中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「妹よ」
◇
妹よ
夜、うつくしい魂は涕(な)いて、
――かの女こそ正当(あたりき)なのに――
夜、うつくしい魂は涕いて、
もう死んだっていいよう……というのであった。
湿った野原の黒い土、短い草の上を
夜風は吹いて、
死んだっていいよう、死んだっていいよう、と、
うつくしい魂は涕くのであった。
夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに
――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかった……
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)
◇
この詩に
妹がなぜ現われるのでしょうか?
妹のいない詩人が
なぜ突如、妹を歌ったのでしょうか?
この妹は
またも長谷川泰子以外に
考えられないところがいかにも晦渋で
それはまたこの詩の卓越さでもありますが
妹の出現は謎であり
不思議の極みでもあります。
◇
それに
この詩についても
なぜ「少年時」の章に配置されているのかという問いを
避けて通ることはできません。
この問いは
「わが喫煙」に向けたのと同じように
問われなければならないことでしょう。
この詩が
過去の恋を歌ったことを知るまでには
すこし時間がかかるかもしれませんが。
◇
しかしこの詩に
ランボーの足跡がないことを
断言できるでしょうか。
くっきりとは現われませんが
ランボーの影(痕跡)があると見るのは
不自然でしょうか、
不可能でしょうか。
死を口にする女性のイメージが
ランボーに起因するなどといえば
馬鹿げたことでしょうか。
◇
何一つ断言できませんが
「わが喫煙」の現在には
詩人と長谷川泰子が
横浜の街に遊び
途中で歩み疲れた泰子の言うままに
カフェレストランに入った過去のある日を歌ったものと
思わせるリアリティーがあるのに
この詩は
なんら詩人の現実とつながりません。
死んだっていいよう
――と泣いている女性は
長谷川泰子以外にないのに
妹に変ってしまうのは
なぜでしょうか?
不思議の理由を突き詰めていくと
うっすらとランボーが見えてきては
消えていきます。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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