中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「春の朝」から「春の夜」へ
「春の夜」の第3連には
ああこともなしこともなし
――とあり
これは
イギリスの詩人、ロバート・ブラウニングの詩「春の朝」の
上田敏訳の写し(コピー)であることは
だれの目にも明らかです。
上田敏の訳詩集「海潮音」(1905年)にある
ブラウニングの詩は
一時代前の(今でも?)高校の国語教科書に掲載されてあり
それを読んで初めて西欧の詩の一つに触れた
青春の記憶であったように
他の世代の日本人の経験でもあったはずで
多くの日本人が知っている有名な詩ですから。
◇
春の朝(はるのあした)
時は春、
日は朝(あした)、
朝(あした)は七時(ななとき)、
片岡(かたをか)に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這(は)ひ、
神、そらに知(し)ろしめす。
すべて世は事も無(な)し。
(岩波文庫「上田敏訳詩集」より。)
◇
「新編中原中也全集」は
「春の夜」解題の参考の項目に
① ベルレーヌの「Mandoline」原詩
② 同詩の川路柳虹訳
③ ベルレーヌの「Ⅴ(Le piano que baise une main frele…)」原詩
④ 同詩の川路柳虹訳
――と並んで
⑤ ブラウニングの「春の朝」を紹介しています。
一つの詩に様々な方面からの影響の跡があるのは
古今東西の詩の歴史によく見られることですが
「春の夜」についてはことさらに
その難解さから
解釈のアプローチも
様々に試みられてきた歴史のあることを物語っています。
中原中也の詩の作り方、
とりわけ初期作品の制作方法が
手に取るように理解できて
あらためて数次にわたる編集の仕事に
敬意を表するところです。
◇
ところで
ああこともなしこともなし
――が「事も無し」の反映であることがすぐにわかるのは
上田敏訳が極めてポピュラーに世間に浸透していたからですが
この詩にベルレーヌが影響していることは
多くの素人の読者は気づかないところです。
やはりここにベルレーヌの詩に精通していた
ファンか誰かが存在していて
その人がまず気づいたということですね。
それを発見した瞬間が想像できて
胸が躍ります。
◇
しかし
ああこともなしこともなし
――と中也が詩語に記した時に
普段そらんじていた詩の言葉を
無意識のうちに使ったと考えるのは
間違いでしょう。
詩人は
ああこともなしこともなし
――を「春の夜」の詩行として使ったときには
それを確信していました。
無意識に使ってしまったということでは
まったくありません。
言葉に書く
紙の上に記す
詩を作る
――という行為は
繊細な意識化の作業に他なりませんし
そのことを忘れてしまって
創造することはできません。
意識して
ああこともなしこともなし
――は中也の詩の詩語になりました。
◇
「春の夜」は
そのようなものとしてあります。
そのようなものとして
中原中也の第1詩集「山羊の歌」の
第4番詩として存在します。
「春の夜」は
「マンドリーヌ」や「ピアノ」に
インスパイヤ―されながらも
中原中也の詩です。
そこには
サフラン色に湧き出る
中原中也の春の夜があります。
◇
こうして「春の夜」を読み直していると
第2番詩「月」への
ボードレールやワイルドの影響や
第3番詩「サーカス」へのベルレーヌの痕跡などのことが
次々に思い起こされます。
「山羊の歌」の第2章「少年時」へのランボーの足跡をたどる中で
ベルレーヌの足跡を見ないことには
前に進めないことに気づいて
中也のベルレーヌ翻訳を読み進めていると
いつしか「山羊の歌」の第1章「初期詩篇」に
舞い戻ってきました。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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