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中原中也を歌う(曲と歌:桜木うさこさん)

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2018年8月

2018年8月30日 (木)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「マンドリン」から「春の夜」へ

 

 

「サーカス」が

1929年(昭和4年)発行の「生活者」に初出したとき

なぜ「無題」だったのでしょうか。

 

詩の中には

きっちりとサーカスの語があるにもかかわらず

タイトルをサーカスとしなかったのは

この詩の多彩で複雑なモチーフを

作者はサーカスに限定する必要を認めなかったからでしょうか。

 

サーカスという言葉が

世間にまだ浸透しておらず

ハイカラ過ぎると見なしたためだったのでしょうか。

 

ほかの理由があったのでしょうか。

 

 

「サーカス」への

ベルレーヌの「木馬」の影響を辿っているうちに

「山羊の歌」の第4番詩「春の夜」にも

ベルレーヌの影が落ちているという案内に巡り合います。

 

中原中也のベルレーヌ翻訳の仕事を追うと

「月」

「サーカス」

「春の夜」

――と続く「山羊の歌」の第2番詩から第4番詩までが

ワイルド、ボードレール、ベルレーヌら

海外の詩人たちの影響を受けていることが明らかになります。。

 

中原中也の詩の中でも

際立った難解詩として聳え立つ「春の夜」への糸口は

ベルレーヌやブラウニングの詩に見い出すことになります。

 

まずは「春の夜」を読みましょう。

 

 

春の夜

 

燻銀(いぶしぎん)なる窓枠の中になごやかに

  一枝(ひとえだ)の花、桃色の花。

 

月光うけて失神し

  庭の土面(つちも)は附黒子(つけぼくろ)。

 

ああこともなしこともなし

  樹々(きぎ)よはにかみ立ちまわれ。

 

このすずろなる物の音(ね)に

  希望はあらず、さてはまた、懺悔(ざんげ)もあらず。

 

山虔(やまつつま)しき木工(こだくみ)のみ、

  夢の裡(うち)なる隊商(たいしょう)のその足竝(あしなみ)もほのみゆれ。

 

窓の中にはさわやかの、おぼろかの

  砂の色せる絹衣(きぬごろも)。

 

かびろき胸のピアノ鳴り

  祖先はあらず、親も消(け)ぬ。

 

埋(うず)みし犬の何処(いずく)にか、

  蕃紅花色(さふらんいろ)に湧(わ)きいずる

      春の夜や。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

次にベルレーヌの「Mandline」です。

 

中原中也はこの詩を翻訳していませんが

原作を読んだことは間違いなく

川路柳虹訳を参照した可能性も高く

「春の夜」の詩世界と非常に近似した空気が漂う詩です。

 

 

マンドリーヌ  

川路柳虹訳

 

絹の短い胴着(どうぎ)をきて

長い裳裾(もすそ)は後に曳く、

その優しさ、その楽しさうな様子、

そのしとやかな青い衣(きぬ)の影。

 

うす薔薇色の月の光りに

恍惚(うつとり) 取り巻かれ、

そよ吹く軟らかな風につれて

囀りしきるマンドリーヌ。

 

(「ヹルレーヌ詩集」より。「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ「解題篇」より孫引きしました。)

 

 

次には先に読んだ

中原中也訳の「Ⅴ (たをやけき手の接唇くるそのピアノ)」も参照しておきましょう。     

 

 

Ⅴ (たをやけき手の接唇くるそのピアノ)     ポール・ヴェルレーヌ

 

     ほがらかのクラヴサン

     その嬉しさよ、うるささよ。    ペトリュス・ボレル

 

たをやけき手の接唇(くちづ)くるそのピアノ

きらめけり薔薇と灰とのおぼろなる夕(ゆふべ)の裡に、

軽やかに羽搏く音かその音色

疲れて弱く媚やかに、

物怖ぢしたる如くにも、ためらひつつは去(あ)れもゆく、

移り香ながき部屋よりは。

 

ふとし遇ふこの揺籃(ゆりかご)のいかならん

たゆけくも今日をし生くるわれを慰む。

何をかわれに欲りすとや、戯唄(ざれうた)とてか。

何をかわれに欲りしけるとらへがたなき折返し、

絶えんとするにあらざるや、細目に開けし

窓よりは、木庭の方(かた)へ

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。ルビは中原中也が振ったものだけを表記しました。編者。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年8月29日 (水)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「木馬」から「サーカス」へ

 

 

ここで

「木馬」と「サーカス」の繋がりについての

重要なニュースです。

 

「木馬」が1929年(昭和4年)以前に制作された可能性について、

「山羊の歌」の第3番詩「サーカス」のサーカスという言葉が

一般に普及したのは

昭和8年(1933年)頃のことで

それ以前は曲馬団または曲馬だったからという理由を

「新編中原中也全集」が詳細に案内しています。

 

ここでその解題に立ち止まって

注目してみましょう。

 

中原中也が訳したベルレーヌの「木馬」が

中也の詩の人気No1とも言われている

「サーカス」に反映しているというものですから

その二つに繋がりがあるとすれば

思わず身を乗り出す姿勢になります。

 

 

タイミングのよいことに

「木馬」の中原中也訳と

川路柳虹訳とを読んだばかりですから

もう1度、その第4連に目を凝(こ)らしましょう。

 

うつとりするだよ、曲馬に行つて

鱈腹遊んだ時のやうだよ!

腹には怡しく頭に悪くも、

世間に悪くも二人はよろしく。

――とあるのが中原中也の訳。

 

そこで二人が飽きるまで

よろこびもつれよ、曲馬のなかで。

頭(かしら)は重くも、腹ではたのしく、

世間はつらくも、二人はたのしく。

――とあるのが川路柳虹訳。

 

二つの訳の中に現われる「曲馬」に

新全集は鋭い眼差しを向けます。

 

 

サーカスという言葉が一般に普及する以前は

曲馬団もしくは曲馬が使われていました。

 

サーカスの語が使われるようになったのは

1933年(昭和8年)頃のことでした。

 

 

「サーカス」が作られたのは

1925年(大正14年)から1926年(大正15年)。

 

それが発表されたのは

倉田百三主宰の「生活者」という雑誌(1929年)で

その時には「無題」(というタイトル)でした。

 

それが第1詩集「山羊の歌」の編集段階(または校正段階)で

「サーカス」のタイトルに改題されます。

 

改題された1932年というこの時期は

ベルレーヌの「木馬」を翻訳した時期にあたります。

 

 

ここで「サーカス」を呼びましょう。

 

 

サーカス

 

幾時代かがありまして

  茶色い戦争ありました

 

幾時代かがありまして

  冬は疾風(しっぷう)吹きました

 

幾時代かがありまして

  今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り

    今夜此処での一と殷盛り

 

サーカス小屋は高い梁(はり)

  そこに一つのブランコだ

見えるともないブランコだ

 

頭倒(あたまさか)さに手を垂れて

  汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

それの近くの白い灯(ひ)が

  安値(やす)いリボンと息を吐(は)き

 

観客様はみな鰯(いわし)

  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

      屋外(やがい)は真ッ闇(くら) 闇の闇

      夜は劫々と更けまする

      落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと

      ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えました。編者。)

 

 

「サーカス」は

ベルレーヌの「木馬」に繋がっていると言えるわけです。

 

それは詩想とかテーマとかへの繋がりとは

別の筋(すじ)のことかもしれませんが

多彩な「サーカス」の世界を生み出した

一つのモチーフ(動機)であったことは

間違いないことでしょうから

やはり繋がりということで重大な意味を持ちます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年8月27日 (月)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「言葉なき恋歌」より・その6/「木馬」の川路柳虹訳

 

 

「木馬」には口語自由詩運動のトップランナー、川路柳虹の翻訳があり

まさしく口語で訳していますから

読まずにはいられません。

 

 

木馬             

          サンジールのほとりに

          吾らきたりぬ、

          わが足早なる

          栗毛の駒よ。

                 (ヴィクトル・ユーゴー)

 

まはれよ、まはれよ、よい木馬、

まはれよ、百ぺん、さて千べん。

いつもぐるぐるまはつておいで、

まはれよ、まはれよ、竪笛(オボア)の音に。

 

太(ふと)つた兵隊と太つた酌婦(をんな)、

室(へや)にゐるよにその背の上に!

