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2018年8月 9日 (木)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「ポーヴル・レリアン」その2

 

 

中原中也が訳した

ベルレーヌの「ポーヴル・レリアン」の続きを読みましょう。

 

 

ポーヴル・レリアン        ポール・ヴェルレーヌ

         ――Les Poètes mauditsより――

 

(前回からつづく)

 

 死なむばかりの此の週期を終るに際して現れたのが声誉高き『智慧』であつた。それより

4年前、動乱際中に『フリュートと角笛』として出したものであつて、その時も賞讃されたが、

その後その賞讃は益々大きいものとなつた。蓋し彼は新たに多くの詩篇を増補してゐた。

『智慧』の後に出たポーヴル・レリアンのカトリック談と又、其の後に出た『昨日と今日』とい

ふ少々雑で、杜撰な覚え書と極めて神秘的な詩と混つてゐる詩集とは、真の文学者達の

小さな世界では、丁寧な、然し活気ある筆戦を提起した。

 

いつたい詩人が何でも美しく良く作りさへすればそれで不可(いけ)ないなぞといふことが

あらうか? 又と統一の口実の下に一つの形種を株守しなければならないなぞといふこと

があらうか? このことに就いては多くの友人から質問されて、我が著者先生は、かの商

議流に対する動物恐怖はまづまあとにかく、長々しい脱線した話で以てそれに答へた。そ

れは読者諸君も彼が純真な点を面白く感じて先刻読まれたことであらう。

 

 茲にその一片がある。

 

「立派な芸術家として、統一を尋ねるに欠くべからざる英雄的条件、即ち強さを備へて、彼

が一個詩人たるは明らかである。調子の一致(千篇一律のことにあらず)、彼が極く無頓

着に作(な)した詩や習慣や態度等にみえる納得出来るスチール。思想の一致亦然りだ

が、議論のありがちなのは此処である。抽象にお構ひなしに、我等が詩人をこそ今、討議

の対象としよう。彼の作品は1880年来非常に明瞭な二つの部門に分れてゐる。彼の向

後の著作の趣意書は、その流儀を継続せん決意を示す。又、(これは便宜や相談の上の

ことに過ぎないが)、同時にではないまでもそれと平行して、全く相異する観念に就いての

述作をも発表せん決心のやうである。――もつとよく云へば、彼の論理、妥協、誘惑、恐

怖等を展開するカトリシスムの書と、かなしくも美しい気色もつ肉感的な又、人の世の倨傲

に満ちた全然世間向の書との2部門にする。そんなことでどうなるものか、それでその思想

の統一か? と人々は云ふであらうか?

 

 然しその統一はある! 人間の名に於て、その統一は大丈夫ある! 人間とカトリックと

は私にあつては同一物だ。私は信ずる、而して私は行為に於ての如く思念に於ても罪を

犯す。私は信ずる、而して私はそれ以上のことがないとしても思念に於て後悔する。言換

れば、私は信ずる、而してその瞬間私は善良な基督教徒である。私は信ずる、而して私は

次の瞬間には悪い基督教徒である。罪の回想、希望、祈願は私を興ぜしめる、或る時は

後悔を伴つて、或る時は後悔を伴はないで。時には罪そのものの形で、罪のあらゆる影響

を備へて私を興ぜしめる。のみならず肉と血は旺盛で、自然的動物的で、恰も肉慾的自由

思想家のやうである。この喜びを私なり君なりの文筆家が、多少の上手下手はあれ書くな

り印刷するなりすることは結構なことだ。要するにこの喜びを文学の形式に託して宗教的

観念の一切を忘れるか、またはその喜びの一つをも見失はないことにするのだ。実際、世

間は、我々が詩人としてそれをすることを咎めるだらうか? 百度も否だ。カトリックの意識

がもつと別のものかそれともさうでないのか、そんなことは我々詩人の知つたことではな

い。

 

 偖、ポーヴル・レリアンのカトリック詩は、彼の其の他の詩をも文学上許容するであらう

か? 大いに然りだ。調子は両者の場合共に同一である。此処では荘重、単純、彼処で

は、装飾的、凋落的、衰耗的、嘲笑的、その他様々といふふうに。然し神秘的で肉慾的な

此の人物が、彼の地となり天となる一想念の、種々の表示に於ては常に智的人物として

在るといふ意味では、その調子は到る所で同一だ。かくてポーヴル・レリアンは、一つの実

質的な書と同時に一つの談論の書を、ハツキリさせることが容易である、彼にとつて対立

なぞといふものはないからである。」

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。読みやすくするために、改行を加えました。編者。)

 

 

「智慧」は、

たとえば河上徹太郎の訳出で「叡智」が有名ですが

ランボー銃撃の科(とが)で

獄入りしたベルレーヌがカトリックへ帰依し

この詩集を書きあげたことは広く知られたことです。

 

「智慧」およびカトリシズムに言及したこの下りを

中原中也は見逃すわけにはいかなかったのでしょう。

 

ベルレーヌがやや熱っぽい口調で語るのは

カトリック詩とその他の詩との両立ですが

中也はベルレーヌの呼吸に合わせるかのように

ベルレーヌの息づかいを拾います。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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