星に在つた。

わが空の星むらは優しいそよぎを渡らせた、

 

そして私はそれを聴いた、路傍(みちばた)に坐つて、

此の良い九月の宵毎に、露の雫の

わが額に、回生酒(きつけ)のやうなのを感じながら、

 

異様な影の中に韻を踏みながら

七絃のやうに、私はわが傷いた靴の

護謨紐(ごむひも)を引いた、片足を胸に当てて! 

 

 

 

三富朽葉詩集は

三富が千葉・犬吠埼の海で溺死してから

9年後の大正15年(1926年)に出版されました。

 

共に遊泳中の僚友、今井白楊が溺れているのを助けようとして

自らも命を落としたのは大正6年(1917年)のことでした。

 

 

中也が三富朽葉詩集を読んだのは

昭和11年(1936年)10月30日の日記に

先達から読んだ本として

何冊かの書籍を挙げる中に

三富朽葉詩集を記しているのが見つかりますが

昭和2年(1927年)6月4日の日記に、

 

岩野泡鳴

三富朽葉

高橋新吉

佐藤春夫

宮沢賢治

――などのメモがあり

早い時期に三富朽葉の詩を読んだ可能性があります。

 

「秋の一日」の制作が遡れる上限が

大正15年(1926年)であることを考えると

いっそう可能性は高くなる感じになりますが

だからといって

翻訳にその跡がはっきりしているわけではありません。

 

 

今回はここまで。

2018年5月20日 (日)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「わが放浪」」(Ma Bohème)

 

 

「秋の一日」が

ランボーの「わが放浪」(Ma Bohème)を

色濃く反映していると読み取ることは

自然な感性といってよいでしょう。

 

どのようにしていつ

それが行われたかを説明することはできませんが

詩行への反映は火を見るよりも明らかですし

放浪の気分の底にあるものも共通しています。

 

 

わが放浪

 

私は出掛けた、手をポケットに突っ込んで。

半外套(はんがいとう)は申し分なし。

私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。

さても私の夢みた愛の、なんと壮観だったこと!

 

独特の、わがズボンには穴が開(あ)いてた。

小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻ってた。

わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、

やさしくささやきささめいていた。

 

そのささやきを路傍(みちばた)に、腰を下ろして聴いていた

ああかの九月の宵々よ、酒かとばかり

額(ひたい)には、露の滴(しずく)を感じてた。

 

幻想的な物影の、中で韻をば踏んでいた、

擦り剥(む)けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、

竪琴みたいに弾きながら。

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

これは

中原中也が「ランボオ詩集」(1937年)に

翻訳したものです。

 

「秋の一日」の制作は

最も古く遡ったとして

大正15年(1926年)秋の可能性があります。

 

 

「秋の一日」の

ぽけっとに手を突込んで

――という1行が

そっくりそのままである上に

この放浪が

詩を作ることを歌っている詩であるところが

ピタリと軌を一にしています。

 

小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻ってた。

――は

今日の日の魂に合う

布切屑(きれくず)をでも探して来よう。

――と響き合います。

 

 

そうでありながら

「秋の一日」は中也の詩です。

 

 

秋の一日

 

こんな朝、遅く目覚める人達は

戸にあたる風と轍(わだち)との音によって、

サイレンの棲む海に溺れる。 

 

夏の夜の露店の会話と、

建築家の良心はもうない。

あらゆるものは古代歴史と

花崗岩(かこうがん)のかなたの地平の目の色。

 

今朝はすべてが領事館旗(りょうじかんき)のもとに従順で、

私は錫(しゃく)と広場と天鼓(てんこ)のほかのなんにも知らない。

軟体動物のしゃがれ声にも気をとめないで、

紫の蹲(しゃが)んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。

 

    (水色のプラットホームと

     躁(はしゃ)ぐ少女と嘲笑(あざわら)うヤンキイは

     いやだ いやだ!)

