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2018年7月 9日 (月)

中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「後記」のベルレーヌ

 

 

ベルレーヌについては

中原中也が訳した「ランボー詩集」の後記の記述を

見逃すわけにはいきません。

 

その中で

中原中也はランボーの思想について語り

ベルレーヌを語っています。

 

ランボーの思想を語る中に

ベルレーヌは欠かせない存在でした。

 

 

後 記

 

 私が茲(ここ)に訳出したのは、メルキュル版1924年刊行の「アルチュル・ラン

ボー作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。ただ数篇を割愛したが、その

ためにランボーの特質が失われるというようなことはない。

 

 私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されているが分りに

くいという場合が少くないのは、語勢というものに無頓着過ぎるからだと私は思う。私はだ

からその点でも出来るだけ注意した。

 

 出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となっているように気を付けた。

 

 語呂ということも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するようなことはしなかっ

た。

 

     ★

 

 附録とした「失われた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或

る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにか

く未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボーに関

する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであった、ことは覚えている。――テキストを

御存知の方があったら、何卒御一報下さる様お願します。

 

     ★

 

 いったいランボーの思想とは?――簡単に云おう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそ

れを確信していた。彼にとって基督教とは、多分一牧歌としての価値を有っていた。

 

 そういう彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかった筈だ。

その陶酔を発想するということもはや殆んど問題ではなかったろう。その陶酔は全一で、

「地獄の季節」の中であんなにガンガン云っていることも、要するにその陶酔の全一性とい

うことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足り

ぬことにかかずらっていることだろう、ということに他ならぬ。

 

繻子の色した深紅の燠よ、

それそのおまえと燃えていれあ

義務(つとめ)はすむというものだ、

 

 つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられ

てはいるが貴重なものであると思われた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。

 

 所で、人類は「食うため」には感性上のことなんか犠牲にしている。ランボーの思想は、

だから嫌われはしないまでも容れられはしまい。勿論夢というものは、容れられないからと

いって意義を減ずるものでもない。然しランボーの夢たるや、なんと容れられ難いものだろ

う!

 

 云換れば、ランボーの洞見したものは、結局「生の原型」というべきもので、謂わば凡ゆ

る風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが

又表現することも出来ない、恰(あたか)も在るには在るが行き道の分らなくなった宝島の

如きものである。

 

 もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やっとヴェルレーヌ風の楽天主義があるくらいのも

ので、つまりランボーの夢を、謂わばランボーよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿

論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯ヴェルレーヌには、謂わば夢みる生活が始ま

るのだが、ランボーでは、夢は夢であって遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかった。

 

 ランボーの一生が、恐ろしく急テンポな悲劇であったのも、恐らくこういう所からである。

 

     ★

 

 終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚

く御礼を申述べておく。

 

〔昭和12年8月21日〕

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。新かな、洋数字に変えました。編者。)

 

 

ランボーの思想は

パイヤン(異教徒)の思想だ。

――と見抜いた有名な一節が書かれ

つづいてそれを補強する中に

ベルレーヌは現われます。

 

「ランボー詩集」のこの後記は

昭和12年(1937年)8月21日に書かれました。

 

続いて書かれた「在りし日の歌」の後記には

1937年9月23日の日付があります。

 

中也は

この二つの後記を書いてまもなくの10月22日に亡くなります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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