中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「夏」
「山羊の歌」は
第2章にあたる章のタイトルを「少年時」とし
その冒頭に「少年時」を置いたからには
いよいよランボーの足跡が濃くなる作品が並ぶかと思うと
そうではありません。
「盲目の秋」
「わが喫煙」
「妹よ」
「寒い夜の自我像」
「木蔭」
「失せし希望」
――とつづく作品に
ランボーは消えてしまいます。
どこへ行ってしまったのだろうと読み進むと
「夏」に出合います。
◇
夏
血を吐くような 倦(もの)うさ、たゆけさ
今日の日も畑に陽は照り、麦に陽は照り
睡(ねむ)るがような悲しさに、み空をとおく
血を吐くような倦うさ、たゆけさ
空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩(まぶ)しく光り
今日の日も陽は炎(も)ゆる、地は睡る
血を吐くようなせつなさに。
嵐のような心の歴史は
終焉(おわ)ってしまったもののように
そこから繰(たぐ)れる一つの緒(いとぐち)もないもののように
燃ゆる日の彼方(かなた)に睡る。
私は残る、亡骸(なきがら)として――
血を吐くようなせつなさかなしさ。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)
◇
「少年時」の章の第8番詩「夏」には
ギロギロの目で諦めていた少年が
また現われます。
そう読んではいけませんか?
夏の日の昼過ぎの
誰も彼もが午睡するとき
野の道を走って行った少年が
空は燃え、畑はつづき
雲浮び、眩しく光る
この詩にいるではありませんか。
◇
「少年時」という章は
「盲目の秋」の第3節に
突如、サンタ・マリア(泰子)が現れてから
ランボーは消えます。
消えたように見えるのは
ランボーの「少年時」を
見失っているからであることを知ります。
ランボーの「少年時」の冒頭には、
オレンヂ色の唇をもつた少女
海のほとりのテラスに渦巻く貴婦人の群
少女たちや巨大な女たち
見事な黒人の女
うら若い母と大きな姉
トルコの王妃
傍若無人に着飾って闊歩する王女達
背の低い異国の女
物静かに薄命な女たち
――と色とりどりの女性たちが歌われています。
(鈴木信太郎・小林秀雄共訳)
長谷川泰子を真正面から歌うことは
ランボーの「少年時」から離れたことにはなりません。
◇
「盲目の秋」の構成が
それを明かすことになります。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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