中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「わが喫煙」の歴史的現在
中原中也を読みはじめて
ざっと10年の歳月が流れました。
長い間、「わが喫煙」が
なぜ「山羊の歌」の「少年時」に配置されているのかを
疑問に思っていましたが
この最大の難問が今になって
溶解していくようで感慨一入(ひとしお)です。
そのうえ、ランボーの足跡をたどるうちに
その疑問が解けていくのを
発見するのは心地よいことでした。
◇
わが喫煙
おまえのその、白い二本の脛(すね)が、
夕暮(ゆうぐれ)、港の町の寒い夕暮、
にょきにょきと、ペエヴの上を歩むのだ。
店々に灯(ひ)がついて、灯がついて、
私がそれをみながら歩いていると、
おまえが声をかけるのだ、
どっかにはいって憩(やす)みましょうよと。
そこで私は、橋や荷足を見残しながら、
レストオランに這入(はい)るのだ――
わんわんいう喧騒(どよもし)、むっとするスチーム、
さても此処(ここ)は別世界。
そこで私は、時宜(じぎ)にも合わないおまえの陽気な顔を眺め、
かなしく煙草(たばこ)を吹かすのだ、
一服(いっぷく)、一服、吹かすのだ……
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)
◇
この詩に
ランボーの足跡はありません。
今、詩人の目の前にあるのは
にょきにょきと素足を曝して
舗道(ペーブ)を歩む女性の姿です。
私(詩人)は
おまえ(泰子)が疲れた様子も見せずに
どこかのお店に入りましょうよと
いつものような気軽さで言うのが不満で
かなしく煙草を吹かしています。
気分がズレてしまっているこういう状態は
倦怠(アンニュイ)というより
もう少し根の深いところに起因しているのですが
詩はそのことをたどろうとはしません。
◇
「わが喫煙」は
現在形で歌われているところに
隠された意図があります。
この現在形は
歴史的現在と呼んでもよい現在で
現在形でありながら
過去を歌っているものです。
ここにこそ「わが喫煙」が
「少年時」の章へ配置された意図があります。
◇
にょきにょきとペエヴの上を歩むのだ
――という断定の現在形に出くわす時
詩人の目の前にある泰子の2本の足は
読む人の目の前にもあります。
こうして
2人の間にある
恋人同士だけに特有な
あの濃密な時間の中に
いきなり引きずりこまれます。
恋人同士であっても
気持ちがちぐはぐになることもあるものなどと感じながら
私(詩人)がかなしく吹かす煙草の苦味(にがみ)を
さほどのこととも思い致さないで
詩を読み終えます。
そうして
刻印されるのは
多少はほころびはじめた恋人同士の時間です。
ほころびがあっても
恋人同士の時間です。
◇
ところがこの詩を
詩人がここ「少年時」の章を置いたのは
この章に
遠いのも近いのも含めて
戻ることのできない過去の時(とき)を集めようとしたからでした。
遠い時(とき)であった幼少時代も
近い過去(とき)であったランデブーも
どちらも2度と帰ってこない過ぎ去った時間でした。
非可逆的な時間(とき)でした。
◇
「わが喫煙」の
次に置かれた「妹よ」も
帰って来ない過去の時間を歌った詩です。
「少年時」の章の後半部にある
「木蔭」も
「失せし希望」も
「夏」も
「心象」も同じです。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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