中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「わが放浪」」(Ma Bohème)
「秋の一日」が
ランボーの「わが放浪」(Ma Bohème)を
色濃く反映していると読み取ることは
自然な感性といってよいでしょう。
どのようにしていつ
それが行われたかを説明することはできませんが
詩行への反映は火を見るよりも明らかですし
放浪の気分の底にあるものも共通しています。
◇
わが放浪
私は出掛けた、手をポケットに突っ込んで。
半外套(はんがいとう)は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だったこと!
独特の、わがズボンには穴が開(あ)いてた。
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻ってた。
わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、
やさしくささやきささめいていた。
そのささやきを路傍(みちばた)に、腰を下ろして聴いていた
ああかの九月の宵々よ、酒かとばかり
額(ひたい)には、露の滴(しずく)を感じてた。
幻想的な物影の、中で韻をば踏んでいた、
擦り剥(む)けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、
竪琴みたいに弾きながら。
(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。新かなに変えました。編者。)
◇
これは
中原中也が「ランボオ詩集」(1937年)に
翻訳したものです。
「秋の一日」の制作は
最も古く遡ったとして
大正15年(1926年)秋の可能性があります。
◇
「秋の一日」の
ぽけっとに手を突込んで
――という1行が
そっくりそのままである上に
この放浪が
詩を作ることを歌っている詩であるところが
ピタリと軌を一にしています。
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻ってた。
――は
今日の日の魂に合う
布切屑(きれくず)をでも探して来よう。
――と響き合います。
◇
そうでありながら
「秋の一日」は中也の詩です。
◇
秋の一日
こんな朝、遅く目覚める人達は
戸にあたる風と轍(わだち)との音によって、
サイレンの棲む海に溺れる。
夏の夜の露店の会話と、
建築家の良心はもうない。
あらゆるものは古代歴史と
花崗岩(かこうがん)のかなたの地平の目の色。
今朝はすべてが領事館旗(りょうじかんき)のもとに従順で、
私は錫(しゃく)と広場と天鼓(てんこ)のほかのなんにも知らない。
軟体動物のしゃがれ声にも気をとめないで、
紫の蹲(しゃが)んだ影して公園で、乳児は口に砂を入れる。
(水色のプラットホームと
躁(はしゃ)ぐ少女と嘲笑(あざわら)うヤンキイは
いやだ いやだ!)
ぽけっとに手を突込んで
路次(ろじ)を抜け、波止場(はとば)に出(い)でて
今日の日の魂に合う
布切屑(きれくず)をでも探して来よう。
(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)
◇
今回はここまで。
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