今日(けふ)はさてこそカンブルの森で

おまへの主人も二人(ふたり)づれ。

 

まはれよ、まはれよ、心の馬も

はしこい掏摸(すり)の眼(め)のやうにまはれ、

勇んだピストンの動くがまゝに

まはれよ、二人(ふたり)競争で。

 

そこで二人が飽きるまで

よろこびもつれよ、曲馬のなかで。

頭(かしら)は重くも、腹ではたのしく、

世間はつらくも、二人はたのしく。

 

まはれよ、まはれよ、その馬には

拍車をつける要もない、

跳ばさうとおもへばたゞまはれ、

秣草(まぐさ)を食わす要(えう)もない。

 

されば急げよ、心の馬も、

もう日もかげり夜となる、

鳩と孔雀は一しよにさせよ、

市場にかくれて、女房にかくれて。

 

まはれよ、まはれよ、空はしづかに

金のをば夜衣(よぬ)につゝむ、

こゝにいとしい二人のわかれ。

まはれよ、太鼓のたのしい音に。

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳・解題篇」より。編者。)

 

 

この翻訳は

大正8年(1919年)発行の

「ヹルレーヌ詩集」」(新潮社)に収録されてあります。

 

エピグラフはユーゴーの引用ということで

文語ですが

本文は歴史的仮名遣いで

勘違いしやすいけれども

完璧な口語であることがわかります。

 

中原中也の訳と

かなり近似しているのは

中也が川路柳虹の訳に賛意を抱いたことを示すでしょうが

異なる翻訳であることも明らかです。

 

詩の把握に根底で同意しているので

声調も近しいものがありますが

詩のまなざし、語彙の選択、句読などに

中也の独自性はくっきりと保たれています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年8月26日 (日)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「言葉なき恋歌」より・その5/「木馬」

 

 

Never More

(われ等物事に寛大でありませう)

(たをやけき手の接唇くるそのピアノ)

――とベルレーヌの詩を訳してきて

4番目に取り上げたのは「木馬」です。

 

「Never More」がベルレーヌの第1詩集「サチュリアン詩集」にあるほかは

「木馬」も第4詩集「言葉なき恋歌」に収められていますが

「木馬」は第2詩群「ベルギー風景」にあります。

 

(われ等物事に寛大でありませう)

(たをやけき手の接唇くるそのピアノ)

――が「言葉なき恋歌」の第1詩群「忘れられた小曲」にあり

中原中也が比較的に初期(というのは「叡智」の前)のベルレーヌの詩を

翻訳した跡がうかがわれます。

 

 

木馬             ポール・ヴェルレーヌ

          サン・ヂルのほとり

          われら来りぬ、

          わが足早の

          栗毛の駒よ。

                 (ヴェ・ユゴー)

 

まはれよ、まはれよ、よい木馬、

まはれよ、百ぺん、さて千ぺん、

まはれよさいさい、まはれよたやさず、

まはれよ、まはれよオボアの音に。

 

太つた兵隊、太つちよ酌婦(をんな)は

木馬に跨がり部屋の中。

さてこそ、この日は、カンブルの森に、

主(あるじ)夫婦は行つて留守。

 

まはれよ、まはれよ、思ひの馬も、

なれらの軍祭(まつり)のめぐりにて

はしこい掏摸奴の目がしばたたく、

まはれよ、勇んだ吸鰐(ピストン)の音に。

 

うつとりするだよ、曲馬に行つて

鱈腹遊んだ時のやうだよ!

腹には怡しく頭に悪くも、

世間に悪くも二人はよろしく。

 

まはれよ、まはれよ、拍車をつける

用もあるまい、あるものか

おまへの足竝早めるためなら、

まはれよ、まはれよ、秣草も忘れて。

 

情けの馬も急がせよ、

ここに夜さへ訪れて、

鳩と孔雀は一緒になるに、

市場を遠ざけ女房を遠ざけ。

 

まはれよ、まはれよ、御空はビロード

金のお星の着物を着るよ。

ここにいとしい二人の別れ。

まはれよ太鼓の楽い音に。

                     サン・ヂル市場にて、千八百七十二年八月。

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。ルビは、原作にあるものだけを振りました。編者。)

 

 

中原中也がこの詩を翻訳したのは

1929年(昭和4年)もしくはそれ以前とされています。

 

翻訳詩篇の記録帖、清書ノートとして使われていた「ノート翻訳詩」に

別のノートに記されたこの翻訳が貼付されてあるため

昭和4年以前の制作の可能性が推測されています。

 

ということは

翻訳の仕事全体の中でも

かなり早い時期の制作ということになりますが

それが実際いつだったのかは

いまのところわかっていません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2018年8月24日 (金)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「言葉なき恋歌」より・その4/同時代訳

 

 

「言葉なき恋歌」の第1詩群「忘れられた小曲」第5番の日本語訳については

「新編中原中也全集」が同時代訳としていくつかを挙げていますが

そのうちの

永井荷風訳と堀口大学訳と鈴木信太郎訳を

ここで読んでおきましょう。

 

まず永井荷風訳です。

 

 

ぴあの          ポオル・ヴェルレエン

 

しなやかなる手にふるるピアノ

おぼろに染まる薄薔薇色(うすばらいろ)の夕(ゆうべ)に輝く。

かすかなる翼(つばさ)のひびき力なくして快(こころよ)き

すたれし歌の一節(ひとふし)は

たゆたひつつも恐る恐る

美しき人の移香(うつりが)こめし化粧(けしょう)の間(ま)にさまよふ。

 

ああ我(われ)思ひをばゆるゆるゆする眠りの歌。

このやさしき唄の節(ふし)、何をか我(われ)に思へとや。

一節毎(ひとふしごと)に繰返す聞えぬ程のREFRAIN(ルフラン)は

何をかわれに求むるよ。

聞かんとすれば聞く間(ま)もなく

その歌声は木庭の方に消えて行く。

細目にあけし窓のすきより。

 

(新潮文庫「珊瑚集」永井荷風訳より。昭和28年発行、昭和43年9刷改版。)

 

 

「珊瑚集」は

大正2年(1923年)に籾山書店から発行されました。

 

 

忘れた小曲

 その五

         クラヴサンの音のほがらかに

         うれしくて うるさくて

                   ペトリュス・ボレル

 

白魚の細き指(おゆび)の口づくるピアノは光る

ばら色と灰色の夕のおくに、ほのかにも、

かかる時、羽ばたきのかそけき音の聞えきて

古き世のはかなき歌のなつかしく、

ためらいがちに、ひそひそと立ち去り迷う

よき人の移り香ながき室(へや)のうち。

 

忽ちに現れて、哀れなるこのわれを打ちめぐり、

やさしくもいつくしむこの歌の揺籃は、何やらん?

