中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「少年時」その2
未発表詩篇「少年時(母は父を送り出すと、部屋に帰って来て溜息をした)」は
すれ違う両親を見て育った少年が
母と父をそれぞれに理解しながら
その間に立って
行き場のない孤独を貯めて育った幼少期を思う詩。
一方の発表詩「少年時」は
同じ幼少期の
煮えたぎる孤独を歌った詩。
二つの「少年時」の
一つは
母と父を優しく理解する子どもでありながら
その気持ちを真っすぐに伝えられずに
ひたすら内向する孤独にフォーカスし
もう一つは
同じ孤独をなんとか手なずける術をつかんだかの少年が
燃えあがる孤独をかかえながら
野の道を走って行きます。
行き場を失った孤独と
孤独の爆発――。
「少年時」には
噛みつぶしながらも希望があり
諦めながらもギロギロの目の少年がいました。
◇
少年時
母は父を送り出すと、部屋に帰って来て溜息(ためいき)をした。
彼の女の溜息にはピンクの竹紙。
それが少し藤色がかって匂(にお)うので、
私は母から顔を反向(そむ)ける。
母は独りで、案じ込んでる。
私は気の毒だが、滑稽(こっけい)でもある。
母の愁(うれ)いは美しい、
母の愁いは愚かしい。
父は今頃もう行き先で、
にこにこ笑って話してるだろう。
父の怒りに罪はない、
父の怒りは障碍(しょうがい)だ。
私は間で悩ましい、
私は間で悩ましい、僕はただもういらいらとする。
私はむやみにいらいらしだす。
何方(どちら)も罪がないので、云(い)ってやる言葉もない。
(では、ああ、僕は、僕を磨こう。
ですから僕に、何にも言うな!)
と、結局何時(いつ)も、僕はそう思った。
由来僕は、孤独なんだ……
(「新編中原中也全集」第2巻「詩Ⅱ」より。新かなに変えました。編者。)
◇
こちらの未発表詩にも
母をとらえる秀逸な詩行があります。
彼の女の溜息にはピンクの竹紙。
それが少し藤色がかって匂(にお)うので、
私は母から顔を反向(そむ)ける。
――は象徴的な表現というものでしょうが
中原中也の母親像が
ひょっこり顔を出すのにハッとします。
溜息がピンクの竹紙で
それが藤色がかって匂(にお)う、とは
すべての少年が
母親に抱くであろう
永遠の瞬間の母のイメージと思われて
ここでも詩の進境を見ることができます。
このような詩の作り方に
ランボーの足跡があるというわけです。
発表詩「少年時」は
ランボー1色に染まりました。
◇
途中ですが
今回はここまで。
◇
少年時
黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡(ねむ)っていた。
地平の果(はて)に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆(きざし)のようだった。
麦田(むぎた)には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だった。
翔(と)びゆく雲の落とす影のように、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――
夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻
誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走って行った……
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……
噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!
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