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2018年10月

2018年10月29日 (月)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足1・金子光晴その10

 

 

ここまで読んで来ては

ベルレーヌはどこへ行ったやら。

 

血となり

肉となって

後続する詩人たちのなかに

脈々と流れているというしかないほどに

ベルレーヌはサンボリズムに生き続けています。

 

こうなったら

毒を食らわば皿まで!?

(※徹底するという意味です。)

「現代詩の鑑賞」を読み切ってしまいましょう。

 

 

昭和初期の中原中也まで足を伸ばした詩人は

忘れ物でも思い出したかのように

ベルギーが生んだ神秘主義者、メーテルリンクへ目を向けます。

 

ファン・エイク

メムリンク

――のような宗教画家

ボッシュ

ブルーゲル・ビュウ

――のような妖怪画家を生み

世界に誇る2人の詩人、

メーテルリンク

エミール・ヴェルハーラン

――をベルギーという国は輩出しました。

 

 

メーテルリンクは

「青い鳥」の劇でおなじみですが

詩集は「温室」1冊があるだけです。

 

フランス語で書かれた詩集ということもあって

金子光晴に親近したのでしょう。

 

ここではメーテルリンクが

月光派でありフランス・サンボリズムの流れに属するという特徴が

まず指摘されます。

 

 

温室

       マーテルリンク

 

森のなかなる温室よ!

永久に閉せるきみが戸よ!

そが円屋根の下にあるもの!

かくてわが心のうちにも、君とおなじきものこそあれ!

 

饑餓にくるしむ王女の思ひ、

沙漠のなかの水夫の愁ひ、

不治の病にくるしむものの、窓べに聞ゆる楽隊のひびき。

 

いと温かき隅に行け!

収穫の日に気を喪ひし女とこそはいふべけれ。

病院の庭に駅伝の馭者きたり

鹿狩る猟夫、いまは看護夫に身を成して、かなたはるかに横ぎりゆく。

月の光にながめみよ!

(ものみなは、所をかへぬ!)

審判の場に来て立てる、狂ひし女か。

帆を張りなせる戦艦、運河のうへに浮びいで、

百合にはみゆる夜の鳥

正午にひびく葬り鐘。

(かしこ鐘々のした!)

野のなかに病者の舎営。

晴れし日にエーテルの匂ひ。

 

ああ、いつの日にか雨あらん

また雪あらん、風あらん、この温室のうち。

                  (山内義雄訳)

 

 

サンボリズムの詩人の特質の一つは、生に対する倦怠感である。

――とこの詩人のスタンスを述べながら

この詩を

汗ばむ、だるい温室のなかの、停滞してうごきのない倦怠感の苦しさを、類似の感覚だけ

をあつめてきて、サンボライズしたもの

――などと読み解きます。

 

そしてやや唐突にも

メーテルリンクが影響を与えた

日本詩人、西条八十にスポットを当てます。

 

西条八十は

こんな長い詩も書いていました。

 

 

石階

          西条八十

 

暗い海は

無花果の葉陰に鳴る、

蒼白めた夜は

無限の石階をさしのぞく。

 

一の寡婦は盲ひ

二の寡婦は悲み

三の寡婦は黄金の洋燈を持つ、

彼等ひとしく静かに歩む

彼等ひとしく石階を登る。

 

 海底の宝玉は

 深夜に歌ひ、

 

 ―妾は夜の波を聴く

 ―妾は亜麻色の海を見る

 ―妾は海鳥の叫びに驚く

 

  病める薔薇は

  紅き花片を落す。

 

―絶頂に到らば市府の灯は蕃紅花の如く

―絶頂に到らば市府の雨は真珠の如く

―絶頂に到らば市府の空は血の如きを見む

 

軽雲は

燐光の如く

海上を駛(はし)り、

 

一の寡婦は微笑み

二の寡婦は掌を合せ

三の寡婦は黄金の洋燈を擡(もた)ぐ、

彼等ひとしく静かに歩む

彼等ひとしく石階を急ぐ。

 