 

ぽけっとに手を突込んで

路次(ろじ)を抜け、波止場(はとば)に出(い)でて

今日の日の魂に合う

布切屑(きれくず)をでも探して来よう。

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

今回はここまで。

2018年5月19日 (土)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「秋の一日」

 

 

中原中也は

1926年(大正15年・昭和元年)1月16日付けの正岡忠三郎宛書簡で

正岡に原語(フランス語)版のランボー著作集の送付を依頼し

1月26日付け書簡で

それを入手した御礼を書き送りました。

 

前年11月に長谷川泰子は中也から去り

小林秀雄と暮らしはじめましたから

上京して一人で迎えた新年はじめのことです。

 

 

この年に

「むなしさ」「朝の歌」「臨終」は書かれました。

 

年譜によると

この順序で制作されたようですが

断定はできません。

 

「山羊の歌」には

「初期詩篇」の中に

「朝の歌」の次に「臨終」が配置され

「むなしさ」は「在りし日の歌」の2番詩として配置されました。

 

「むなしさ」は

最初、1番詩(冒頭詩)の計画でしたが

長男文也の死の影響で

「含羞(はじらい)」に替えられました。

 

 

「むなしさ」と「朝の歌」と「臨終」と――。

 

この3作が

中也の詩活動の起点となりました。

 

「朝の歌」は

「詩的履歴書」(1936年)に、

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見

せる最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった十四行書くため

に、こんなに手数がかかるのではとガッカリす。

 

――と記されるほどに

重大な生涯の出来事でした。

 

 

この1926年という年に

詩人はランボー詩集の原書を手に入れ

本格的に取り組むことになります。

 

 

それでは

ランボーが「山羊の歌」に現われるのは

いつだったのでしょうか?

 

「初期詩篇」をひもとくと

なんといってもはじめに目に飛び込んでくるのは

この詩です。

 

 

秋の一日

 

こんな朝、遅く目覚める人達は

戸にあたる風と轍(わだち)との音によって、

サイレンの棲む海に溺れる。 

 

夏の夜の露店の会話と、

建築家の良心はもうない。

あらゆるものは古代歴史と

花崗岩(かこうがん)のかなたの地平の目の色。

 

今朝はすべてが領事館旗(りょうじかんき)のもとに従順で、

私は錫(しゃく)と広場と天鼓(てんこ)のほかのなんにも知らない。

軟体動物のしゃがれ声にも気をとめないで、

紫の蹲(しゃが)んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。

 

    (水色のプラットホームと

     躁(はしゃ)ぐ少女と嘲笑(あざわら)うヤンキイは

     いやだ いやだ!)

 

ぽけっとに手を突込んで

路次(ろじ)を抜け、波止場(はとば)に出(い)でて

今日の日の魂に合う

布切屑(きれくず)をでも探して来よう。

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

今回はここまで。

2018年5月17日 (木)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その26>/恋の別れ

 

 

「在りし日の歌」の「永訣の秋」が

別れの章であることは

章題の字義通りのことです。

 

この章に

「あばずれ女の亭主が歌った」が配置されていることは

「或る男の肖像」が配置されていることとともに

瞠目(どうもく)しないでは済まされないことです。

 

この詩はさらに

「ゆきてかへらぬ」や

「村の時計」や

「米子」が配置されていることにも

目を奪うことになります。

 

いずれにも女性が登場し

この女性たちは何のつながりもないように見えますが

長谷川泰子の影を否定することができません。

 

 

あばずれ女の亭主が歌った

 

おまえはおれを愛してる、一度とて

おれを憎んだためしはない。

 

おれもおまえを愛してる。前世から

さだまっていたことのよう。

 

そして二人の魂は、不識(しらず)に温和に愛し合う

もう長年の習慣だ。

 

それなのにまた二人には、

ひどく浮気な心があって、

 

いちばん自然な愛の気持を、

時にうるさく思うのだ。

 

佳(よ)い香水のかおりより、

病院の、あわい匂(にお)いに慕いよる。

 

そこでいちばん親しい二人が、

時にいちばん憎みあう。

 

そしてあとでは得態(えたい)の知れない

悔(くい)の気持に浸るのだ。

 

ああ、二人には浮気があって、

それが真実(ほんと)を見えなくしちまう。

 

佳い香水のかおりより、

病院の、あわい匂いに慕いよる。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

この詩はなかでも

恋愛の爛熟(らんじゅく)を歌っていて

ひときわ元気です。

 

「或る男の肖像」の彼が

死んでいるのに

この詩では

生の頂点にある男女が主役です。

 

とはいえ

この詩は

永訣を歌った絶唱詩群の一つです。

 

 

今回はここまで。

2018年5月16日 (水)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その25>/悔しき人

 

 

「或る男の肖像」は

1937年(昭和12年)8月にはじめられた「在りし日の歌」の編集で

「或る夜の幻想」のうちの「彼」を主格にして再構成されたものです。

 

