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2018年6月 6日 (水)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「少年時」その2

 

 

未発表詩篇「少年時(母は父を送り出すと、部屋に帰って来て溜息をした)」は

すれ違う両親を見て育った少年が

母と父をそれぞれに理解しながら

その間に立って

行き場のない孤独を貯めて育った幼少期を思う詩。

 

一方の発表詩「少年時」は

同じ幼少期の

煮えたぎる孤独を歌った詩。

 

二つの「少年時」の

一つは

母と父を優しく理解する子どもでありながら

その気持ちを真っすぐに伝えられずに

ひたすら内向する孤独にフォーカスし

もう一つは

同じ孤独をなんとか手なずける術をつかんだかの少年が

燃えあがる孤独をかかえながら

野の道を走って行きます。

 

行き場を失った孤独と

孤独の爆発――。

 

「少年時」には

噛みつぶしながらも希望があり

諦めながらもギロギロの目の少年がいました。

 

 

少年時

 

母は父を送り出すと、部屋に帰って来て溜息(ためいき)をした。

彼の女の溜息にはピンクの竹紙。

それが少し藤色がかって匂(にお)うので、

私は母から顔を反向(そむ)ける。

 

母は独りで、案じ込んでる。

私は気の毒だが、滑稽(こっけい)でもある。

  母の愁(うれ)いは美しい、

  母の愁いは愚かしい。

 

父は今頃もう行き先で、

にこにこ笑って話してるだろう。

  父の怒りに罪はない、

  父の怒りは障碍(しょうがい)だ。

 

私は間で悩ましい、

私は間で悩ましい、僕はただもういらいらとする。

私はむやみにいらいらしだす。

何方(どちら)も罪がないので、云(い)ってやる言葉もない。

 

(では、ああ、僕は、僕を磨こう。

ですから僕に、何にも言うな!)

と、結局何時(いつ)も、僕はそう思った。

由来僕は、孤独なんだ……

 

(「新編中原中也全集」第2巻「詩Ⅱ」より。新かなに変えました。編者。)

 

 

こちらの未発表詩にも

母をとらえる秀逸な詩行があります。

 

彼の女の溜息にはピンクの竹紙。

それが少し藤色がかって匂(にお)うので、

私は母から顔を反向(そむ)ける。

――は象徴的な表現というものでしょうが

中原中也の母親像が

ひょっこり顔を出すのにハッとします。

 

溜息がピンクの竹紙で

それが藤色がかって匂(にお)う、とは

すべての少年が

母親に抱くであろう

永遠の瞬間の母のイメージと思われて

ここでも詩の進境を見ることができます。

 

このような詩の作り方に

ランボーの足跡があるというわけです。

 

発表詩「少年時」は

ランボー1色に染まりました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

少年時

 

黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、

庭の地面が、朱色に睡(ねむ)っていた。

 

地平の果(はて)に蒸気が立って、

世の亡ぶ、兆(きざし)のようだった。

 

麦田(むぎた)には風が低く打ち、

おぼろで、灰色だった。

 

翔(と)びゆく雲の落とす影のように、

田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――

 

夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻

誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、

私は野原を走って行った……

 

私は希望を唇に噛みつぶして

私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……

噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!

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