  夜霧は

  五月の花の如く

  檣頭に破れる。

 

 ―妾は未だ何者をも見ず

 ―妾は未だ何事をも聴かず

 ―妾は漸く総てに疲れたり

 

  土蛍は

  寂しく彼等の肩に

  とまり、

 

 ―登れども、登れども、市府の灯を見ず、

 ―登れども、登れども、空は血に染まず、

 

   菌は

   石階に古き日の唄を

   うたふ。

 

一の寡婦は眠り

二の寡婦は涙し

三の寡婦は黄金の洋燈を消す、

彼等ひとしく静かに歩む

彼等ひとしく石階を下る。

 

蒼白めた夜は

無限の石階をさしのぞく、

暗い海は

無花果の葉陰に鳴る。

 

 

西条八十は

この詩にどのような意図を

込めたのでしょうか。

 

見慣れぬ情景に戸惑いますが

金子光晴の読みに助けられて

この詩の世界にようやく少し近づくことができるでしょう。

 

 

この詩は、なんという具体的な生活の背景もなく、まとまった思想のうらうちもないけれど、

よんでいるうちにふしぎな雰囲気(もや)につゝまれ、なにもしない前から、世代の疲れのよ

うなものを、いやいやでも受取らされる。そして生と死の薄明にまで、つれてゆかれる。ト

リックといえばトリックだが、そこで、死の世界と無言の問答をとりかわす、神秘な巫女たち

のゼスチュアにであって、魔術にまきこまれる。

 

 

以上のように読んで

これは、そっくり、メーテルリンクの無言劇の舞台だ。

――と案内するのです。

 

具体的な生活の背景がない

まとまった思想のうらうちもない

ふしぎな雰囲気(もや)

生と死の薄明

トリック

神秘

巫女(みこ)

魔術

――といった語が鍵になります。

 

 

石階は

いしだん、いしきだ、いしばし、いしばしご、きざはし、きだはし、せきかい、せっかい

――などという読み方が知られています。

 

この詩は、付け加えるならば

「唄を忘れた金糸雀(かなりや)は……」で有名な

「かなりや」が収められた第1詩集「砂金」にあります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年10月27日 (土)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足1・金子光晴その9

 

 

 

富永太郎は、小林秀雄や河上徹太郎というような仲間をもっていた。この流れをひいた作

家に、ヱ゛ルレエヌとラフォルグの月光を浴びた中原中也がある。

 

(「金子光晴全集」第10巻「現代詩の鑑賞」より。以下同。)

 

 

金子光晴は

中原中也をこのように紹介し

「サーカス」

「正午 丸ビル風景」

――の2作を呼び出します。

 

 

サーカス

      中原中也

 

幾時代かがありまして

  茶色い戦争ありました

 

幾時代かがありまして

  冬は疾風吹きました

 

幾時代かがありまして

  今夜此処での一と殷盛(さか)り

    今夜此処での一と殷盛り

 

サーカス小屋は高い梁

  そこに一つのブランコだ

見えるともないブランコだ

 

頭倒さに手を垂れて

  汚れ木綿の屋蓋のもと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

それの近くの白い灯が

   安値いリボンと息を吐き

 

観客様はみな鰯

  咽喉が鳴ります牡蠣殻と

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

       屋外は真ッ闇 闇の闇

       夜は劫々と更けまする

       落下傘奴のノスタルジアと

       ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

 

正 午

       丸ビル風景

 

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて

あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの真ツ黒い、小ツちやな小ツちやな出入口

空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つている

ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……

なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな

あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ

ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ

大きなビルの真ツ黒い、小ツちやな小ツちやな出入口

空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

 

(同。)

 

 

金子光晴がまず言うのは

この2篇の詩が

1、(ベルレーヌというよりは)ラフォルグを思わせ

2、「海潮音」(の影響)がどこかにあり

3、白秋小唄ものぞいている

――ということですが

それらがすっかり中也のものになっているというところです。

 