長谷川泰子が小林秀雄と暮らしはじめたのは

中也上京の年、1925年、18歳のときでした。

 

それから10余年の歳月が流れています。

 

 

「在りし日の歌」の清書原稿は

1937年9月、中也自ら小林秀雄に手渡され

1か月後に中也は急逝しますが

翌年(1938年)に小林の尽力で刊行されました。

 

 

「或る男の肖像」は

時の洗礼を受けて漂白された

恋の記録です。

 

恋の残滓(ざんし)というには真新しい

洗い晒(ざら)しの木綿の艶(つや)が残ります。

 

10年の歳月を経て

茫々とする記憶をたどれば

壁の中に消えた彼女を忘れるようにしてなのか

机を拭いている彼は脱け殻のようです。

 

 

中也は泰子に逃げられた事件を

およそ3年後の1928年(昭和3年)に

「我が生活」という散文(小説)に記し

「悔しき人」の内面を告白しました。

 

 

 私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶めることが出来ていたのと確信する。

つまり、私は自己統一ある奴であったのだ。若し、若々しい言い方が許して貰えるなら、私

はその当時、宇宙を知っていたのである。手短かに云うなら、私は相対的可能と不可能の

限界を知り、そうして又、その可能なるものが如何にして可能であり、不可能なるものが如

何に不可能であるかを知ったのだ。私は厳密な論理に拠った、而して最後に、最初見た神

を見た。

 

 然るに、私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、私はただもう口

惜しくなるのだった。――このことは今になってようやく分るのだが、そのために私は甞て

の日の自己統一の平和を、失ったのであった。全然、私は失ったのであった。一つにはだ

いたい私がそれまでに殆んど読書らしい読書をしていず、術語だの伝統だのまた慣用形

象などに就いて知る所殆んど皆無であったのでその“口惜しさ”に遇って自己を失ったので

もあっただろう。

 

 とにかく私は自己を失った! 而も私は自己を失ったとはその時分ってはいなかったの

である! 私はただもう口惜しかった。私は「口惜しき人」であった。

 

(「新編中原中也全集」第4巻・「評論・小説」より。新かなに変え、改行を加えました。原文

の傍点は” “で示しました。編者。)

 

※「我が生活」は、青空文庫で全文を読むことができます。

 

 

事件から3年ほどが経っていますが

ほとぼりが完全に消えていないなかで

冷めた眼差しがなければ

これほど詳細に記すこともできなかったはずのものです。

 

悔しい、悔しいと

詩人は何度も繰り返していますがしかし

その悔しさの感情を掌中のものにしているようです。

 

つまりは冷静に捉えています。

 

書くことができたのですから。

 

 

「或る男の肖像」に

悔しさは微塵(みじん)もありません。

 

彼(=或る男)はすでに

死んだ人です。

 

「在りし日の歌」の絶唱詩群が集められた「永訣の秋」の

「冬の長門峡」の前に置かれてあるのにも

詩人の強い意図を感じずにいられません。

 

 

今回はここまで。

2018年5月13日 (日)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その24>/「或る夜の幻想」初稿

 

 

ついでですから

元の「或る夜の幻想」を

読んでおきましょう。

 

この詩は初め

1937年(昭和12年)2月20日発行の「四季」に

発表されました。

 

詩人が亡くなった年です。

 

 

或る夜の幻想

 

    1 彼女の部屋

 

彼女には

美しい洋服箪笥があった

その箪笥は

かわたれどきの色をしていた

 

彼女には

書物や

其(そ)の他色々のものもあった

が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかったので

彼女の部屋には箪笥だけがあった

 

  それで洋服箪笥の中は
  
  本でいっぱいだった

 

     2 村の時計

 

村の大きな時計は、

ひねもす働いていた

 

その字板のペンキは、

もう艶が消えていた

 

近寄って見ると、

小さなひびが沢山にあるのだった

 

それで夕陽が当ってさえか、

おとなしい色をしていた

 

時を打つ前には、

ぜいぜいと鳴った

 

字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか、

僕にも、誰にも分からなかった

 

    3 彼 女

 

野原の一隅には杉林があった。

なかの一本がわけても聳(そび)えていた。

 

或る日彼女はそれにのぼった。

下りて来るのは大変なことだった。

 

それでも彼女は、媚態(びたい)を棄てなかった。

一つ一つの挙動は、まことみごとなうねりで

 

  夢の中で、彼女の臍(おへそ)は、

  背中にあった。

 