にこやかなその歌よ、何をかわれに求むるや?

細目にあけし小窓より、やがて庭へと消えゆかん

はかなき節の繰返(くりかえし)、

何をかわれに思えとや?

               Le piano que baise…

 

(新潮文庫「ヴェルレーヌ詩集」堀口大学訳より。昭和25年発行、昭和37年第19刷。)

 

 

堀口大学はこの翻訳を

昭和2年(1927年)に発行した「ヴェルレエヌ詩抄」(第一書房)に収録しました。

 

 

しなやかなる手の接吻くる ピアノ

          よく響く古洋琴(クラヴサン)の賑やかな五月蠅(うるさ)い音

                                  (ペトリュス・ボレル)

 

しなやかなる手の接吻(くちづ)くる ピアノ、

仄(ほの)かに暗き夕(ゆうべ)の桃色の中に 光れば、

羽搏(はばたき)の 幽(かそ)けく軽き響もて

いと古く いと弱く いと愛らしき 調(しらめ)は、

彼女(かのひと)の移香(うつりが)長く罩 めし閨(ねや)に

物怖(ものおぢ)か 忍び忍びに たち迷ふかな。

 

そも何ぞ、わが哀れなる身を ゆくりなく

ゆららに揺がす この揺籃(えうらん)は。

たはむれの長閑(のどか)の歌よ、このわれに何を求むる。

はた何を求めしぞ、定かならぬ美(い)しき歌の句、

繰り返し繰り返しては、いさら園生(そのふ)に

細く開ける窓の辺に 息も絶え絶え。

               Le piano que baise une main fréle

 

(岩波文庫「ヴェルレエヌ詩集」鈴木信太郎訳。1952年第1刷発行、1987年第31刷。ルビは一部を省略し、漢字を新漢字に改めました。編者。)

 

 

鈴木信太郎訳のこの詩は

大正13年(1924年)発行の

「近代仏蘭西象徴詩抄」(春陽堂)に収録されました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2018年8月23日 (木)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「言葉なき恋歌」より・その3/川路柳虹訳

 

 

 

Ⅴ (たをやけき手の接唇くるそのピアノ)     ポール・ヴェルレーヌ

     ほがらかのクラヴサン

     その嬉しさよ、うるささよ。    ペトリュス・ボレル

 

たをやけき手の接唇(くちづ)くるそのピアノ

きらめけり薔薇と灰とのおぼろなる夕(ゆふべ)の裡に、

軽やかに羽搏く音かその音色

疲れて弱く媚やかに、

物怖ぢしたる如くにも、ためらひつつは去(あ)れもゆく、

移り香ながき部屋よりは。

 

ふとし遇ふこの揺籃(ゆりかご)のいかならん

たゆけくも今日をし生くるわれを慰む。

何をかわれに欲りすとや、戯唄(ざれうた)とてか。

何をかわれに欲りしけるとらへがたなき折返し、

絶えんとするにあらざるや、細目に開けし

窓よりは、木庭の方(かた)へ

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。ルビは中原中也が振ったものだけを表記しました。編者。)

 

 

ベルレーヌが歌ったのは

千々に乱れる思いだったのでしょうか。

 

いや、こういう問いの立て方は

詩を見失うことになるでしょう。

 

千々に乱れているのは確かですが

ベルレーヌの気持ちは

すでに決まっています。

 

決まった上で、

何をかわれに欲りすとや

――と心はマチルドに問い

いつまでも弾きやまないピアノの音色に

聴き耳を立てています。

 

 

未完成でありますが

中也の翻訳は

ベルレーヌを真芯(ましん)に捉えています。

 

文語に訳したのは

幾分か嫋嫋(じょうじょう)とした響きを

抑制する狙いがあったからでしょうか。

 

こう書いたところで

口語自由詩運動の旗手、川路柳虹の訳が見つかりましたので

それを読みましょう。

 

 

「忘れられた小唄」Ⅴ

   かぎりなきかの歓びはうち鳴らすピアノなり

                    ――ペトリューボレル――

 

繊弱(かよわ)き手もてうち触るゝピアノの音(ね)

朧ろに暗き薔薇色の薄暮(かはたれ)どきに輝けり、

さはれいとも軽やかの羽音もて、

昔ながらのひと節(ふし)はいと脆(もろ)くいと魅(まど)はしく、

恐るゝごとき気はひもてひそやかに、

彼女(かのひと)の移り香こめし化粧の間にぞ鳴り響く。

 

静やかにこの憐れなる身を揺する

思ひもかけぬ眠りの歌は何ならむ

めづらかに優しきひゞき何をか吾に求むらむ、

きゝとれがたきその最後(いやはて)の繰返句(ルフラン)は

こころもち少き庭園(には)に打ちひらく

窓の際より消えゆくものを。

 

(「新編中原中也全集」第1巻「詩Ⅰ解題篇」中「春の夜」解題より。)

 

 

ベルレーヌだから

文語定型に翻訳したのは

詩人の意図があったからでしょう。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年8月22日 (水)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「言葉なき恋歌」より・その2

 

 

ベルレーヌの「言葉なき恋歌」中の詩群「忘れられた小曲」第4番の次に

中原中也は第5番を訳します。

 

これも未完成・未発表詩です。

 

 

Ⅴ (たをやけき手の接唇くるそのピアノ)     ポール・ヴェルレーヌ

     ほがらかのクラヴサン

     その嬉しさよ、うるささよ。    ペトリュス・ボレル

 

たをやけき手の接唇(くちづ)くるそのピアノ

きらめけり薔薇と灰とのおぼろなる夕(ゆふべ)の裡に、

軽やかに羽搏く音かその音色

疲れて弱く媚やかに、

物怖ぢしたる如くにも、ためらひつつは去(あ)れもゆく、

移り香ながき部屋よりは。

 

ふとし遇ふこの揺籃(ゆりかご)のいかならん

たゆけくも今日をし生くるわれを慰む。

何をかわれに欲りすとや、戯唄(ざれうた)とてか。

何をかわれに欲りしけるとらへがたなき折返し、

絶えんとするにあらざるや、細目に開けし

窓よりは、木庭の方(かた)へ

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。ルビは中原中也が振ったものだけを表記しました。編者。)

 

 

「媚やか」は「あでやか」

「欲りす」は「ほりす」

――と読む古語的表現ですが

詩人はルビ(フリガナ)を振っていません。

 

「去れもゆく」にルビを振ったのは

難度が高いと見た詩人の言語認識でしょう。

 

 

ベルレーヌがこの詩を発表した文芸誌の発行日が

1872年6月29日で

この日から1週間後には

ベルレーヌはランボーとともにベルギー、イギリスへの放浪の旅に出ました。

 

 

新妻マチルドの弾くピアノなのでしょうか。

 

クラブサンの歓喜の調べとともに

うるささを歌ったこの詩のエピグラフは

詩人ペトリュス・ボレルの詩句だそうです。

(「新編中原中也全集」第3巻「解題篇」。)

 

