中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「序曲」の謎・その4
1932年(昭和7年)4月に
中原中也は詩集の編集をはじめました。
かつて1927年、28年に試みたことのある詩集発行に
再びチャレンジしましたが
この詩集、即ち、「山羊の歌」が
実際に江湖(こうこ)に出るのは
1939年の年末になります。
「序曲」は
「山羊の歌」の編集を終えてすぐの頃に
翻訳が試みられました。
「序曲」の翻訳は完成しませんでしたが
翻訳に至った背景を知るために
詩人25歳の年、1932年(昭和7年)へ至る足どりを
辿り直してみましょう。
まずは創作の足どりを
詩人自らが記した「詩的履歴書」の記述――。
◇
大正14年8月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。
大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる
最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった14行書くために、こん
なに手数がかかるのではとガッカリす。
昭和4年。同人雑誌「白痴群」を出す。
昭和5年、6号が出た後廃刊となる。以後雌伏。
昭和7年、「四季」第2夏号に詩3篇を掲載。
昭和8年5月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。
同年12月、結婚。
昭和9年4月、「紀元」脱退。
(新かな、洋数字に変えました。)
◇
「朝の歌」で現代詩の作り方を獲得し
「白痴群」を創刊して
目一杯、自己の創作詩や翻訳を発表し
1年後には廃刊のやむなきに至って以後雌伏
やがて「四季」へ寄稿して詩活動を再開
結婚
――という大筋の自己史。
雌伏(しふく)の時期から
再び詩活動をはじめたのが「四季」であったという
その間の時期が1932年に当ります。
「山羊の歌」の編集に至るには
年初めに「憔悴」を制作し
「山羊の歌」編集期間中に
最終詩「いのちの歌」を完成したという
気力の充実がありました。
「山羊の歌」はこの時
本文の印刷までしましたが
資金ぐりがうまくいかず
製本・出版には至りませんでした。
「序曲」の翻訳は
その年に行われました。
幾つかが出回っている年譜のうちの一つ
角川ソフィア文庫巻末の「中原中也年譜」で
この年をもう少し詳しくクローズアップしてみましょう。
◇
昭和7年(1932) 25歳
4月、「山羊の歌」の編集を始める。5月頃から自宅でフランス語の個人教授を始める。
6月、「山羊の歌」予約募集の通知を出し、10名程度の申し込みがあった。
7月に第2回の予約募集を行うが結果は変わらなかった。
8月、宮崎の高森文夫宅へ行き、高森とともに青島、天草、長崎へ旅行する。この後、馬込
町北千束の高森文夫の伯母の淵江方に転居。高森とその弟の惇夫が同居。
9月、祖母スエ(フクの実母)が死去、74歳。
母からもらった300円で「山羊の歌」の印刷にかかるが、本文を印刷しただけで資金が続
かず、印刷し終えた本文と紙型を安原喜弘に預ける。
12月、「ゴッホ」(玉川大学出版部)を刊行。著者名義は安原喜弘。
このころ、高森の伯母を通じて酒場ウィンゾアーの女給洋子(坂本睦子)に結婚を申し込む
が断られる。また高森の従妹にも結婚を申し込み断られる。このころ、神経衰弱が極限に
達する。高森の伯母が心配して年末フクに手紙を出す。
◇
安原喜弘のいう「魂の動乱時代」とは
この年の年末あたりに詩人を襲った
神経衰弱の症状を指しているのでしょう。
詩人を脅かすものの正体は
いったいどのようなものだったでしょうか。
そこに実生活や将来人生の不透明感とかの
経済的不安があったことは
十分に考えられることでしょう。
実家がいかに裕福であるとはいっても
すでに300円の大金を母フクは
工面してくれていました。
なんとかして自力で
詩集を出したいという気持ちを
親友、安原喜弘はよく察しているところでしたから
ゴッホ伝のゴーストライターのような仕事は
おあつらえであったということになります。
中也自身も
フランス語の個人教授をしたり
出版や翻訳のブローカーと接触したり
生計の足しになることを厭(いと)うことはありませんでした。
「序曲」の翻訳が
そのような日銭(ひぜに)仕事を動機としているとは
到底考えられませんが
ベルレーヌの秘密出版という性質は
それを日本語に翻訳するという作業そのものにも影響していると言えるのであって
それなりに秘密裡に行われたようです。
高橋新吉が中也に依頼したと記している
「或雑誌に掲載するため」の猥詩は
そのような秘密出版に類するものだったのでしょうか。
◇
中原中也は
ベルレーヌという詩人の輪郭をつかもうとして
ベルレーヌが書いた評論と詩をはじめ
ベルレーヌのことを書いた評論や
ベルレーヌに宛てたランボーの書簡などを
読み、訳しているのですが
それは相当に戦略的に練られたことでした。
結局はランボーの翻訳に
全体重をかけることになりますが
1927年(昭和2年)4月23日の日記に、
世界に詩人はまだ3人しかおらぬ。
ヴェルレエヌ
ラムボオ
ラフォルグ
ほんとだ! 3人きり。
――と記した頃から
「序曲」を翻訳するまで
ベルレーヌから受け取ったものの多大さを
見失ってはなりません。
◇
「序曲」のテキストに触れたとき
詩人はこれを
面白いと感じたのでした。
それは
何か金目(かねめ)のものを見つけたという喜びなのでは
勿論あり得ず
ベルレーヌの詩心の名残を嗅ぎ取ったからであるに違いありません。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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