中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「少年時」その1
薔薇の茂みのうしろにゐるのは、彼女だ、死んだ娘だ。――年若くて亡つた母親が石段を
降る
◇
鈴木信太郎訳の「少年時」に
死んだ娘、
年若く亡くなった母親
――が現われ
ランボーは中原中也の感性の中心部に刺さります。
死んだ女性や
死んだ児のイメージは
中原中也の詩にしばしば登場することになりますが
その最初の接触と見て間違いありません。
これを筆写したのは
大正14年(1924年)後半と推定されているのですから
ランボーを知った直後のことでした。
「冬の雨の夜」に現われる
亡き乙女たちにも
その影を認めることができるかもしれません。
◇
「少年時」はそれどころか
中也の自作詩群の心臓部になります。
「山羊の歌」の第2章にあたる章を
ズバリ! 「少年時」とし
冒頭詩にも「少年時」を配置しました。
◇
少年時
黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡(ねむ)っていた。
地平の果(はて)に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆(きざし)のようだった。
麦田(むぎた)には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だった。
翔(と)びゆく雲の落とす影のように、
田の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿――
夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻
誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走って行った……
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……
噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!
(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ」より。新かなに変えました。編者。)
◇
この詩の初稿の制作は
昭和2、3年(1927、1928年)頃に遡れることが
推定されています。
とりわけ、
ランボーの「少年時」の第4節が
中也の「少年時」へ
まっすぐに反映していることが広く知られています。
第4節の全行を
もう1度、読んでおきましょう。
◇
俺は、岡の上に、祈りをあげる聖者、――パレスチナの海までも牧草を喰って行く平和な
動物のやうだ。
俺は陰鬱な肱掛椅子に靠れた学究。小枝と雨が書斎の硝子窓に打ちつける。
俺は、矮小な森を貫く街道の歩行者。閘門の水音は、俺の踵を覆ふ。夕陽の金の物悲し
い洗浄を、いつまでも長く俺は眺めてゐる。
本当に、俺は、沖合に遙かに延びた突堤の上に棄てられた少年かも知れぬ。行く手は空
にうち続く道を辿つて行く小僧かも知れぬ。
辿る小道は起伏して、丘陵を金雀枝(えにしだ)は覆ふ。大気は動かない。小鳥の歌も泉
の声も随分遠くだ。進んで行けば、世界の涯(はて)は必定だ。
(人文書院「ランボオ全集第2巻 飾画・雑纂・文学書簡他」、昭和28年初版より。)
◇
今回はここまで。
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