中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)
中原中也が
昭和7年(1931年)秋から同11年(1936年)の間に制作したと推定される詩に
三富朽葉が現われるものがあります。
◇
(宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて)
宵(よい)に寝て、秋の夜中に目が覚めて
汽車の汽笛の音(ね)を聞いた。
三富朽葉(くちば)よ、いまいずこ、
明治時代よ、人力も
今はすたれて瓦斯燈(ガスとう)は
記憶の彼方(かなた)に明滅す。
宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて
汽車の汽笛の音を聞いた。
亡き明治ではあるけれど
豆電球をツトとぼし
秋の夜中に天井を
みれば明治も甦る。
ああ甦れ、甦れ、
今宵故人が風貌(ふうぼう)の
げになつかしいなつかしい。
死んだ明治も甦れ。
宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて
汽車の汽笛の音を聞いた。
(「新編中原中也全集」第2巻「詩Ⅱ」より。新かなに変えました。編者。)
◇
宵に寝て、秋の夜中に目が覚めて
汽車の汽笛の音を聞いた。
――というのがこの詩を歌った動機のようですが
詩人は宵の口に寝て
夜中にふと目覚めてしまうことがよくあったようなのは
詩を書くためであったので
苦痛を感じているものではなく
覚醒した意識はいや増して冴えわたっていたのかもしれません。
故郷の両親はこの中に現われたでしょうか。
古き佳き時代、明治を詩は懐旧する中に
三富朽葉の名が出てくるのは
ついでというものではなく
かなりな本心が露出したことのようです。
中也は
ことあるごとに朽葉に言及し
業績への敬意を途切らすことはありませんでした。
◇
昭和9年(1934年)9月に書いた未発表評論「無題(自体、一と息の歌)」では
新体詩以来の詩を概観して、
後期印象派の要求が要望される限り、明治以来今日に到るまで、辛うじて三富朽葉と、岩野泡鳴を数
へることしかできないやうに思はれる
――と記すほどに絶賛しています。
◇
今回はここまで。
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