中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「序曲」の謎・その1
中原中也の初期作品のうち
「山羊の歌」集中の
第2番詩「月」
第3番詩「サーカス」
第4番詩「春の夜」
――の3作品に
ボードレールやベルレーヌらの外国詩人の影響があり
これらの詩がダダイズムからの脱皮の過程で作られていることは
一目瞭然ですね。
第5番詩「朝の歌」を
ダダイズム脱皮の完成と見なす
大岡昇平の評伝に異論をはさむ読みには
今でもあまり巡りあいません。
たとえば「サーカス」の人気は
「朝の歌」を超えているのにそうであるのは
「朝の歌」のオリジナリティーを評価する
大岡や小林秀雄や
ほか多くの声が大きいからです。
同じ理由で
「港市の秋」など
一連の横浜ものも
「朝の歌」を頂点とする評価(好み)の
下部に置かれているのが実情でしょう。
「朝の歌」以後の「初期詩篇」にも
「春の思い出」や「秋の夜空」など
たとえ詩の優劣を競っても
「朝の歌」に引けを取らない詩が幾つもあり
キラキラとキラキラと輝いているのに。
◇
誰からの影響も受けていないという一事が
詩の形の上で達成されていることが
詩世界にデビューする中原中也には要求されていました。
どんな詩の模倣でもないということは
昔も今も変わっていない
詩人の必須の要件でしょう。
「詩的履歴書」に
大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる
最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった14行書くために、こん
なに手数がかかるのではとガッカリす。
――と中也が記したのには
この理由がありました。
一字一句が
自分の言葉で書かれなければならないという掟(おきて)を
小林秀雄は中也に伝えたのでしょう。
大岡昇平は
そのことを全面的に支持して
評伝「朝の歌」を戦後に書きあげました。
中也の不満そうな響きを
「詩的履歴書」のこの部分に
認めないわけにはいきません。
この不満は表明したとしても
かき消されてしまうことでしょう。
◇
「サーカス」や「春の夜」を
ベルレーヌの足跡を辿る中で読んだのには
このようなことをも考えるためでした。
この流れに乗って
「山羊の歌」の「初期詩篇」への
ベルレーヌの影響を見直す作業へと
誘惑されそうになり
それはなかなか魅力的なことですが
今それに取りかかることはやめておきましょう。
今はベルレーヌを中原中也が
どのように翻訳したかの足跡を
辿り終えることが先です。
◇
とはいうものの
次に読むベルレーヌの詩の翻訳は
創作の謎について
考えさせるものを十分にもっています。
◇
序曲
ポール・ヴェルレーヌ
私はおまへの腿(もも)や臀部(おしり)に専心したい。
唯一の真(まこと)の神なる辻君、真に比丘尼の比丘尼たる比丘尼よ、
美(をんな)よ、熟してゐようと熟してゐまいと、未熟だらうと修練を経たものであらうと、
もうはやもうおまへの裂け目、おまへの畝条(うねすぢ)に丈生きるこつた!
おまへの足は素晴らしい、情夫(をとこ)の所へしか行きはしない、
情夫とでなけあ帰つて来ないし、その床の中でしか
じつとしてゐはしない、それからこつそり情夫の足を打つのだが、
その情夫の足は疲れてぐつたりしてちゞこまつてゐるわけさ。
(「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」より。原文のまま。)
◇
中原中也がこの詩を翻訳したのは
1932年(昭和7年)7月下旬から8月の間のことでした(推定)。
◇
途中ですが
今回はここまで。
« 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「春の朝」から「春の夜」へ | トップページ | 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「序曲」の謎・その2 »
「054中原中也とベルレーヌ」カテゴリの記事
- 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・続(再開篇)(2019.05.14)
- 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その13(2018.12.27)
- 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その12(2018.12.19)
- 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その11(2018.12.15)
- 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その10(2018.12.07)
« 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「春の朝」から「春の夜」へ | トップページ | 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「序曲」の謎・その2 »
コメント