中也のものであるから救われているというところです。

 

そして、

 

詩人としては月光派で

その特質、人みしりするさびしがりやで、

実生活の欲望がつよいのに

渡りかたは下手という悲劇的な矛盾をもって生まれてきた

――とテキストを離れた人物像が述べられます。

 

交流を持たなかったにしては断言的に

中原中也のネガティブなイメージが言及されます。

 

さらには、

 

詩人というのはすこし変だ、という見本のような男だったらしい。

――と風聞か文学仲間の噂か

中也の武勇伝は知る人ぞ知るだったのですから

多少オーバーに言われても仕方ないことですが

「らしい」と推量語を加えているところは

金子光晴の経験主義を露わにしたということでしょうか。

 

中原中也が月光派の流れに置かれ

ランボーにも触れられることなく

ラフォルグを見るところに

金子光晴という詩人の鋭さ(個性)はあるということかもしれません。

 

月下の群の流れを追っていくと

昭和初期の作家である中原中也や

三好達治、立原道造ら

「四季」派までたどることができるということで

この部分を書き進めたと金子光晴は断っているのですから

高い評価の現われと受け止めればよいのでしょうか。

 

 

中原中也は

「四季」派につながりがあるらしいと

同じように推量しながら

 

「四季」が出たのは僕が丁度ヨーロッパに行っている留守の出来事なので、詳しいことを説

明することができない。

――と限定していることも考慮しましょう。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年10月25日 (木)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足1・金子光晴その8

 

 

福士はもともと、「白樺」流のトルストイアンで、人間賛美主義の荒っぽい思想をおし通して

いたが、三富らの影響で、反省に入り、彼らしい人間味ゆたかな丹念な観照で、月下の詩

人達にふれていった。そして、高村、室生らの所謂自由詩に反対の立場を示すようになっ

た。

――と福士幸次郎は紹介され

「新しいダンディズム出現」の章ははじまります。

 

 

自分は太陽の子である

          福士幸次郎

 

自分は太陽の子である

未だ燃えるだけ燃えたことのない太陽の子である

 

今口火をつけられてゐる

そろそろ煤りかけてゐる

 

ああこの煤りが焔になる

自分はまつぴるまのあかるい幻想にせめられて止まないのだ

 

明るい白光の原つぱである

ひかり充ちた都会のまんなかである

嶺にはづかしそうに純白な雲が輝く山脈である

 

自分はこの幻想にせめられて

今煤りつつあるのだ

黒いむせぼつたい重い烟りを吐きつつあるのだ

 

ああひかりある世界よ

ひかりある空中よ

 

ああひかりある人間よ

総身眼のごとき人よ

怜悧で健康で力あふるる人よ

 

自分は暗い水ぼつたいじめじめした所から産声をあげたけれども

自分は太陽の子である

燃えることを憧れてやまない太陽の子である

 

(「金子光晴全集」第10巻「現代詩の鑑賞」より。以下同。)

 

 

こうした人間性解放の思想は、「白樺」派の副産物で、当時の青年が一度は通過した思想

課程なのである。

――とこの詩を位置づけた詩人の次の評言には

歯に衣を着せないストレートさがあります。

 

 

高村の詩、千家の詩、乃至は、佐藤惣之助、百田宗治など、多くの青年詩人は、殆ど無反

省に、じぶんの若い血をいたずらにかきさわがせるために、こうした奔馬の背にじぶんをく

くりつけた。マゼッパさながらに。

 

 

白樺派が勢いをもった時代の

詩の形の一つの例だったのでしょう。

 

マゼッパも

フランス詩に魅入られて後は

ダンディな詩を書くようになったといいます。

 

 

扇を持つみなしごの娘

 

扇の中にみなしごは、

白い虚な眼を閉じる。

病気上りの気のやみに、

まぶしく照らす赤い夕日、

風にふらふらうごく雛罌粟、

心覚えの両親が心の何処かにあるやうに、

所々にきらきらと清水が涌く。

 