そうであるならこの詩は

マチルドの弾くピアノの妙なる調べを賛美しながらも

時には疎んじるほどうるさく感じていたベルレーヌが

それを隠そうとしなかったことを示します。

 

そうではあっても

心根のやさしいベルレーヌが

何をかわれに欲りすとや(私に何を求めるのか)

――と歌って迷いを表明しているのは

事態がまだ決定的な段階に至っていなかったからでしょうか。

 

マチルドの驚愕と憤怒と絶望を

想像することができても

ベルレーヌのほうには楽観的気分が漂います。

 

 

ランボーはベルレーヌの新しい恋人でした。

 

そのあたりの事情を

中原中也は把握していた様子です。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年8月21日 (火)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「言葉なき恋歌」より・その1

 

 

「Never More」に続いて

中原中也が訳したベルレーヌの詩は

「言葉なき恋歌」の中にある詩群「忘れられた小曲」の第4番です。

 

この第4番の前には

「雨はしとしと市(まち)にふる。

     アルチュール・ランボー」

――のエピグラフがあり

「巷に雨の降るごとく

我が心にも涙ふる。」

――の書き出しで有名な第3番があります。

 

中原中也は第3番を訳さずに

第4番、第5番を訳しましたが

どちらも未完成に終っています。

 

 

Ⅳ (われ等物事に寛大でありませう)     ポール・ヴェルレーヌ

 

われ等物事に寛大でありませう。

かくてこそわれ等は幸福でありませう、

そしてもしわれ等の生活に気むずかしい時があつても、

ねえ、ただ二人して泣いてゐませう。

 

とりとめないわれ等の誓にあどけない優しさをこそ

たぐへませう、われ等相寄る魂は、

世の男達女達から遠く離れて、

われ等を逐ひ退けるもののことをきれいに忘れて。

 

二人の子供、二人の若い娘のやうでありませう

なにものに耽ることなくなにものに驚異(おどろ)かざるなき。

よごれなきあかしでの下、恕し合ひそれとも知らで

蒼ざめゆかん二人の子供、二人の娘。

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。)

 

 

ベルレーヌは「言葉なき恋歌」を

1874年に出版しましたが

この詩が作られたのは1872年と推定されています。

 

この頃ランボーの出現で

マチルドとの新婚生活はピンチの最中でした。

 

ベルレーヌは

マチルドに呼びかける形のこの詩を

後に振り返って歌ったのでしょう。

 

 

中原中也にも

これに似た詩がありますね。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年8月20日 (月)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「Nevermore」その3永井荷風訳と堀口大学訳

 

 

永井荷風が1913年に刊行した「珊瑚集」には

「Nevermore」が「返らぬむかし」の題で訳出されました。

 

「珊瑚集」には

ポオル・ヴェルレエンの名で

7作品が収められています。

 

 

返らぬむかし      ポオル・ヴェルレエン

 

ああ、遣瀬なき追憶の是非もなや。

衰へ疲れし空に鵯(ひよどり)の飛ぶ秋、

風戦(そよ)ぎて黄ばみし林に、

ものうき光を日は投げし時なりき。

 

胸の思ひと髪の毛を吹く風になびかして、

唯二人君と我とは夢み夢みて歩みけり。

閃く目容(まなざし)は突(つ)とわが方にそそがれて、

輝く黄金の声は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。

 

打顫ふ鈴の音のごと爽(さわやか)に、響は深く優しき声よ。

この声に答へしは心怯(おく)れし微笑(ほほえみ)にて、

われ真心の限り白き君が手に口付けぬ。

 

ああ、咲く初花の薫りはいかに。

優しき囁きに愛する人の口より洩るる

「然り」と頷付く初めての声。ああ其の響はいかに

 

(新潮文庫「珊瑚集」より。昭和28年発行、昭和43年改版。原作にあるルビの多くを省略しました。編者。)

 

 

中也が「Never More」を訳したのは1929年(推定)ですから

その15、6年前の翻訳ということです。

 

第2連末行の、

輝く黄金の声は云ふ「君が世の美しき日の限りいかなりし」と。

――にやはりインパクト不足を感じますが

「あなたの人生の最も美しい日はどんなものでした」と

恋人に問われて

口づけを白い手に返すところは

その場面が鮮やかに浮かんできて

中也訳と同様です。

 

 

ところでベルレーヌの

Nevermoreはいったい何に対して

Nevermoreだったのでしょうか?

 

最大の疑問が残りますが

この詩の現在から読み解く翻訳がほとんどで

遠い過去の思い出の恋が歌われたものと

永井荷風も鈴木信太郎も堀口大学も

みんながそのように訳しました。

 

中也は

ベルレーヌの原作をそのままタイトルに残しました。

 

何か言いた気(げ)ですが

真意はわかりません。

 

過去の恋の思い出であっても

今ここにある恋心に変わりはないということでしょうから

さほど気にすることではないかもしれません。

 

 

堀口大学訳はどうでしょうか?

 

 

かえらぬ昔

 

思い出よ、思い出よ、僕にどうさせようとお言いなのか?

その日、秋は、冴(さ)えない空に鶫(つぐみ)を舞わせ

北風鳴り渡る黄葉の森に

太陽は単調な光りを投げていた。

 

僕らは二人っきりだった、僕らは夢見心地で歩いていた、

彼女も僕も二人とも、髪の毛も僕の思いも、吹く風になぶらせて。

ふと僕のほうへ思いつめた瞳を向けて、さわやかなその声が尋ねてくれた、

「あなたの一番幸福な時はいつでしたか?」

 

彼女の声はやさしく天使のそれのように朗らかに響き渡った。

僕の慎ましい微笑がその問に答えた、そして

遠慮がちな気持で僕はその手に接吻(くちづけ)した。

 

――ああ、なんと、咲く初花のかんばしさ!

ああ、なんと、恋人の脣もれる最初の応諾(ウイ)の

うれしくも、やさしくも、人の心にささやくよ!

                        Nevermore

 

(新潮文庫「ヴェルレーヌ詩集」より。昭和25年発行、平成19年改版。原作のルビの多くを省略しました。編者。)

 

 

ベルレーヌの恋歌は

口語体にもよく馴染むものであることを

堀口大学の訳は証明しましたね。

 

回り道でしたが

中也のベルレーヌ訳を味わう手助けになったことでしょう。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2018年8月18日 (土)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「Never More」その2

 

 

Nevermoreは

エドガー・アラン・ポー(1809~1849)の名作「大鴉」The Ravenで

各連の終りに繰り返されるリフレイン(ルフラン)です。

 

シャルル・ボードレール(1821~1869)の紹介以後

フランス国内に知れ渡ることになったこの詩に

ベルレーヌが触れたのは必然の流れでした。

 

ポール・ベルレーヌ(1844~1896)の第1詩集「サチュルニアン詩集」は

1886年に発行されましたが

「Nevermore」を第2番詩に置きます。

 

ベルレーヌは

ポーの長詩をパロッたものではなく

ベルレーヌ独自の恋歌として

ソネットに歌いました。

 

中原中也がベルレーヌの著作集を入手したのは

1926年(大正15・昭和元年)ですが

第2番にあったこの詩を読んだのは

それから間もない時であったことが推測できます。

 

中原中也のこの頃といえば

長谷川泰子を失った直後になります。

 

 

Never More     ポール・ヴェルレーヌ

 

憶ひ出よ、憶ひ出よ、おまへ、どうしようといふのだ? 秋は

気拙い空に鶫を飛ばし、

して太陽は、ひといろの光を投げてゐた

黄色になりゆく森の上に――其処で北風の捲き起る。

 

私達だけだつた夢見心地で歩いていつた、

彼女と私と、髪の毛と思ひとを風に晒して。

ふと、私の方にその瞳は向けられて、

あなたのいとも良い日はどうしましたとその声が。

 

その声はやさしい朗らかな声で、祈りの鐘のやうに爽やかだつた。

つつましい微笑で私はそれに答へた、

それから私はその白い手に接唇けた、敬虔な心持で。

 

――ああ! その薫つてゐた初花!

