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2018年7月 6日 (金)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/ベルレーヌとランボー

 

 

ここで

中原中也がベルレーヌの翻訳にどのように取り組んだか

ざっと見ておきましょう。

 

といっても

全集の目次に目を通すくらいのことですが。

 

 

ランボーの翻訳が

ランボオ詩集<学校時代の詩>

ランボオ詩集

――と詩(韻文)のほとんどに渡ったのに比べれば

ベルレーヌの詩の翻訳で

生前に公開したものは一つもありません。

 

翻訳に取り組まなかったわけではありませんが

公開するまでに至らなかった作品が幾つかあります。

 

「未発表翻訳詩篇」として、

Never More

Ⅳ(われ等物事に寛大でありましょう)

Ⅴ(たをやけき手の接唇くるそのピアノ)

木馬

――の4作があります。

 

ⅣとⅤは

「言葉なき恋歌」の第1詩群「忘れられた小曲」の第4番、第5番のことです。

 

中原中也が原典としたメッサン版ヴェルレーヌ全集では

「忘れられた小曲」の章が立てられていなかったため

このように表記しています。

 

( )で冒頭行を示し

タイトルの代わりにしています。

 

このほかに

完成されなかった草稿に

序曲

――の1作がありますから

ベルレーヌの詩(韻文)の翻訳は

合計で5件ということになります。

 

 

散文で生前に発表したもの(生前発表翻訳散文)は

トリスタン・コルビエール

ポーヴル・レリアン

――の2件。

 

生前に発表していない散文は

アルチュル・ランボオ

ルイーズ・ルクレルク

――の2件です。

 

詩も散文も

いかにも少ないことがわかりますが

「ポーヴル・レリアン」は

ベルレーヌが自らの名を隠して評論した自伝のようなものですし

「アルチュル・ランボオ」もランボーの小伝のようなものですから

両詩人の輪郭をつかもうとした

中原中也の戦略が見えます。

 

 

ランボーとベルレーヌの関係については

フランス文学者、鈴木信太郎が記している次の案内は

今でも古びれずに通用するものでしょう。

 

鈴木信太郎は、

 

この天才詩人は忽ちヴェルレエヌを幻惑してしまった。翌年二人は相携えて巴里を出奔し

た。英国に白耳義に北仏に転々とするうち、終いにブリュッセルに於いてランボオに拳銃を

発射し、ヴェルレエヌは約1ヶ年半の監獄生活を送り、妻とは別居の後離婚しなければなら

なかった。詩人の一生は全くこの少年のために蹂躙されたのであった。

 

 併しながらヴェルレエヌの詩は、この天才との邂逅によって、始めて完全な光輝を発した

のであった。文学的影響は、詩人ヴェルレエヌから少年に及んだのではなくて、全くその逆

であった。ランボオが彼に新しい思考と感覚との世界を開き、宇宙の底を独特の視覚に

よって見透す方法を強要したのであった。

 

――などと「ヴェルレエヌ詩集」(岩波文庫、1952年初版)の

巻末付録「ポオル・ヴェルレエヌについて」の中に記録しています。

 

ベルレーヌがランボーに教わったことは

まことに多大でした。

 

 

中原中也が

鈴木信太郎からランボーとベルレーヌの関係を

直接聞き及んだかどうか

実際のところは確認されていないようですが

小林秀雄や河上徹太郎らを通じたりして

ランボー像の伝説的な輪郭は

早い時期につかんでいたことでしょう。

 

ランボーはあんなに歌が切れた

ベルレーヌがいて安心だったからだ

――という感想を

中也が書いたのは

昭和2年(1927年)でした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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