中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「序曲」の謎・その3
どのようにして大岡昇平が「序曲」のテキストを入手し
そもそもどの刊本だったのか。
「新編中原中也全集」は
Paul Verlaine:Femmes, imprimé sous le manteaux et ne se vend nulle part,1890
――を原典として推定しています。
大岡昇平が所蔵していたのが
この刊本であることは確定できていないようです。
◇
Femmes(「女たち」)というタイトルの詩集は
ベルギーで、1890年初版、175部限定で秘密出版され
1893年にはロンドンで500部限定で再版
これを機に他にも幾つかの刊本が
秘密出版されました。
エロティシズムの迫力からか
ベルレーヌの作品だからか
この種の出版は
小部数ながらおおむね好評で
ヨーロッパ各地に「女たち」は迎えられたようですが
それにしても秘密裡の出版であることは避けられませんでした。
「序曲」Overtureは
詩集冒頭に置かれた序詩です。
この序詩と末尾の「要約的な教訓」Morale en raccourciとを除くと
計16篇の詩篇が収められてあり
この16篇すべてにローマ数字による通し番号がつけられています。
(同全集解題。)
「序曲」は全9連36行の構成。
中原中也の翻訳として知られているのは
この9連のうちの冒頭部2連8行です。
◇
さて、では、
中原中也自筆の翻訳原稿が
存在するのかというとはっきりしたものではなく
中也の訳稿に基づいたと推定(!)される2種類の草稿があります。
それは筆写稿①、筆写稿②とに
便宜上分類されているものです。
やや込み入っていますが
それを記述している
「新編中原中也全集」第3巻「翻訳・解題篇」を
ひもといてみましょう。
◇
筆写稿①の有力証言に高橋新吉が現われ
筆写稿②には高橋幸一が現われます。
高橋新吉は
「ダダイスト新吉の詩」で知られる
中也の師匠格のダダイスト、
高橋幸一については
新全集はなんの説明を加えていませんが
どうやら「四季」に出入りしていたか
なんらかの関係がある人物くらいのことを
ネットで知ることができます。
◇
筆写稿①は
旧全集(「中原中也全集」)編集時には
高橋新吉の所蔵品として存在していたが
現在はそのコピーが残っているもので
原詩の第1連と第2連が訳されてあり
作者名、訳者名は書かれていません。
高橋新吉は
「ベルレーヌの猥詩を、二つ、中原は、訳してくれたことがある。或雑誌に掲載するため、中原に依頼したのであった」
――と「中原中也の思い出」(「解釈と鑑賞」昭50.3)に記しているそうです。
二つ、とあるベルレーヌの猥詩のうちの一つが
「序曲」と推定されています。
◇
筆写稿②は
旧全集で、
中原中也が「高橋幸一に手渡したもの」とされていますが
筆跡は中也のものではなく
原稿用紙も中也が愛用していたものではなく
筆記具も中也の使用例にないもの。
そのため
この草稿は中也の自筆ではないとされていますが
中に「夏原冲也」の名前があり
中原中也の筆名であろうと推定されています。
猥詩であることを考慮し
本名を記すことを控えたものと考えられています。
◇
筆写稿①も②も
「序曲」の冒頭8行だけが記されてあることから
中也が翻訳したのも
この部分だけであったものと考えられました。
◇
「序曲」を訳した1932年(昭和7年)は
詩人25歳の年。
4月に「山羊の歌」の編集に取りかかっています。
詩人の最も近くにあり
詩人を助け
相談に乗り
酒を共に飲んだ安原喜弘は
この時期の中原中也を
「魂の動乱時代」と呼んで回想しています。
(講談社文芸文庫「中原中也の手紙」。)
ゴッホ伝の代筆の仕事は
この流れの中で進められていたもので
年末には玉川大学出版部から発刊されますが
中也は著者名にペンネーム千駄木八郎を提案します。
同じ年に
「序曲」の翻訳者として
夏原冲也というペンネームが使われていたことになります。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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