そしてそれが響かしたかあいい

にこやかな脣から出た最初の“Oui”!

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。)

 

 

ベルレーヌの原作は「Nevermore」ですが

中原中也は「Never More」としました。

 

鈴木信太郎は「また還り来ず」

堀口大学は「かえらぬ昔」です。

 

「新編中原中也全集」はほかに

永井荷風「返らぬむかし」

新城和一「Never More」

川路柳虹「かへらぬむかし」

竹友藻風「またかへらず」

――を紹介しています。

 

 

詩のはじまりが思い出を問うているのですから

そこからタイトルにする流れが出来たようですね。

 

中也は

それに違和感を抱いたのかもしれませんが

この時、新城和一訳を参照したのかどうか

それはわかりません。

 

 

この詩の女性は

ベルレーヌの第1詩集「サチュルニアン詩集」の発行費用を負担した

8歳年上の従姉エリザとする説が流布しています。

 

「サチュルニアン詩集」出版当時

デュジャルダン夫人であったこの従姉は

詩集が出た翌年に他界します。

 

中原中也がこのあたりに通じていたかはわかりませんが

心と心が秋風に靡くままに一体になった男女の

静かに燃えるような接吻(べーぜ)の

完璧な(という言い方しか今思い浮かびませんが)瞬間を歌った

ベルレーヌの詩の核心を捉えています。

 

第2連

あなたのいとも良い日はどうしましたとその声が。

――を読んだ初めのうちは

インパクトに欠けるかなどと感じていましたが

その「いとも良き日」こそ今なのだ

あの日、私はその今を彼女に伝えることができた幸福を

忘れはしないNevermore(もはや決して)と読めるようになって

やはりここには中原中也があると理解します。

 

エリザのエピソードを知らなくても

この詩を読むことができることでしょうが

知っていてマイナスになることもありません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年8月17日 (金)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「Never More」

 

 

中原中也が訳したベルレーヌに関する散文は

生前発表されたものとして

「ポーヴル・レリアン」のほかに

「トリスタン・コルビエール」があり

この2作が「呪われた詩人たち」に収録されましたが

「アルテュル・ランボオ」は

未完成(生前未発表)になりました。

 

散文で生前発表された翻訳では

レッテの「ヴェルレーヌ訪問記」や

ランボーがベルレーヌに宛てた書簡2通があり

ベルレーヌを「外」から捉えたまなざしを

中原中也が研究した形跡があります。

 

ベルレーヌが書いた評論(コルビエール、ランボー、ベルレーヌ自身)

ベルレーヌへのインタビュー記事(レッテ)

ランボーがベルレーヌに宛てた手紙

――とを

中也は、読み翻訳して

ベルレーヌの輪郭を掴もうとした戦略が

よくわかるラインアップと言えるでしょう。

 

ベルレーヌという人物のアウトラインを掴んで

中也が同時的に目指したのは

ベルレーヌの詩作品でした。

 

中原中也が訳したベルレーヌの詩のその一つを

まず読みましょう。

 

 

Never More     ポール・ヴェルレーヌ

 

憶ひ出よ、憶ひ出よ、おまへ、どうしようといふのだ? 秋は

気拙い空に鶫を飛ばし、

して太陽は、ひといろの光を投げてゐた

黄色になりゆく森の上に――其処で北風の捲き起る。

 

私達だけだつた夢見心地で歩いていつた、

彼女と私と、髪の毛と思ひとを風に晒して。

ふと、私の方にその瞳は向けられて、

あなたのいとも良い日はどうしましたとその声が。

 

その声はやさしい朗らかな声で、祈りの鐘のやうに爽やかだつた。

つつましい微笑で私はそれに答へた、

それから私はその白い手に接唇けた、敬虔な心持で。

 

――ああ! その薫つてゐた初花!

そしてそれが響かしたかあいい

にこやかな脣から出た最初の“Oui”!

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。)

 

 

シャルル・ボードレールが

エドガー・アラン・ポーの名作「大鴉」を

フランス語に翻訳・紹介したのは

1853年のことでした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2018年8月15日 (水)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「ポーヴル・レリアン」その6

 

 

「小老牡山羊」に

中原中也が特別な関心を持ったであろうことは

「山羊の歌」という詩集題のネーミングばかりでなく

羊、野羊、アストラカン……など

羊へのこだわりが

創作詩の幾つかに見られることからも理解できます。

 

自作詩へ「羊」を使用するに至るには

「ポーヴル・レリアン」の翻訳もそうですが

ランボーの「太陽と肉体」の翻訳で

半人半山羊(サチール)des satyresや

山羊足ses pieds de chevreを訳す経験があり

その拠り所となった中原中也愛用の模範仏和大辞典には

satyreの語義として

「半人半山羊の神(神話)」とあり、

Chevreは「牝山羊」の記載があることがわかっていますから

翻訳という作業の中で

詩人は語彙力を養ったことを推測できます。

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳・解題篇」。)

 

 

サチールまたはサチュルスは

ベルレーヌがサテュルニアンPoemes Saturniensを

第1詩集のタイトルとしていることから

中原中也はかなり早い時期に(というのはランボーから知ったのより早く)

ベルレーヌから知っていたことが推測されて驚くばかりです。

 

ベルレーヌは

「ポーヴル・レリアン」でランボーを紹介して

「フォーヌの頭」を引用していますし

フォーヌが半獣神であることはよく知られたことですし

この獣には羊の面影が

色濃く漂よっています。

 

と同時にこの神が

創造の神として現れているところを

中也が見逃すわけがありません。

 

 

「ポーヴル・レリアン」に戻っていえば

カトリシズムへの改心と

それが及ぼす詩作への関係(無関係)の記述も

簡潔で核心に触れるものでした。

 

そして、「ポーヴル・レリアン」の結末部に

ランボーを登場させたことの意図も

くっきりとしてきます。

 

ベルレーヌは

不当にも理解されていない詩人たちの一人として

ランボーを紹介しました。

 

ベルレーヌの栄光と悲惨(無理解)は

ランボーの栄光と悲惨へ

まっすぐに繋がっていたとでも言わんばかりに

ベルレーヌは自らの名を偽って自らの評伝を書き

ランボーの詩を「ポーヴル・レリアン」で称賛しました。

 

 

ところで「ポーヴル・レリアン」に現われる創作履歴は

翻訳によって様々に異なります。

 

一つの著作は色々に訳されて

混乱することがありますので

ベルレーヌが案内した著作や詩集のタイトルを

「ポーヴル・レリアン」を読み終えるにあたって

整理しておきましょう。

 

ベルレーヌは

初出のタイトルを後の決定版で変更する場合が多く

ここでは鈴木信太郎訳と対照します。

 

