« 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「失せし希望」の空 | トップページ | 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「心象」の空 »

2018年6月27日 (水)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「少年時」から「夏」へ

 

ここでもう一度

「夏」を読みましょう。

 

 

 

血を吐くような 倦(もの)うさ、たゆけさ

今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り

睡(ねむ)るがような悲しさに、み空をとおく

血を吐くような倦うさ、たゆけさ

 

空は燃え、畑はつづき

雲浮び、眩(まぶ)しく光り

今日の日も陽は炎(も)ゆる、地は睡る

血を吐くようなせつなさに。

 

嵐のような心の歴史は

終焉(おわ)ってしまったもののように

そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないもののように

燃ゆる日の彼方(かなた)に睡る。

 

私は残る、亡骸(なきがら)として――

血を吐くようなせつなさかなしさ。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

いうまでもなく

この「夏」は

「少年時」の章の中の「夏」です。

 

第1詩集「山羊の歌」の

第2章「少年時」9篇の

第8番詩です。

 

そして

第1番詩「少年時」の夏から

幾年かを経て巡って来た夏です。

 

同じ風景の中に

少年はいますが

この幾年かの間に少年が辿った時間は

通り過ぎた嵐のような歴史と化し

手繰り寄せる糸口の一つもないかのように

燃える太陽の向こうにあります。

 

嵐のような心の歴史は

燃える日の向こうに

しっかりと眠っています。

 

 

私は残る、亡骸(なきがら) として――

――というのは

もはや

亡骸(なきがら)として

少年の私は残っているだけだという意味に近い状態でしょうが

死んでしまったわけではありません。

 

形骸(けいがい)だけの存在に

ぎっしり詰まっているものがあります。

 

それが

血を吐くような心です。

 

血を吐くような

せつなさかなしさの中に

詩人は生きています。

 

 

私は希望を唇に噛みつぶして

私はギロギロする目で諦めていた……

噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!

――と第1番詩「少年時」で歌った現在とは

断絶した「夏」の現在のようですが

変容したものよりも

連続するものの正体が

捉(とら)えられています。

 

4度も繰り返される

血を吐くような

――と

倦(もの)うさ

たゆけさ

せつなさ

かなしさ

――の体言止め。

 

 

ギロギロする目の

変容と連続が

ここにあります。

 

 

「少年時」をあわせて

読んでおきましょう。

 

 

少年時

 

黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、

庭の地面が、朱色に睡(ねむ)っていた。

 

地平の果(はて)に蒸気が立って、

世の亡ぶ、兆(きざし)のようだった。

 

麦田(むぎた)には風が低く打ち、

おぼろで、灰色だった。

 

翔(と)びゆく雲の落とす影のように、

田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――

 

夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻

誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、

私は野原を走って行った……

 

私は希望を唇に噛みつぶして

私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……

噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!

 

 

途中ですが

今回はここまで。

« 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「失せし希望」の空 | トップページ | 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「心象」の空 »

面白い!中也の日本語」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「失せし希望」の空 | トップページ | 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「心象」の空 »

2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

最近の記事

カテゴリー

無料ブログはココログ