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« 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「永遠 Éternité」 | トップページ | 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「アルテュル・ランボオ」その1 »

2018年7月16日 (月)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/感性的陶酔

 

 

ランボーが捉えた永遠のなかに

詩を読む僕たちも

いつしか入り込んでいる感覚。

 

なんだか

危ないような

とろけるような。

 

この感じを

感性的陶酔と中也は名づけました。

 

その感性的陶酔が

生じるところには

繻子の肌した深紅の燠が

赤々と燃えています――。

 

 

より具体的に

よりくっきりと迫られた

この感性的陶酔は

別の言葉にするなら

幸福といってよいでしょう。

 

それはまた

永遠の別称ですが。

 

バイヤン(異教徒)の思想が

信じることのできる唯一のものが

これ、感性的陶酔でした。

 

ランボーの詩と対峙した詩人は

「永遠」が歌う幻想を

このようにとらえ返します。

 

ランボーのこの切れ味に

詩人はぞっこんでした。

 

 

それは

「食うため」に躍起になっている人類が

見失ってしまった夢だ。

 

だから

なかなか受け入れられない考えだ。

 

だからといって

夢の意義がなくなることもないのだが

ランボーの夢ほど

受け入れられ難いものもないのだ。

 

 

言ってみれば

ランボーが見抜いていたものは

「生の原型」であった。

 

これは

風俗、習慣といった

日常を生活する以前の原理だから

一度、見出してしまっては

忘れることができないものなのに

それを言い表すこともできないものだ。

 

在ることが分かっているのに

行き道が分からなくなってしまった

宝島のようなものなのだ。

 

 

行き道があるとすれば

ベルレーヌ風楽天主義くらいかな。

 

ベルレーヌなら

ランボーよりもずっと無頓着に

夢みる道を心得ているから

行けるかもしれないけど

そのベルレーヌにしても

受け入れられないかもしれない。

 

 

中原中也は

このようにまでベルレーヌを

ランボーの夢を理解し

その夢を追いかける生活をはじめる存在と認めますが

ランボーは夢は夢であって

生活とは別個のことでしかなかった

――と見極めたのです。

 

 

あれ、ですね。

 

ゴタールの映画「気狂いピエロ」が

つかまえた瞬間に消えてしまう世界に似た……。

 

 

永遠って

長い長―い時間のようですけど

それって

どこにあるのでしょうか。

 

海って

ずっとそこにありますよね。

 

ずっとそこにあるのですから

ずっとそこにいれば

長い長―い時間いられるのに

ずっとそこにいることはできませんね。

 

 

中也のなかで親近する

ベルレーヌの夢も

ランボーの夢も

このように見分けられていました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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