    4 或る男の肖像

 

洋行帰りのその洒落者は、

齢をとっても髪にはポマードをつけていた。

 

夜毎喫茶店にあらわれて、

其処の主人と話している様はあわれげであった。

 

死んだと聞いては、

いっそうあわれであった。

 

    5 無題

       ――幻滅は鋼のいろ。

 

髪毛の艶と、ラムプの金との夕まぐれ、

庭に向って、開け放たれた戸口から、

彼は戸外に出て行った。

 

剃りたての、頸条も手頸も、

どこもかしこもそわそわと、

寒かった。

 

開け放たれた戸口から

悔恨は、風と一緒に容赦なく

吹込んでいた。

 

読書も、しんみりした恋も、

暖かい、お茶も黄昏の空とともに

風とともにもう其処にはなかった。

 

    6 壁 

 

彼女は

壁の中に這入ってしまった

それで彼は独り、

部屋で卓子を拭いていた。

 

       (1933・10・10)

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ・解題篇」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

夢の中で、彼女の臍(おへそ)は、

  背中にあった。

――という前に彼女は

杉の木に登ったのでした。

 

そして降りて来るのに

難儀したのでした。

 

 

今回はここまで。

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その23>/「或る男の肖像」の彼女

 

 

「或る夜の幻想(一、三)」は

続いてこの詩「或る男の肖像」を読むように誘います。

 

 

或る男の肖像

 

   1

 

洋行(ようこう)帰(がえ)りのその洒落者(しゃれもの)は、

齢をとっても髪に緑の油をつけてた。

 

夜毎(よごと)喫茶店にあらわれて、

其処(そこ)の主人と話している様はあわれげであった。

 

死んだと聞いてはいっそうあわれであった。

 

   2

      ――幻滅は鋼(はがね)のいろ。

 

髪毛の艶(つや)と、ランプの金との夕まぐれ

庭に向って、開け放たれた戸口から、

彼は戸外(そと)に出て行った。

 

剃(そ)りたての、頸条(うなじ)も手頸(てくび)も

どこもかしこもそわそわと、

寒かった。

 

開け放たれた戸口から

悔恨(かいこん)は、風と一緒に容赦(ようしゃ)なく

吹込(ふきこ)んでいた。

 

読書も、しんみりした恋も、

あたたかいお茶も黄昏の空とともに

風とともにもう其処にはなかった。

 

   3

 

彼女は

壁の中へ這入(はい)ってしまった。

それで彼は独り、

部屋で卓子(テーブル)を拭(ふ)いていた。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

この詩「或る男の肖像」は

「在りし日の歌」に収録されて広く知られていますが

元は、

1 彼女の部屋

2 村の時計

3 彼女

4 或る男の肖像

5 無題

6 壁

――という6節構成の詩「或る夜の幻想」の第4節、第5節、第6節でした。

 

「在りし日の歌」では

6節のうちの

彼女を主語にした第1節と第3節は収録されず

第2節が「村の時計」として独立して収録され

第4節、第5節、第6節が「或る男の肖像」として独立して収録されました。

 

「或る男の肖像」にも

彼女が最終節に現われますが

彼女は壁の中へ這入ってしまうのです。

 

 

壁の中に這入ってしまうところ。

 

ここに

彼女の臍(おへそ)は、

背中にあった

――という詩行の反響があります。

 

小林秀雄の手記断片にある

いんげん豆が椅子を降りて来る夢

――にも通じるシュールな映像(イメージ)です。

 

 

今回はここまで。

2018年5月11日 (金)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その22>/或る夜の幻想

 

 

傍らでY子が、あたしはこの辺だわと白魚のような指を揃えて頭の頂点にのせた。私は彼

女がいつか、いんげん豆が椅子を降りて来る夢を見たと話したことを思い出した。

 

 

小林秀雄の手記のこの下りの

白魚のような指を揃えて頭の頂点にのせた。

――という部分に

泰子の美しい指先が鮮烈に捉えられていますね。

 

そして、後の方の下りの

いんげん豆が椅子を降りて来る

――という泰子が見た夢に

小林が泰子という女性の一側面(というより全体像)を

捉えているところが面白いですね。

 

 

この下りを読んだ時

中也の詩の一群を

無性に読みたくなったのに

理由はありませんでした。

 

 

或る夜の幻想(1・3)

 

   1 彼女の部屋

 