ああパウルのやうに厳くて、ペテロのやうにやさしい院長さん、

私が此方へ初めて来た日には、

ああお天日様目掛けて飛んでゆく鳥みたいでした。

そのくせ夜になると魘(うな)されたり、

泣き出したり、

知らぬ他国の夢を見て、

暗い廊下におびえて居たり……

 

 

「自分は太陽の子である」にくらべれば

これがダンディと金子光晴が認めるものでした。

 

福士幸次郎は

金子光晴が主宰していた「楽園」に属していましたし

その周辺には

林髞

佐藤一英

平野威馬雄

サチウ・ハチロー

永瀬三吾

国木田虎雄

――らがいて活躍中だったというのですから

もはや遠い日のことになりました。

 

その外には吉田一穂もいました。

 

 

早稲田派、三富朽葉を中心とする

フランス・サンボリズムの流れとは異なる流れが

10、15年のちに現われる

富永太郎の流れです。

 

富永太郎ということになり

案内されるのはアルチュール・ランボーの翻訳です。

 

 

饑餓の饗宴 

      ランボー

 

俺の饑よ、アヌ、アヌ、

驢馬に乗つて、逃げろ。

 

俺に食気が あるとしたら、

食ひたいものは、土と石。

ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、ヂヌ、空気を食はう、

岩を、火を、鉄を。

 

俺の饑よ、廻れ、走れ。

音の平原!

旋花のはしやいだ

  毒を吸へ。

 

貧者の砕いた 礫を啖へ、

教会堂の 古びた石を、

洪水の子なる 磧の石を、

くすんだ谷に 臥てゐる麺麭を。

 

俺の饑は、黒い空気のどんづまり、

鳴り響く蒼空!

――俺を牽くのは 胃の腑ばかり、

それが不幸だ。

 

地の上に 葉が現はれた。

饐えた果実の 肉へ行かう。

畝の胸で 俺が摘むのは、

野萵苣(のぢしゃ)に菫。

 

俺の饑よ、アヌ、アヌ、

驢馬に乗つて、逃げろ。

 

           (富永太郎訳)

 

 

次に紹介されるのは

富永太郎の自作詩2作のうちの「橋の上の自画像」。

 

 

橋の上の自画像 

       富永太郎

 

今宵私のパイプは橋の上で

狂暴に煙を上昇させる。

 

今宵あれらの水びたしの荷足は

すべて昇天しなければならぬ、

頬被りした船頭たちを載せて。

 

電車らは花車の亡霊のやうに

音もなく夜の中に拡散し遂げる。

(靴穿きで木橋を踏む淋しさ)

私は明滅する「仁丹」の広告塔を憎む。

またすべての詞華集とカルピスソーダ水とを嫌ふ。

 

哀れな欲望過多症患者が

人類撲滅の大志を抱いて

最期を遂げるに間近い夜だ。

 

蛾よ、蛾よ、

ガードの鉄柱にとまって、震へて

夥しく産卵して死ぬべし、死ぬべし。

咲き出でた交番の赤ランプは

おまへの看護には過ぎたるものだ。

 

 

もう1作の「癲狂院外景」――。

 

 

癲狂院外景

        富永太郎

 

夕暮の癲狂院は寂寞(ひっそり)として

苔ばんだ石塀を囲らしてゐます。

中には誰も生きてはゐないのかもしれません。

 

看護人の白服が一つ

暗い玄関に吸ひ込まれました。

 

むかうの丘の櫟林の上に

赤い月が義理で上りました

(ごくありきたりの仕掛けです)。

 

青い肩掛のお嬢さんが一人

坂を上つて来ます。

ほの白いあごを襟にうづめて、

唇の片端が思ひ出し笑ひに捩ぢれてゐます。

 

――お嬢さん、行きずりのかたではありますが、

石女らしいあなたの眦を

崇めさせてはいただけませんか。

誇らしい石の台座からよほど以前にずり落ちた

わたしの魂が跪いてさう申します。

 

