中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/感性的陶酔
ランボーが捉えた永遠のなかに
詩を読む僕たちも
いつしか入り込んでいる感覚。
なんだか
危ないような
とろけるような。
この感じを
感性的陶酔と中也は名づけました。
その感性的陶酔が
生じるところには
繻子の肌した深紅の燠が
赤々と燃えています――。
◇
より具体的に
よりくっきりと迫られた
この感性的陶酔は
別の言葉にするなら
幸福といってよいでしょう。
それはまた
永遠の別称ですが。
バイヤン(異教徒)の思想が
信じることのできる唯一のものが
これ、感性的陶酔でした。
ランボーの詩と対峙した詩人は
「永遠」が歌う幻想を
このようにとらえ返します。
ランボーのこの切れ味に
詩人はぞっこんでした。
◇
それは
「食うため」に躍起になっている人類が
見失ってしまった夢だ。
だから
なかなか受け入れられない考えだ。
だからといって
夢の意義がなくなることもないのだが
ランボーの夢ほど
受け入れられ難いものもないのだ。
◇
言ってみれば
ランボーが見抜いていたものは
「生の原型」であった。
これは
風俗、習慣といった
日常を生活する以前の原理だから
一度、見出してしまっては
忘れることができないものなのに
それを言い表すこともできないものだ。
在ることが分かっているのに
行き道が分からなくなってしまった
宝島のようなものなのだ。
◇
行き道があるとすれば
ベルレーヌ風楽天主義くらいかな。
ベルレーヌなら
ランボーよりもずっと無頓着に
夢みる道を心得ているから
行けるかもしれないけど
そのベルレーヌにしても
受け入れられないかもしれない。
◇
中原中也は
このようにまでベルレーヌを
ランボーの夢を理解し
その夢を追いかける生活をはじめる存在と認めますが
ランボーは夢は夢であって
生活とは別個のことでしかなかった
――と見極めたのです。
◇
あれ、ですね。
ゴタールの映画「気狂いピエロ」が
つかまえた瞬間に消えてしまう世界に似た……。
◇
永遠って
長い長―い時間のようですけど
それって
どこにあるのでしょうか。
海って
ずっとそこにありますよね。
ずっとそこにあるのですから
ずっとそこにいれば
長い長―い時間いられるのに
ずっとそこにいることはできませんね。
◇
中也のなかで親近する
ベルレーヌの夢も
ランボーの夢も
このように見分けられていました。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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