(鈴木信太郎の翻訳は筑摩書房の世界文学大系43「マラルメ、ヴェルレーヌ、ランボー」

に収録されてある「ポオヴル・レリアン」を参照。)

 

中原訳「ポーヴル・レリアン」に出てくる順に番号を振り

はじめに中原中也の訳

次に、それの鈴木信太郎訳、

その次に、そのフランス語タイトル

次に、完成版の刊行年とそのタイトルの訳とフランス語原題

――という内訳です。

 

 

1、 智慧 サピエンチアSapientia。1881年、叡智Sagesse

2、 慈愛 慈悲Charitiè。1888年、愛の詩集Amour

3、 兇星 邪悪の星Maubaise Etoile.。1866年、サテュルニアン詩集Poemes Saturniens

4、 シテールへ シテエルへPour Cythère。1869年、艶なる讌楽Fetes galantes

5、 結婚の籠 結納の籠Corbeilles de Noces。1872年、よき歌Bonne Chanson

6、 フリュ-トと角笛 同Flute et Cor。1874年、言葉なき恋歌Romances sans Parol

7、 昨日と今日 一昨日と今日Avant-heir et hier。1885年、昔と近頃Jadis et Naguère

8、 難解者 理解されぬ人々Les Incompris。1884年、呪はれた詩人たちLes Poetes Mauditsの初版

9、 的を外れて 傍らにA cĉté。1889年、雙心詩集Parallelement

10、 ソクラテス解 ソクラテス註解Les Commentaires de Socrate.。1886年、或るソ夫の思出Les Commentaires de Socrate

11、 クロヴィス・ラプスキュル 同Clovis Labscure。1886年、ルイズ・ルクレエルLouise Leclerq

 

 

「ポーヴル・レリアン」の増補改訂版は

1888年発行ですから

それまでのベルレーヌの著作履歴が

ほぼ万遍なく紹介されていることがわかります。

 

さほど長文ではないのにもかかわらず

ここでもベルレーヌの要を得た構成を

見ることができます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年8月14日 (火)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「ポーヴル・レリアン」その5

 

 

中原中也の訳した

ベルレーヌの「ポーヴル・レリアン」を一読して

ベルレーヌが自らに忌憚ない(というのは変な言い方ですが)

冷徹なまなざしを向け

同じようにランボーにも賛辞を送っているのは

自伝の中でのことであり

ランボーはもやはベルレーヌを語る時に

不可欠な存在であることのあからさまな証しです。

 

ベルレーヌは

自らの眼に狂いのなかったことを

終生疑わなかったのですし

それは晩年の落魄を見つめるまなざしにもあり続けました。

 

ベルレーヌは

まだまだ書きたいというメッセージを

「ポーヴル・レリアン」のエンディングに添えます。

 

 

中原中也の選んだ語彙に

目を配りながら

ベルレーヌ自身に向けたメッセージでもありそうな評言を

少し振り返ってみましょう。

 

中原中也という詩人独自の

言語意識(感性)とか言葉の感覚とか

語彙力とか、

あれでもないこれでもない

これであるという

詩語選択の現場に立ち会うことが

「ポーヴル・レリアン」を読むことで可能でしょうから。

 

中也は

いったんは対象の詩の中に入って

作者の現にある境地に自分を置くように努め

その後にそれを

もっとも相応しい言葉に移し替えます。

 

 

冒頭、「智慧」から、

 

殊には汝自らを忘るるなかれ、

汝が弱さ汝が愚直さを引摺りて

人の戦ひ人の愛する到る所、

いとも悲しくまことや狂いし態(ざま)をして!

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

人をその愚鈍を罰せしや如何に?

――を引用し、

 

「慈愛」から、

 

私には恐ろしい恋病がある、かくも弱いわが心は狂ってゐる。

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

心の滅落をどうすることも出来ない!

――と引用するのはベルレーヌですが

汝が弱さ汝が愚直さも、とか

恐ろしい恋病、とか

滅落、とかは

きっと中也の言葉といってよいことでしょう。

 

ベルレーヌはこれらの引用を行って

これが彼、ポーヴル・レリアンの嵐の一生の原質!と

ズバリ指摘しますが

このあたりを訳している中也の息づかいは

ベルレーヌのものと同じです。

 

ベルレーヌのこの呼吸や

簡潔な自己認識を

中也もまた簡潔に日本語に移しました。

 

 

ベルレーヌの生涯は

ベルレーヌ自身によって

ベルレーヌ自身が書いた二つの詩行で

簡潔に捉え返されたのですが

幼少年期に遡る生い立ちから

詩界デビューに至る経緯もまた

見事に簡潔に過不足なく捉えられます。

 

この経過を語る中に、

 

1年は経過して、彼は『シテールへ』を印刷した、いとも真剣な進歩が見られるとは、批評

が之を証明した。先づは小老牡山羊の詩界入りとなつたのである。

――とある記述に

中原中也は特別な関心をもったことでしょう。

 

とりわけ、

詩界入りに冠した

「小老牡山羊の」というフレーズには!

 

 

やがて第1詩集「山羊の歌」を生む詩人が

ベルレーヌによる

このメタファー(あるいは、広く行き渡った比喩だったのでしょうか)を

補足説明することもなく使っています。

 

「山羊の歌」のネーミングの謎が

一つ溶解していくような下りです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年8月12日 (日)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「ポーヴル・レリアン」その4

 

 

中原中也が訳した「ポーヴル・レリアン」は

1930年(昭和5年)1月に「白痴群」に初出

1933年(昭和8年)10月に「紀元」に再出発表されました。

 

ベルレーヌの小自伝ですが

むしろ創作略歴といったほうが近いかもしれません。

 

中にランボーの紹介があるのは

同じ「呪われた詩人たち」で「アルテュル・ランボオ」を書くことになるのですから

ベルレーヌがランボーを

いかにも高く評価していたことを示すものです。

 

「ポーヴル・レリアン」が書かれたのは

ブリュッセルでの銃撃事件(1873年)から10数年後のことでした。

 

 

中原中也訳の「ポーヴル・レリアン」の

結末部を読みましょう。

 

 

ポーヴル・レリアン        ポール・ヴェルレーヌ

         ――Les Poètes mauditsより――

 

(前回からつづく)

 

 彼は全自然の倦怠を通して数々の書を成した。『慈愛』は過ぐる3月に出た。『的を外れ

て』は間もなく出る。『智慧』につぐ最初の書、ガツガツした甘美なカトリシスムの書、其の

他、いと誠実で果断な感性の詩の集。

 

 今や彼は散文に於ける二つの作品を公けにした。多少一般的な自伝『ソクラテス解』と、

多くの話を集めた『クロヴィス・ラブスキュル』。両者共に、今後猶彼が生きのびられゝば、

続行されるであらう。

 

 彼は其の他にも草案を持つてゐる。彼は病気である上に少々落胆してもゐる。さて乞ふ

らくは寝かせて欲しい。

 

 ――吁! 少しは楽になつた。彼は書き、書かんとし、書きたく思つてゐる。が、まあどつ

ちにしたつて同じだ、八瑞至福に生きることだ。                                   

(了)

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。読みやすくするために、改行を加えました。編者。)

 

 

「ポーヴル・レリアン」を書いた頃のベルレーヌは

40代の入口にさしかかっていました。

 