――さて、坂を下りてどこかへ行かうか……

やっぱり酒場か。

これも、何不足ないわたしの魂の申したことです。

 

 

上田敏、永井荷風にはじまる

フランス・サンボリズムの受容の歴史の中で

富永太郎を読んでみると

かなり現代に近い詩であることが際立ちます。

 

現代的(モダン)と言ってしまえば

簡単にすぎますが

富永太郎のこれらの詩を

三富朽葉を10年さがった時代の詩と

金子光晴は位置づけています。

 

 

金子光晴はこの二つの詩を読んで

 

どこかラフォルグの軽さもあり、また、ボオドレエルの濃い血汁もかよっている。ランボオの

冒険もある。

 

そして、血になりかた、肉になりかたが、おなじサンボリズムであっても、白秋露風時代とど

んなにちがうか。

――とコメントします。

 

つづけて

これは詩の年齢ばかりでなく、大正から昭和にうつってゆく自意識の発達の歴史を物語っ

てもいるようだ。

 

そして、大正中期の詩人たちの、どこかとりすました傑作主義から、自己の内的苦悶の表

現を中心とした詩作の道すじのけわしさに於て、朽葉からの横のつながりを感じさせるも

のだ。

――と大正末そして昭和初期の詩人である富永太郎を

あざやかに浮き彫りにします。

 

 

現代詩は

こうして中原中也にたどりつきます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年10月22日 (月)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足1・金子光晴その7

 

 

ジュール・ラフォルグ(1860~1887)は

晩年のベルレーヌ(1844~1896)を熱烈に支持した

青年詩人の群れの中の一人であったようです。

 

金子光晴は

そのことを記していませんが。

 

 

ピエロオの詞

      ラフォルグ

 

また本か。恋しいな、

気障な奴等の居ないとこ、

銭やお辞儀の無いとこや、

無駄の議論の無いとこが。

 

また一人ピエロオが

慢性孤独病で死んだ。

見てくれは滑稽(おかし)かつたが、

垢抜のした奴だつた。

 

神様の退去(おひけ)になる、猪頭(おかしら)ばかり残ってる。

ああ天下の事日日に非なりだ。

用もひととほり済んだから、

どれ、ひとつ「空扶持(むだぶち)」にでもありつかう。

 

(「金子光晴全集」第10巻「現代詩の鑑賞」より。以下同。)

 

 

この詩は

詩人の読みを

そのまま引いておきましょう。

 

 

また本か、は、よむ本も、およそ心の助けになってくれず、知識のおしうり、学識のひけら

かしなど、よそよそしいことばかりで、手にとっても、すぐに捨てたくなる。気障な奴等は、い

つの時代、どこでもつきぬ。得意満面な軽薄づらを、しみじみとみれば、おかしくもぁり、哀

れにもなるが。銭で幅をきかせる奴、それほどのことでもないことには、むだな議論をつい

やす奴、それらがみんないなかったら、どれほどこの世界は安楽浄土となるだろう。恋一

つうちあけられず、つまらない女一人を吾仏とおもって、心をこがすばかりで、嘲笑され、

気の毒がられたままで、孤独がこうじて死んでしまった。そんな運命にじぶんもやがてなり

そうだ。あわれな奴だったが、心の底はさらりとして、気心のわかる、いい奴だった。そうい

う連中は段々いなくなる。そして、ボスや世才がはびこっている。じぶんには、人生がだん

だん住みにくいところになってくる。こんな世のなかですることもない。いい加減にして、な

にかいい隠居しごとでもあったら、安楽一式浮世を茶にして送りたいものだ。

 

 

嘆きぶし風につくれる墓碑銘

      ラフォルグ

 

女、すなはち

わが心とは、

なんと豪儀な

託宣ぞや!

 

どうせ消えちやう

パステル描きだよ、

調子が駄目なら

どうともくさせ!