彼女には

美しい洋服箪笥(ようふくだんす)があった

その箪笥は

かわたれどきの色をしていた

 

彼女には

書物や

其(そ)の他(ほか)色々のものもあった

が、どれもその箪笥(たんす)に比べては美しくもなかったので

彼女の部屋には箪笥だけがあった

 

  それで洋服箪笥の中は  

  本でいっぱいだった

 

   3 彼 女

 

野原の一隅(ひとすみ)には杉林があった。

なかの一本がわけても聳(そび)えていた。

 

或(あ)る日彼女はそれにのぼった。

下りて来るのは大変なことだった。

 

それでも彼女は、媚態(びたい)を棄てなかった。

一つ一つの挙動(きょどう)は、まことみごとなうねりであった。

 

  夢の中で、彼女の臍(おへそ)は、

  背中にあった

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。新かなに変えてあります。編者。)

 

 

今回はここまで。

2018年5月10日 (木)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その21>/長谷川泰子のまなざし

 

 

小林秀雄と中原中也と長谷川泰子の3人が

街を歩きながら

書生っぽいジョークを言い合っている

1925年9月の青山通り。

 

泰子の心は

すでに小林に傾いていました。

 

この場面に通じる

泰子の回想があります。

 

 

 富永さんが亡くなったのは、大正14年の11月でした。電報で中原に知らせて来ました。

中原は「富永が亡くなった」と私にいいました。それから中原がどうしたか、覚えておりませ

ん。富永さんも死んじゃったかと思いながらも、私の人生問題のほうに頭がいっぱいでし

た。もうあのころは小林のところへ行くことを、内心きめてました。

 

 

作家、村上護による聞き書き「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」(角川ソフィア文庫)で

長谷川泰子は小林との出会いと別れの経緯を

走り抜けるように語っています。

 

富永太郎が死んだころに

泰子が人生問題で頭がいっぱいだったというのは

小林秀雄が

自分が人生の入口に立っていた事を記すのとパラレルです。

 

泰子のこの回想の続きに語られるエピソードに

泰子という人間の一側面が浮かび上がります。

 

一側面という以上に

泰子が泰子自身を捉えた全体像が浮き彫りになります。

 

中也も現れて

「永遠の三角関係(エターナル・トライアングル)」みたいな光景が出現しますが

おっとりした口調の中に

繊細な泰子その人が出現します。

 

 

 私はのちに潔癖症というのに悩まされるんですが、考えてみると高円寺のころから、その

兆候はありました。高円寺の家に梅の木があって、その梅の実が2階の屋根にポトッ、ポ

トッと落ちるんです。それがはじめは何の音だかわからなく、屋根を人が歩いているのかと

思いました。恐ろしくって、しばらくは息をころしておりました。だけど人ではないらしいの

で、外に出て家のまわりをめぐってみると、梅の実が落ちているんです。それで安心しまし

たが、私は気になりだすと、どうにも気分の転換ができなくなるんです。

 

(同上書。)

 

 

中也と泰子の会話が

この頃の2人の絡まりあった気持ちを象徴しています。

 

 

中原も夜遅く帰って来て、やっぱりその音が気になりだしたんです。起き出して「あれは泥

棒だ」といいました。

 

「あれは梅の実が屋根に落ちている音なのよ」

「いいや、泥棒だ」

「梅の実よ」

「いいや、泥棒だ、動いている」

 

中原は私が戸外に出て、それを確かめたことをいっても信じないんです。泥棒が玄関から

来るといって、階段のところに腰かけて、じっと見ているんです。私もやっぱり起き出さずに

おれません。

 

「梅の実が落ちてるんだから」

「シィーッ、影が動く」

「梅の音よ」

「泥棒だ」

 

 こうなってくると、私はもう寝られません。梅の実が屋根に落ちる音だとおもっていたか

ら、別にその音が気にならなくなっていましたけど、中原がこんなにまでいうと、その音を泥

棒のだとは思わなくても、別の強迫観念みたいなものが、わたしの心に頭をもたげてきた

んです。

 

(同。)

 

 

泰子はここまで喋って

この状態の自分の潔癖症が

中原と同棲時にはそれほどひどいものではなく

ひどくなったのは

小林のところへ行ってからだったことをあかします。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年5月 8日 (火)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その20>/小林秀雄・恋の頂点

 

 

私はNに対して初対面の時から、魅力と嫌悪とを同時に感じた。

――と小林秀雄の手記断片は続きます。

 

