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2018年6月27日 (水)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「少年時」から「夏」へ

 

ここでもう一度

「夏」を読みましょう。

 

◇

 

夏

 

血を吐くような 倦(もの)うさ、たゆけさ

今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り

睡(ねむ)るがような悲しさに、み空をとおく

血を吐くような倦うさ、たゆけさ

 

空は燃え、畑はつづき

雲浮び、眩(まぶ)しく光り

今日の日も陽は炎(も)ゆる、地は睡る

血を吐くようなせつなさに。

 

嵐のような心の歴史は

終焉(おわ)ってしまったもののように

そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないもののように

燃ゆる日の彼方(かなた)に睡る。

 

私は残る、亡骸(なきがら)として――

血を吐くようなせつなさかなしさ。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

◇

 

いうまでもなく

この「夏」は

「少年時」の章の中の「夏」です。

 

第1詩集「山羊の歌」の

第2章「少年時」9篇の

第8番詩です。

 

そして

第1番詩「少年時」の夏から

幾年かを経て巡って来た夏です。

 

同じ風景の中に

少年はいますが

この幾年かの間に少年が辿った時間は

通り過ぎた嵐のような歴史と化し

手繰り寄せる糸口の一つもないかのように

燃える太陽の向こうにあります。

 

嵐のような心の歴史は

燃える日の向こうに

しっかりと眠っています。

 

◇

 

私は残る、亡骸(なきがら) として――

――というのは

もはや

亡骸(なきがら)として

少年の私は残っているだけだという意味に近い状態でしょうが

死んでしまったわけではありません。

 

形骸(けいがい)だけの存在に

ぎっしり詰まっているものがあります。

 

それが

血を吐くような心です。

 

血を吐くような

せつなさかなしさの中に

詩人は生きています。

 

◇

 

私は希望を唇に噛みつぶして

私はギロギロする目で諦めていた……

噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!

――と第1番詩「少年時」で歌った現在とは

断絶した「夏」の現在のようですが

変容したものよりも

連続するものの正体が

捉(とら)えられています。

 

4度も繰り返される

血を吐くような

――と

倦(もの)うさ

たゆけさ

せつなさ

かなしさ

――の体言止め。

 

◇

 

ギロギロする目の

変容と連続が

ここにあります。

 

◇

 

「少年時」をあわせて

読んでおきましょう。

 

◇

 

少年時

 

黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、

庭の地面が、朱色に睡(ねむ)っていた。

 

地平の果(はて)に蒸気が立って、

世の亡ぶ、兆(きざし)のようだった。

 

麦田(むぎた)には風が低く打ち、

おぼろで、灰色だった。

 

翔(と)びゆく雲の落とす影のように、

田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――

 

夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻

誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、

私は野原を走って行った……

 

私は希望を唇に噛みつぶして

私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……

噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!

 

◇

 

途中ですが

今回はここまで。

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