中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「少年時」から「夏」へ
ここでもう一度
「夏」を読みましょう。
◇
夏
血を吐くような 倦(もの)うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
睡(ねむ)るがような悲しさに、み空をとおく
血を吐くような倦うさ、たゆけさ
空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩(まぶ)しく光り
今日の日も陽は炎(も)ゆる、地は睡る
血を吐くようなせつなさに。
嵐のような心の歴史は
終焉(おわ)ってしまったもののように
そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないもののように
燃ゆる日の彼方(かなた)に睡る。
私は残る、亡骸(なきがら)として――
血を吐くようなせつなさかなしさ。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)
◇
いうまでもなく
この「夏」は
「少年時」の章の中の「夏」です。
第1詩集「山羊の歌」の
第2章「少年時」9篇の
第8番詩です。
そして
第1番詩「少年時」の夏から
幾年かを経て巡って来た夏です。
同じ風景の中に
少年はいますが
この幾年かの間に少年が辿った時間は
通り過ぎた嵐のような歴史と化し
手繰り寄せる糸口の一つもないかのように
燃える太陽の向こうにあります。
嵐のような心の歴史は
燃える日の向こうに
しっかりと眠っています。
◇
私は残る、亡骸(なきがら) として――
――というのは
もはや
亡骸(なきがら)として
少年の私は残っているだけだという意味に近い状態でしょうが
死んでしまったわけではありません。
形骸(けいがい)だけの存在に
ぎっしり詰まっているものがあります。
それが
血を吐くような心です。
血を吐くような
せつなさかなしさの中に
詩人は生きています。
◇
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めていた……
噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!
――と第1番詩「少年時」で歌った現在とは
断絶した「夏」の現在のようですが
変容したものよりも
連続するものの正体が
捉(とら)えられています。
4度も繰り返される
血を吐くような
――と
倦(もの)うさ
たゆけさ
せつなさ
かなしさ
――の体言止め。
◇
ギロギロする目の
変容と連続が
ここにあります。
◇
「少年時」をあわせて
読んでおきましょう。
◇
少年時
黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡(ねむ)っていた。
地平の果(はて)に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆(きざし)のようだった。
麦田(むぎた)には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だった。
翔(と)びゆく雲の落とす影のように、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――
夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻
誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走って行った……
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……
噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!
◇
途中ですが
今回はここまで。
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