富永太郎が中原中也について

ダダイストとのdégoutに満ちたamitiéに淫して40日を徒費した

――と村井康男に書き送ったのが

1924年(大正13年)11月のことでした。

 

それから1年も経っていません。

 

小林秀雄も富永太郎も

中也に対して

両極に分裂した感覚を抱いたところで

同じでした。

 

 

Nは確かに私の持っていないものを持っていた。ダダイスト風な、私と正反対の虚無を持っ

ていた。しかし嫌悪はどこから来るのか解らなかった。彼はそれを早熟の不潔さなのだと

説明した。

 

(「新編中原中也全集」別巻(上)より。新かなに変えました。編者。)

 

 

1925年9月7日の日付をもつこの手記は

日記か書簡かの下書として書かれたものと推定されています。

 

小林秀雄は昭和3年(1928年)5月、

泰子との同棲生活に終止符を打ち

泰子から逃げる格好で関西へ下りますが

この手記を泰子が保管していました。

 

泰子が保管していたものが

戦後、昭和22年(1947年)に大岡昇平の手に渡り

やがて「朝の歌」で公開されます。

 

 

この手記断片とともに

日付不明の断片があります。

 

9月7日の手記を

いったん中断してから再び書かれたものか

同日に書かれたものか不明ですが

小林秀雄の恋は絶頂に達しているかのようです。

 

 

 私は自分が痴情の頂点にあると思った。

 

 こんなことがあった。Nは私に、君は、この辺で物を考えると言って、手を眼の下にやった。

そして俺はこの辺で考えていると額に手をやった。傍らでY子が、あたしはこの辺だわと白

魚のような指を揃えて頭の頂点にのせた。私は彼女がいつか、いんげん豆が椅子を降り

て来る夢を見たと話したことを思い出した。

 

(同上。)

 

 

小林と中也と泰子の3人が

親し気に語らっている情景が彷彿(ほうふつ)として来ますが

この時、3人は3様の思いを心の中に

秘めていたということになり

そのことを知りながら小林秀雄がこれを記しているところに

小説的な面白さみたいなものがあります。

 

やはりここには

虚構(フィクション)への意志が

あったのでしょうか。

 

 

ここに長谷川泰子が現われ

2人の男にジョークで伍しているのも

自然ですしリアルです。

 

 

今回はここまで。

2018年5月 7日 (月)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その19>/小林秀雄の恋心

 

 

小林秀雄が長谷川泰子との恋愛のさなかに

書き残した手記があります。

 

現在ではかなり有名になったこの「手記断片」は

大岡昇平が「朝の歌」(1958年)中で公開しました。

 

「新編中原中也全集」でも

「別巻」(上)に資料として収録されました。

 

9月7日(1925年)という日付をもつ

この手記を読みましょう。

 

 

 Tを見舞った帰り、Nと青山の通りを歩いた。四時、黄色い太陽の光線が塵汚とペンキの色彩と雑音

の都会をジリジリ照りつけた。6丁目の資生堂に2人は腰を下ろした。2人ともひどく疲れていた。軍歌

を呶鳴り乍ら兵隊の列が、褐色の塊を作って動いて行く。

 

――という書き出しに現われるTは、富永太郎、

Nは中原中也です。(新かなに変えました。編者。)

 

小林秀雄と中原中也は

2人して富永太郎を見舞ったことがあったのでしょうか。

 

そう読めなくはないし

小林が単独で富永を見舞った後で2人は落ち合ったということも考えられます。

 

この手記が事実の記録ではなく

小説の下書のような虚構を含むものなのかもしれません。

 

 

「なんだい、あの色は」

Nは行列を見ながら、いまいましそうに言った。

「保護色さ、水筒までおんなじ色で塗られてやがる」

2人は黙った。私はY子のことを考えた。兵隊の列は続く。

「見ろ、あれだって陶酔の一形式には違いない」

「きまっているさ、陶酔しない奴なんて一人も居るもんか」

「何奴も此奴も、夏なんてものを知りゃしないんだ。暑けりゃ裸になるという事だけ知ってるんだ」

「もうよせ」

 

 

会話の最中に

Y子のことをしきりに考えている私――。

 

このあたりで俄然この手記は

内面の緊張にいっそうフォーカスしていくことに

気づかされます。

 

 

 私は苛々して来た。あらゆるものに対して、それが如何に美であるかとうよりも、如何に

醜であるか。如何に真であるかという事より、嘘であるかという事の方が、先ず常に問題に

なる頭が、こんな日には、特につらかった。然し、Nと会ってY子の事許り考えている自分に

とっては、(Nが)こういう性格で、苛々した言葉ばかりはく事が、自分の心を見破られない

という都合のよさがあった。然しそれを意識すると、如何にも苦しくなった。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年5月 5日 (土)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その18>/小林秀雄の絶交

 

 

小林秀雄が中也を絶交したという年譜の記述は

10月23日(1925年)の項にあり

正岡忠三郎宛の富永太郎書簡に拠っています。

 

この書簡の全文を読んでおきましょう。

 

 

 其後病気どうした?