象徴主義文学が

運動としてのうねりを見せはじめる流れの

中心部にベルレーヌはあり

「呪われた詩人たち」の発表はその烽火(のろし)のような役割を果たします。

 

 

「ポーヴル・レリアン」の結末部でベルレーヌは

書く意欲を公言します。

 

やる気十分なのですが

幾分か消沈している気配があるのは

病苦や生活苦のためだったのでしょうか。

 

この口調はそれとも

ボヘミアンの小唄調みたいなものなのでしょうか。

 

それとも中原中也の読みの反響でしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年8月11日 (土)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「ポーヴル・レリアン」その3

 

 

「ポーヴル・レリアン」は

ベルレーヌが書いた「呪われた詩人たち」の一つです。

 

トリスタン・コルビエール

アルチュール・ランボー

ステファン・マラルメ

マスリーヌ・デボルド=ヴァルモール

ヴィリエ・ド・リラダンとともに

最終形である増補改訂版「呪われた詩人たち」に

発表されたのは1888年でした。

 

 

中原中也は

この増補改訂版が収録された「ヴェルレーヌ著作集」第4巻を

翻訳のテキストとし

このうち

コルビエール(初出「社会及国家」)

ポーヴル・レリアン(初出「白痴群」第5号)

ランボー(未発表)

――の3作を

次々に訳出しました。

 

1929年(昭和4年)ころのことでした。

 

ベルレーヌの詩の翻訳は世の中で盛んに行われていた時期ですが

散文の翻訳はほとんどなく

この仕事自体が先駆的であったそうです。

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳・解題篇」。)

 

 

中原中也訳の「ポーヴル・レリアン」を

引き続いて読みましょう。

 

 

ポーヴル・レリアン        ポール・ヴェルレーヌ

         ――Les Poètes mauditsより――

 

(前回からつづく)

 

 其の後ポーヴル・レリアンは小さな批評集を出した、――いやはや、批評集、批評だかな

んだか、寧ろ激賞集――数人の知られざる詩人に関する批評集である。それには『難解

者』と銘打つた。諸君は未だ読まれまい。わけてもアルチュル・ランボオの章を。ランボオと

いへばレリアンが自分の宿命の或るものを象徴してゐるといふので愛したものだ。

 

盗まれた心

 

愁ひに満ちて私の心は船尾に行つて涎を垂らす、

安煙草にむかついて私の心。

スープを吐瀉する、

愁ひに満ちて私の心は船尾に行つて涎を垂らす。

一緒になつてゲラゲラ笑ふ

世間の駄洒落に打ちのめされて、

愁ひに満ちて私の心は船尾に行つて涎を垂らす、

安煙草にむかついている私の心は。

 

諷刺詩流儀の雑兵気質の

奴等の駄洒落が私を汚した!

舵の所(とこ)には壁画が見える

諷刺詩流儀の雑兵気質の、

おゝ、玄妙不可思議の波浪

私の心を洗つてくれよ。

諷刺詩流儀の雑兵気質の、

奴等の駄洒落が私を汚した。

 

 

フォーヌの頭

 

緑金に光る葉繁みの中に、

接唇(くちづけ)が眠る大きい花咲く

けぶるがやうな葉繁みの中に、

活々として、佳き刺繍(ぬいとり)をだいなしにして

 

ふらふらフォーヌが二つの目をだし

その皓い歯で真紅(まっか)な花を咬むでゐる。

古酒と血に染み朱(あけ)に浸され、

その唇は笑ひに開く、枝々の下。

 

と、逃げかくれた――まるで栗鼠、――

彼の笑ひはまだ葉に揺らぎ

沈思の鷽と怖気づく

森の黄金(をがね)の接唇(くちづけ)を、我は見る。

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。読みやすくするために、改行を加えました。編者。)

 

 

ベルレーヌは

ランボーの詩をここで2篇だけ紹介しています。

 

ランボオといへばレリアンが自分の宿命の或るものを象徴してゐるといふので愛したものだ。

――と記した流れの中でのことですから

二つの詩に自身の宿命の一部を読み取ったものでしょう。

 

「盗まれた心」は

解釈が様々に乱れ飛ぶ詩ですが

詩の背後にランボーを傷つけた事件の体験があり

ランボーの痛手への同情を読むことが可能でしょうし

「フォーヌの頭」は

創造の神(カトリシズムとは異なる)への

敬慕とか称賛とかの

立ち位置の近似の表明を読むことが可能でしょう。

 

ベルレーヌは

ランボーの人間を愛したのです。

 

 

「盗まれた心」に関しては

何年か前に書いた鑑賞記がありますので

こちらを参考にしてください。

→(中原中也・全詩アーカイブ)「盗まれた心」

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年8月 9日 (木)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「ポーヴル・レリアン」その2

 

 

中原中也が訳した

ベルレーヌの「ポーヴル・レリアン」の続きを読みましょう。

 

 

ポーヴル・レリアン        ポール・ヴェルレーヌ

         ――Les Poètes mauditsより――

 

(前回からつづく)

 

 死なむばかりの此の週期を終るに際して現れたのが声誉高き『智慧』であつた。それより

4年前、動乱際中に『フリュートと角笛』として出したものであつて、その時も賞讃されたが、

その後その賞讃は益々大きいものとなつた。蓋し彼は新たに多くの詩篇を増補してゐた。

『智慧』の後に出たポーヴル・レリアンのカトリック談と又、其の後に出た『昨日と今日』とい

ふ少々雑で、杜撰な覚え書と極めて神秘的な詩と混つてゐる詩集とは、真の文学者達の

小さな世界では、丁寧な、然し活気ある筆戦を提起した。

 

いつたい詩人が何でも美しく良く作りさへすればそれで不可(いけ)ないなぞといふことが

あらうか? 又と統一の口実の下に一つの形種を株守しなければならないなぞといふこと

があらうか? このことに就いては多くの友人から質問されて、我が著者先生は、かの商

議流に対する動物恐怖はまづまあとにかく、長々しい脱線した話で以てそれに答へた。そ

れは読者諸君も彼が純真な点を面白く感じて先刻読まれたことであらう。

 

 茲にその一片がある。

 

「立派な芸術家として、統一を尋ねるに欠くべからざる英雄的条件、即ち強さを備へて、彼

が一個詩人たるは明らかである。調子の一致(千篇一律のことにあらず)、彼が極く無頓

着に作(な)した詩や習慣や態度等にみえる納得出来るスチール。思想の一致亦然りだ

が、議論のありがちなのは此処である。抽象にお構ひなしに、我等が詩人をこそ今、討議

の対象としよう。彼の作品は1880年来非常に明瞭な二つの部門に分れてゐる。彼の向

後の著作の趣意書は、その流儀を継続せん決意を示す。又、(これは便宜や相談の上の

ことに過ぎないが)、同時にではないまでもそれと平行して、全く相異する観念に就いての

述作をも発表せん決心のやうである。――もつとよく云へば、彼の論理、妥協、誘惑、恐

怖等を展開するカトリシスムの書と、かなしくも美しい気色もつ肉感的な又、人の世の倨傲

に満ちた全然世間向の書との2部門にする。そんなことでどうなるものか、それでその思想

の統一か? と人々は云ふであらうか?

