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2018年7月21日 (土)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「アルテュル・ランボオ」その2

 

 

ベルレーヌの「呪われた詩人たち」のうちで

中原中也が訳したのは

第1章「トリスタン・コルビエール」

第2章「アルチュール・ランボー」

第6章「ポーヴル・レリアン」

――の3作です。

 

このうちの「アルチュール・ランボー」を

中也は「アルテュル・ランボオ」と表記しました。

 

生前には発表されなかった

未完成の草稿です。

 

訳稿Aに引き続いて

訳稿Bとして整理された後半部を読み進めます。

 

 

(訳稿B)

 

     坐せる奴等

 

狼の暗愁、緑の指環を留めた眼、

腰に当てられ縮(ちぢ)かみ膨れた奴等の指、

古壁の癩を病む開花の如く

乱れた旋毛(つむじ)の奴等の頭、

 

奴等は癲癇に罹った情愛の中に奴等の椅子の

大きい骨組のように奇妙な骨格を接木した。

奴等はその佝僂(くる)な木柵のような脚を

朝でも夕方でも組んでいる。

 

これ等老ぼれ達は何時も椅子で編物をしている、

活発なお日様が奴等の皮膚に沁みいるのを感じながら、

或は、その上で雪の溶けつつある硝子のような奴等の眼を、

蟇蛙の傷ましき戦慄もて震撼されながら。

 

椅子は奴等に親切なもんだ、茶っぽくなって、

藁芯は奴等の腰の角度どおりに曲っている。

過ぎし日の太陽の霊は、穀粒がウズウズする

穂積の中にくるまれて明るんでいる。

 

して奴等は、膝を歯に、ピアニストさながら、

太鼓のようにガサツク椅子の下に十の指をやり、

わびしげな舟歌をしんねりむっつり聴いている、

そして頭は愛のたゆたいにゆれだす。

 

おお! 奴等を呼ぶな! 呼びでもすりゃあ大変だ……

彼等は昂然として擲られた猫のように唸りだす、

徐(おもむ)ろに肩をいからせながら、おお桑原々々!

ズボンまでが腰のまわりに膨らむだろう。

 

そして君は聞くだろう、奴等が禿げ頭を

暗い壁に打ちつけるのを、曲がった足をジタバタしながら、

奴等の服のボタンは鹿ノ子色の瞳のようで

廊下のどんづまりみたいな視線を君は投げかけられる!

 

いったい奴等は人を刺す目に見えない手を持っている……

ひっ返す時に、奴等の濾過器のような視線・黒い悪意は

打たれた牝犬の嘆かわしげな眼をしている、

君は狂暴な漏斗の中に吸込まれたようでがっかりする。

 

再び着席して、汚れたカフスの中に拳をひっこめて、

奴等は奴等を呼び起した者のことを考えている

そして、夕焼のような奴等の咽喉豆が

か弱い顎の下で刳(えぐ)られるように動くのを覚える。

 

はげしい睡気がきざす時、

奴等は結構な椅子の上で夢みる、

ほんに可愛いい布縁の椅子のことを

立派な事務室にその椅子が並べられたところを。

 

インクの花は花粉の点々と跳ねっかし

蹲った臍に沿って水仙菖(すいせんあやめ)の繊維のように

蜻蛉の飛行のように奴等をこそぐる、

――そして奴等の手は頬鬚に突かれていじもじする。

 

 私は今此の詩を、学者ぶって冷然と誇張して全部掲げた。そのいともロジックな終りの

章、かくも嬉々として果断な章をまで掲げるを得た。読者は、今やイロニイの力、此の詩人

が恐るべき言葉の力を感得せられたことと思う。それよ、此の詩人が我々に考慮すべく残

したものは、かのいと高き賜物、至上の賜物、智識の壮大な立証、誇りかな仏国的経験で

ある。最近の卑怯なる国際主義流行に際して、力説すべきは、民族生来の宗教的崇高、

即ちランボオが人間的心と魂と精神との不滅の高貴性の不羈の確言である。即ち1883

年の自然主義者等が狭き趣味、絵画的関心によって否みし優しさ、強さ、また大いなる修

辞をである!

 

 強さは、上記の詩篇には殊によく顕れている。その強さたるや逆説や、或る種の形に紛

れてのみ現わされ得る所の恐ろしく美しい気雰の其処に潜められている。その強みは、美し

く純粋な彼が総体の中に、この一文が終る時分にはいよいよ明瞭となるであろう。差当り、

それは「慈悲」だと云っておこう、従来は知られていなかった特殊な慈悲、其処には珍奇

は、かの思想と文体との純潔さ、極度の優しさに、塩や胡椒の役をする。

 

 少しくは野生的で、非常に軟かく、戯画風に綺麗で、親しみ易く、善良で、“なげやりで”、

朗らかで、また先生ぶっている、次の作品の如きを我等嘗ての文学に覓めることは出来な

い。

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。新かな、洋数字に変えました。傍点は” “で示

しました。編者。)

 

 

中原中也が訳した「アルテュル・ランボオ」は

以上のように

「訳稿A」と「訳稿B」として整理されています。

 

ベルレーヌ原作の全訳ではありませんが

ベルレーヌがランボーの作品を例示して

一つひとつに短いけれど的確な論評を加えている

原作の構造がよくわかります。

 

ベルレーヌの原作は

1883年末に5回連載で

週刊文芸誌に発表されました。

 

ランボーの存在が

初めてフランスの若い世代に知らされた

画期的なものでしたが

この時ランボーは文学を捨て

アフリカ奥地で商人として活動していました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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