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2018年6月 8日 (金)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「盲目の秋」

 

 

「少年時」の次に配置されているのは

中也、恋愛詩の絶唱です。

 

わざわざ恋愛詩と呼ぶのは

空しい限りですが

私の聖母(サンタ・マリヤ)!(第3節)

――に出くわしては

とやかく言う気持ちも萎(な)えます。

 

大岡昇平のように

この第1節はシェストフのチェホフ論の借用である、といっても

この詩を読んだことになりませんし。

 

 

盲目の秋

 

   Ⅰ

 

風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、

  無限の前に腕を振る。

 

その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、

  それもやがては潰(つぶ)れてしまう。

 

風が立ち、浪が騒ぎ、

  無限のまえに腕を振る。

 

もう永遠に帰らないことを思って

  酷薄(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……

 

私の青春はもはや堅い血管となり、

  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

 

それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、

  去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、

 

厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく

  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

 

      ああ、胸に残る……

 

風が立ち、浪が騒ぎ、

  無限のまえに腕を振る。

 

   Ⅱ

 

これがどうなろうと、あれがどうなろうと、

そんなことはどうでもいいのだ。

 

これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、

そんなことはなおさらどうだっていいのだ。

 

人には自恃(じじ)があればよい!

その余(あまり)はすべてなるままだ……

 

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、

ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。

 

平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、

朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!

 

   Ⅲ

 

私の聖母(サンタ・マリヤ)!

  とにかく私は血を吐いた! ……

おまえが情けをうけてくれないので、

  とにかく私はまいってしまった……

 

それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、

  それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、

私がおまえを愛することがごく自然だったので、

  おまえもわたしを愛していたのだが……

 

おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!

  いまさらどうしようもないことではあるが、

せめてこれだけ知るがいい――

 

ごく自然に、だが自然に愛せるということは、

  そんなにたびたびあることでなく、

そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。

 

   Ⅳ

 

せめて死の時には、

あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。

  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、

  その時は白粧をつけていてはいや。

 

ただ静かにその胸を披いて、

私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。

  何にも考えてくれてはいや、

  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。

 

ただはららかにはららかに涙を含み、

あたたかく息づいていて下さい。

――もしも涙がながれてきたら、

 

いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、

それで私を殺してしまってもいい。

すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

まずはこの詩が

「少年時」という章の

「少年時」という詩の次に配置されてあることが

どのような意図なのかを考えるところから

アクセスするのが自然な流れです。

 

そうであるならば

そのようにしたいのですが

そのようにならないのは

第2節(Ⅱ)で起こる突然の変調のせいでしょう。

 

トーンの変化ばかりでなく

内容も文体も変わり

第2節(Ⅱ)は

自分への励ましにはじまり

第3節(Ⅲ)は

聖母である泰子への呼びかけ

第4節(Ⅳ)は

詩の作者(=私)が死ぬ場面へと転じ

ついには黄泉(よみじ)をたどるところを歌います。

 

この劇的な変化に圧倒され

茫然としたまま

一気に結末まで運ばれて

「Ⅰ」と「Ⅱ」との間にある断絶は

断絶ではなくなってしまうところに

この詩の技法があります。

 

どこかで見覚えがあるこの技法は

どこからやってきたものでしょうか。

 

 

それこそ

ランボーにほかなりません。

 

ランボーの詩の

飛躍とか省略とか

夢想とか幻想とか。

 

シュールリアリスティックな文体

――とひとことで言ってしまうと乱暴ですが

中原中也が早くも

この詩を作った時点で

ランボーから摂取した

宝物のような技術です、

それは。

 

ボードレールでもなく

ベルレーヌでもありません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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