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2018年6月21日 (木)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「妹よ」

 

 

 

妹よ

 

夜、うつくしい魂は涕(な)いて、

  ――かの女こそ正当(あたりき)なのに――

夜、うつくしい魂は涕いて、

  もう死んだっていいよう……というのであった。

 

湿った野原の黒い土、短い草の上を

  夜風は吹いて、 

死んだっていいよう、死んだっていいよう、と、

  うつくしい魂は涕くのであった。

 

夜、み空はたかく、吹く風はこまやかに

  ――祈るよりほか、わたくしに、すべはなかった……

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

この詩に

妹がなぜ現われるのでしょうか?

 

妹のいない詩人が

なぜ突如、妹を歌ったのでしょうか?

 

この妹は

またも長谷川泰子以外に

考えられないところがいかにも晦渋で

それはまたこの詩の卓越さでもありますが

妹の出現は謎であり

不思議の極みでもあります。

 

 

それに

この詩についても

なぜ「少年時」の章に配置されているのかという問いを

避けて通ることはできません。

 

この問いは

「わが喫煙」に向けたのと同じように

問われなければならないことでしょう。

 

この詩が

過去の恋を歌ったことを知るまでには

すこし時間がかかるかもしれませんが。

 

 

しかしこの詩に

ランボーの足跡がないことを

断言できるでしょうか。

 

くっきりとは現われませんが

ランボーの影(痕跡)があると見るのは

不自然でしょうか、

不可能でしょうか。

 

死を口にする女性のイメージが

ランボーに起因するなどといえば

馬鹿げたことでしょうか。

 

 

何一つ断言できませんが

「わが喫煙」の現在には

詩人と長谷川泰子が

横浜の街に遊び

途中で歩み疲れた泰子の言うままに

カフェレストランに入った過去のある日を歌ったものと

思わせるリアリティーがあるのに

この詩は

なんら詩人の現実とつながりません。

 

死んだっていいよう

――と泣いている女性は

長谷川泰子以外にないのに

妹に変ってしまうのは

なぜでしょうか?

 

不思議の理由を突き詰めていくと

うっすらとランボーが見えてきては

消えていきます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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