 こっちは未だ立てそうにもない そろそろ練習しなくてはいけないのだそうだが面倒くさい

実際何をするのも面倒くさい

 

一日中あうのけになっているのだが本を読むのも、ものを考えるのさえ面倒だ それに咳

が出たり呼吸が苦しかったりするので口をきくのまでが面倒になった

 

近頃は全く誰一人訪ねて来ないが結局好都合になっている それに近頃は人に会う興味

などまるで無いし また会うと妙にあてはづれしか感じないので却って楽だ 尤もダダさん

だけは相変らずずいぶんちょいちょい来るが これとてもこの頃では一向有難からぬことに

なっている 仔細はというほどでもないが かれこの頃小林に絶交を申渡されたのだ

 

前々からのダダさんの話で考えると 例の悪癖が小林を怒らせてしまったことは明白なの

だが、またそれに一向気づかぬ当人でもないのだが「小林という男はちがった生活の人間

に接していると焦燥を感じる質なので遂にそれが高潮に達して今度のことになったのだ」と

演説口調で云って見たり 小林をセンチメンタルだの馬鹿正直だのと言ってみたり、その後

小林がある友達に話したという「俺は友達を間違えたんだ」という言葉をどこからかきいて

来て「小林もずいぶん失敬したと思っていたがこれでそうではなくなった」などと愚にもつか

にことをいうので僕を怒らせてしまった 

 

尤も近頃は来ても僕は殆んど一言も口をきかず むこうでしゃべりたいことだけしゃべって

帰ってしまう有様なので 勿論反駁などしたことはないし出した以上は止めるわけには行

かぬ そんなことを考えるとたまらなくなる

 

こんな工合になっているのはつまりもうペテルブルグを見棄てて采邑へ帰るべき時なんだ

な 一日中寝間着の帯へ手をはさんで書斎の窓から農奴の働くのを眺めにに帰る時なん

だなそれにしても 一生悪執事にチョロマカサれ通しても死ぬまで無くならぬ所領があると

いい

もう止めよう

 

(「新編中原中也全集」別巻(下)より。新かなに変え、改行を加えました。編者。)

 

 

この書簡の少し前に

小林は中也と絶交したことになりますから

12月21日の富永太郎遺稿集出版相談会までは

2か月余りということになります。

 

この相談会で

小林秀雄と中原中也は

口をきかなかったのでしょうか。

 

それとも

普通に言葉を交わしたのでしょうか。

 

絶交は続いていたのでしょうか。

 

 

もとより絶交という実態を

富永太郎が目撃したわけではなく

正岡宛の書簡は

小林とのやりとりの中で知っただけの話を書いたはずのものですから

親しい者同士のため口で伝わった話が

誇張されたという可能性もないものではありません。

 

絶交という言葉そのものが

一人歩きしていたのかもしれません。

 

小林が中也を絶交したということが

たとえ事実であっても

わずか2か月で富永太郎遺稿詩集出版の打ち合わせの会合で

2人は顔を合わせました。

 

そしてこの2か月の間に

小林は長谷川泰子と密通していたのですから

絶交を言い渡す側にあったというのにも

無理が残ります。

 

友人のパートナーを奪ったうえで

その友人を絶交したというには

奪った側に相当の理由がなければならないでしょうし。

 

 

富永太郎は

小林秀雄と長谷川泰子の恋愛の進行を

10月23日のこの書簡を書いている時に

知らなかったということです。

 

知っていれば

この書簡の内容は

もっと他の調子になっていたかもしれませんし。

 

 

今回はここまで。

2018年5月 4日 (金)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その17>/富永太郎の遺稿「焦燥」

 

 

富永太郎が死んで後

遺稿集の出版の話が持ち上がり

村井康男を中心とする編集作業が動き出します。

 

 

