中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「アルテュル・ランボオ」その3「夕の辞」
中原中也が訳したランボーの詩は
「母音」
「夕の辞」
「坐せる奴等」
――の3作ですが
ベルレーヌの原作はこの他に
「びっくり仰天している子ら」
「虱をとる女たち」
「酔っぱらった船」
――の全行、
「初聖体拝領」
「パリは再び大賑わい」
「永遠」
――の一部があります。
(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳・解題篇」。)
この選択は
ベルレーヌが記すように
ランボーの初期作品から文学と訣別するまでの
全期間を対象にした結果です。
継続して不足分への言及を
ベルレーヌは構想していたのかもしれません。
ランボーの人と作品を
ベルレーヌほどに親しく知っている存在は少なかったのですから
障害事件を起こした過去がありながらも
ベルレーヌによるランボーの紹介は
適役であったのですし
必然的であり
運命的でありました。
◇
風貌や性格の描写は
ベルレーヌにしかできないような
繊細で優しい眼差しで簡潔的確に捉えられています。
大きい、骨組のしっかりした、殆ど運動家のようで、完全に楕円形のその顔は追放の天
使のようであった。並びのわるい明褐色の髪をもち、蒼ざめた碧眼は気遣わし気に見え
た。
――という記述は
その上、中原中也の言語意識(技術)が
素描(翻訳)したものでした。
ランボーは運動家でした。
それは、
アルデンヌ生れの彼は、その綺麗な訛を忽ちに失くしたばかりか、アルデンヌ人らしい速
かな同化力を以て巴里語を駆使した。
――という素描にも及んでいます。
◇
「訳稿A」「訳稿B」を読んで
すぐさま気づくことの一つに
ここで引用された詩の翻訳と
中原中也のランボー翻訳の集大成である
「ランボオ詩集」中の同一詩との違いです。
例えば「夕の辞」は
「ランボオ詩集」ではこうなります。
◇
夕べの辞
私は坐りっきりだった、理髪師の手をせる天使そのままに、
丸溝のくっきり付いたビールのコップを手に持ちて、
下腹突き出し頸反らし陶土のパイプを口にして、
まるで平(たいら)とさえみえる、荒模様なる空の下。
古き鳩舎に煮えかえる鳥糞(うんこ)の如く、
数々の夢は私の胸に燃え、徐かに焦げて。
やがて私のやさしい心は、沈欝にして生々(なまなま)し
溶(とろ)けた金のまみれつく液汁木質さながらだった。
さて、夢を、細心もって嚥(の)み下し、
身を転じ、――ビール3、40杯を飲んだので
尿意遂げんとこころをあつめる。
しとやかに、排香草(ヒソウ)や杉にかこまれし天主の如く、
いよ高くいよ遐(とお)く、褐色の空には向けて放尿す、
――大いなる、ヘリオトロープにうべなわれ。
(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。新かな、洋数字に変えました。編者。)
◇
読み比べるために
「アルテュル・ランボオ」中の翻訳も
もう一度ここに載せましょう。
◇
夕の弁
我は理髪師の手もてる天使の如く座してありき、
深き丸溝あるビールのコップを手に持ちて、
小腹と首をつん反(ぞ)らせ、ギャムビエを歯に、
ふくよかに風孕む帆が下に。
古き鳩舎の火照りある糞のごと
千の夢は、我をやさいく焦がしたり。
と忽ちに、我が哀しき心、熔けたる
暗き黄金の血を流す 白木質となれりけり。
軈(やが)て我、細心をもて我が夢を呑み下せしに、
惑乱す、数十杯のビール傾け、
扨入念す、辛き心を浚はむと。
やさしさ、杉とヒップの主の如く、
いや高くいや遠き褐の空向け放尿す、
大いなるヘリオトロープにあやかりて。
(同。)
◇
途中ですが
今回はここまで。
« 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「アルテュル・ランボオ」その2 | トップページ | 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「アルテュル・ランボオ」その4「母音」 »
「054中原中也とベルレーヌ」カテゴリの記事
- 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・続(再開篇)(2019.05.14)
- 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その13(2018.12.27)
- 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その12(2018.12.19)
- 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その11(2018.12.15)
- 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その10(2018.12.07)
« 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「アルテュル・ランボオ」その2 | トップページ | 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「アルテュル・ランボオ」その4「母音」 »
コメント