 

 然しその統一はある! 人間の名に於て、その統一は大丈夫ある! 人間とカトリックと

は私にあつては同一物だ。私は信ずる、而して私は行為に於ての如く思念に於ても罪を

犯す。私は信ずる、而して私はそれ以上のことがないとしても思念に於て後悔する。言換

れば、私は信ずる、而してその瞬間私は善良な基督教徒である。私は信ずる、而して私は

次の瞬間には悪い基督教徒である。罪の回想、希望、祈願は私を興ぜしめる、或る時は

後悔を伴つて、或る時は後悔を伴はないで。時には罪そのものの形で、罪のあらゆる影響

を備へて私を興ぜしめる。のみならず肉と血は旺盛で、自然的動物的で、恰も肉慾的自由

思想家のやうである。この喜びを私なり君なりの文筆家が、多少の上手下手はあれ書くな

り印刷するなりすることは結構なことだ。要するにこの喜びを文学の形式に託して宗教的

観念の一切を忘れるか、またはその喜びの一つをも見失はないことにするのだ。実際、世

間は、我々が詩人としてそれをすることを咎めるだらうか? 百度も否だ。カトリックの意識

がもつと別のものかそれともさうでないのか、そんなことは我々詩人の知つたことではな

い。

 

 偖、ポーヴル・レリアンのカトリック詩は、彼の其の他の詩をも文学上許容するであらう

か? 大いに然りだ。調子は両者の場合共に同一である。此処では荘重、単純、彼処で

は、装飾的、凋落的、衰耗的、嘲笑的、その他様々といふふうに。然し神秘的で肉慾的な

此の人物が、彼の地となり天となる一想念の、種々の表示に於ては常に智的人物として

在るといふ意味では、その調子は到る所で同一だ。かくてポーヴル・レリアンは、一つの実

質的な書と同時に一つの談論の書を、ハツキリさせることが容易である、彼にとつて対立

なぞといふものはないからである。」

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。読みやすくするために、改行を加えました。編者。)

 

 

「智慧」は、

たとえば河上徹太郎の訳出で「叡智」が有名ですが

ランボー銃撃の科(とが)で

獄入りしたベルレーヌがカトリックへ帰依し

この詩集を書きあげたことは広く知られたことです。

 

「智慧」およびカトリシズムに言及したこの下りを

中原中也は見逃すわけにはいかなかったのでしょう。

 

ベルレーヌがやや熱っぽい口調で語るのは

カトリック詩とその他の詩との両立ですが

中也はベルレーヌの呼吸に合わせるかのように

ベルレーヌの息づかいを拾います。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年8月 8日 (水)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「ポーヴル・レリアン」その1

 

 

中原中也は

ベルレーヌをどのように読んだのか。

 

翻訳とは

書かれたものを読んだ結果です。

 

読みの跡(結果)です。

 

翻訳を読むことによって

それを訳した人独自の読みを

読むことになります。

 

 

「アルテュル・ランボオ」の次には

「ポーヴル・レリアン」を読みましょう。

 

ポーヴル・レリアンとは

ポール・ヴェルレーヌという名前の

アナグラムです。

 

Paul Verlaineというアルファベットを並び替えて

別の言葉にしたものですが

「あわれなレリアン」という意味を含ませた

ベルレーヌその人を指すことが知られています。

 

 

3回か4回かに分けて読みましょう。

 

 

ポーヴル・レリアン        ポール・ヴェルレーヌ

         ――Les Poètes mauditsより――

 

 此の『呪はれたる者』の持つていた運命こそは、いとも暗いものであつた。『呪はれたる

者』――此の親しき一語こそ、能く彼が性格の天真と償うべからざる心の柔弱の境涯の、

その数々の不幸を特質づける。その性格その心に就いて彼は、『智恵』の中に自ら語る、

 

     殊には汝自らを忘るるなかれ、

     汝が弱さ汝が愚直さを引摺りて

     人の戦ひ人の愛する到る所、

     いとも悲しくまことや狂いし態(ざま)をして!

 

     ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

 

     人をその愚鈍を罰せしや如何に?

 

 発刊されて間もない『慈愛』には又、

 

     私には恐ろしい恋病がある、かくも弱いわが心は狂ってゐる。

 

     ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

 

     私はもはや私の心の滅落をどうすることも出来ない。

 

 これが御承知でもあろう彼が嵐の一生の原質をなしてゐたものである!

 彼の幼時は幸福であつた。

 異例な両親、粋(いき)な父親、綺麗な母親、吁! 今は亡い、それが産んだその一人子

が彼であつた。

 

彼は早くより寄宿舎に入れられた、彼が“ぐれ”始めたのはそれからである。我々は今猶散

斬(ザンギリ)頭の彼が、黒の長い寛衣(ブルーズ)を着て、指を咥へて二つの校庭を仕切

る柵に肘突いてゐるのが見えるやうだ。早くも頑なに巫戯けることを知る京童達の中にあ

つて、大抵彼は泣いてばかりゐた! 

 

或る夕方彼は抜け帰つた。翌日お菓子やそのほか戸棚の中の好い物を沢山約束されて

送り返された。それ以来彼は荒んだ。やがてその頭には妄想を持つ、歩武(あしどり)あや

しい地堕落者となるのであつた。

 

学課には無頓着であつた。だが御存知の妄想だらけの怠けにも拘らず、好加減な修業の

後、どうにか大学の試験に通りはした。後人若し彼が事に関する折もあらば、少年時と青

年時の彼がズボンの擦切らされたボナパルト中学は、コンドルセよりフォンターヌに、次い

で再びコンドルセに移つたことを知るであらう。

 

法律学校に於ける一二の聴講、当時の下等酒場(カブーロー)、今の女将付ビヤホールで

飲ませた麦酒が、凡庸な古典学の退屈を紛らせた。彼が詩作を始めたのは其の頃であつ

た。既に14才の頃より、うらがなしい卑猥な世態画をあしらつて一心に詩作した。

彼は非常に急速に燃えたが、燃えて出来あがつた不態(ぶざま)だが面白い試作を、忘れ

てしまふのはもつと迅かつた。それ等を彼が『兇星』の名の下(もと)に版行したのは、ル

メール社の『パルナス』第1号に多くの詩が載つて間もない頃であつた。

 

此の詩集――屡々人口にのぼる『兇星』――は、群集の間に恐ろしい敵意を醸した。然し

それといふもポーヴル・レリアンの趣味、本物の趣味、とまれ既に頁を溢れんばかりの才

能の前には何事でもなかつた。

 

1年は経過して、彼は『シテールへ』を印刷した、いとも真剣な進歩が見られるとは、批評

が之を証明した。先づは小老牡山羊の詩界入りとなつたのである。

 

第1年の後新たに薄い冊子『結婚の籠』は出版された。一人の許嫁のやさしさ淑やかさを

揚言したものである……彼が悲痛の始まるのは抑々此の時からであつた。

 

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

 

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。読みやすくするために、改行を加えました。編者。)

 

 

この自伝は

初め1886年に「ラ・ヴォーグ」誌に発表されたそうです。

 

ベルレーヌ42歳の時の作品で

ベルレーヌの生い立ちが

結婚までを辿られた書き出しの部分です。

 

・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・

――とあるのは省略を示すもので

ベルレーヌの原典によるものです。

 

中也による省略ではないので

全文訳になります。

 

ベルレーヌの輪郭を知るための格好の文献を

中也はその著作集原書の中に見つけました。

 

原書を入手したのは

1926年のことでした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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