11月16日 富永家宛に書簡6。富永太郎の作品について報ずる。遺稿詩集出版のため。

 

11月下旬(推定) 富永家宛に書簡7。富永の詩AU RIMBAUDの翻訳「ランボオへ(未定稿)」を筆写して送る。

 

12月9日 この日付の村井康男書簡に中也への言及がある。富永太郎遺稿詩集出版相談会の日程について(*53)。

 

12月21日 富永宅で行われた富永太郎遺稿詩集の出版相談会に参加(*54)。

 

 

富永太郎の死後の中原中也について

年譜が主に記すのは

その遺稿集出版の準備に参加する姿です。

 

この間、中原中也と長谷川泰子は離別。

 

泰子は小林秀雄と杉並町天沼で暮らしはじめ

中也は中野町桃園へ転居したことが

11月下旬の項に記されます。

 

 

11月16日は

富永太郎の死後4日目になります。

 

この日付で中也が富永家に出した書簡に

韻文中最も立派なもの

――と中也が記した詩が「焦燥」です。

 

 

焦燥

 

母親は煎薬を煎じに行った

枯れた葦の葉が短かいので。

ひかりが掛布の皺を打ったとき

寝台はあまりに金の唸きであった

寝台は

いきれたつ犬の巣箱の罪をのり超え

大空の堅い眼の下に

幅びろの青葉をあつめ

捨てられた藁の熱を吸い

たちのぼる巷の中に

青ぐろい額の上に

むらがる蠅のうなりの中に

寝台はのど渇き

求めたのに求めたのに

枯れた葦の葉が短かいので

母親は煎薬を煎じに行った。

 

(「富永太郎詩集」より。新かな・新漢字に変えました。編者。)

 

 

この詩は

「遺産配分書」と同じ頃に書かれました。

 

結核菌に蝕まれる身体を

励ますかのように

ランボーの翻訳にも取り組んだ4月頃です。

 

「遺産分配書」を小林秀雄が押し

「焦燥」を中也が押し

いずれもランボーの影が落ちる詩であるところに引かれます。

 

 

12月21日の出版相談会には

小林秀雄も参加しましたから

ここで2人は顔を合わせています。

 

 

今回はここまで。

2018年5月 1日 (火)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その16>/富永太郎納棺の夜の詩人

 

 

中原中也が富永太郎の死を知ったのは

どのような経緯でしたでしょうか。

 

年譜ではわかりません。

 

年譜でわかるのは

富永太郎が中原中也の訪問を忌避していた意図を

正岡忠三郎宛の書簡に記したり

筆談で伝えたり

小林秀雄が中也を絶交したことを記した書簡(10月23日付)や

富永の投函されなかった書簡(11月4日付)に

小林と泰子の恋愛への共感の気持ちが表明されていることを

案内しているくらいです。

 

11月12日午後1時2分、富永死去。

――とあるのは

正岡忠三郎日記(または手記)の克明な記録に拠るものでしょう。

 

中原中也は

富永の死の翌日に

富永家を訪れます。

 

 

11月13日 昼、富永太郎納棺。夕方、中也、富永宅を訪れる。

 

「dadacin 青いかほをして来る。二晩ねなかつたと」(*47)。

 

村井康男を知ったのは、このときか(*48)。

 

富永の遺稿を見ながら徹夜。

 

14日午後2時、出棺。代々幡火葬場へ向かう。

 

午後2時に辞した後、正岡忠三郎、冨倉徳次郎、村井康男、斎藤寅郎は泉橋病院に入院

中の小林秀雄を訪ねる。病室で長谷川泰子と行き合う(*49)。

 

(「新編中原中也全集」別巻(上)所収「中原中也年譜」より。改行を加えてあります。脚注

*47、48、49は省略しました。編者。)

 

 

小林秀雄と長谷川泰子の恋愛の進行は

この時、すでに誰かが中原中也に知らせていたでしょうか。

 

小林秀雄自らが

なんらかの話を中也に伝えた後だったのでしょうか。

 

それとも

ほかの経路があったのでしょうか。

 

富永太郎の忌避の感情は

富永の死によって

抑制され表面に現われ難い状況であったのかもしれませんが

中也がそれを感知しなかったはずもありません。

 

 

詩人は

火葬場へは行きませんでした。

 

富永の遺稿を見ながら徹夜。

――とある年譜の1行が

詩人、中原中也の全存在を物語るようです。

 

 

今回はここまで。

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