 

躍り出でたる

道化の

踊りだ。

 

沈黙……

おや、どこやらで

ほととぎす。

           (山内義雄訳)

 

 

こちらも詩人の読みを

そのまま読んでおきます。

 

 

これも、おなじように、浮世を七分三分にみて、あかるくすねたような詩だ。ピエロのおどり

くたびれた生涯を、しゃれのめしたもので、そらとぼけたように明るい月光がピエロの墓を

てらし、どこかで、ほととぎすが啼いてすぎるといった情景をおもいうかばせる。

 

 

詩人の筆運びがあまりに面白いので

ついついそのままの形で引用してしまいました。

 

これがフランス語原詩を自ら読み

その翻訳をいくつか読んだ鑑賞なのですから

言語の壁などというものはすっかり忘れて

詩世界が通じ合っているところに

いつしか誘(いざな)われている心地ですね。

 

 

「フランスのエレガンス的傾向」の小題で

堀口大学からラフォルグへの流れが

こうして辿られ

ラフォルグはもう1作「お月様のなげきぶし」を

「牧羊神」から取り出して読んだ後

川路柳虹の日常語詩の実践を皮切りとする新時代について

簡単にまとめられます。

 

白秋、露風が第1線から退き

口語詩を書く詩人は

川路柳虹

高村光太郎

山村暮鳥

福士幸次郎

竹友藻風

富田砕花

室生犀星

萩原朔太郎

白鳥省吾

柳沢健

日夏耿之介

堀口大学

西條八十

千家元麿

――といった面々が

詩壇を背負って立つようになります。

 

露風一派の詩人たちも

文語に固執していながらも

それまでの新体詩口調ばかりではなくなり

表現が個性的になります。

 

七五調では西洋の詩に対抗できないというところで

多くの詩人たちの議論は一致したものの

これだという結論がでるものでもなく

しかし少しづつ、ゆくべきところへ歩みをそろえていったのだし

翻訳の世界でも同じようなことになっていきました。

 

フランス・サンボリズム以外の

世界の名詩が続々と紹介されるなかで

ふるい酒を新しい革袋に盛った(新しい酒と言っていません!)

研究者の1グループとして案内されるのが

三富朽葉ら早稲田派の一派です。

 

 

三富朽葉はグループの中心にいましたが

犬吠埼海岸で遊泳中に友が溺れたのを助けようとして

自らも溺死した詩人です。

 

ラフォルグも夭逝しましたから

どこかで詩風に似たところがあるのかもしれませんし

川路柳虹といい

三富朽葉といい

中原中也が高く買う詩人たちがちらほらと登場する流れは

中原中也本人の登場に繋がっていくことになるのですから

俄然、身を乗り出す姿勢になります。

 

 

憂鬱病

          三富朽葉

 

Ⅰ 雨

 

青い洋館を取り巻く

畑の後の地平線よ、

雨が降る、雨が降る。

 

苧(からむし)を績むやうな軽い唄が

雨の中から生れて、

雨の中へ消えてゆく。

 

のろのろと動いて

疲れて睡る田舎の雨。

 

おお、私は熱を病んで、

影のやうに飛び去る

火の鳥を夢みてゐる。

 

枝から枝へ舞ひ昇る

明るい水の煙の

雨に紛れるわびしさ、

窓硝子のみやがて白く

拡がりかかる夜の鬱陶しさ。

 

暗い焔の陰から

私の饑ゑた希望(のぞみ)は

人知れず狂ひに行く……雨の中。

 

Ⅱ 夜

 

血なまぐさい室を出て

私は夢遊病者(ソムナンブリスト)のやうに迷つて歩く、

闇の底に蒼ざめた

光りの眠り。

 

薄明りの空が、どこからか

洩れるともないピアノを聴いてゐる。

 

火の渇きに打たれて、

私は独り、病に魅いられて、

懶い夜のイリュウジョンを追って歩く。

 

 

金子光晴はこの詩を

 

火の鳥を心にいだき、夢みている若人の飢え渇きが、夜の底へ光を放ってとび立とうとす

る、内心の懊悩が、さほど上手というわけでもなく、又流麗でもないが、内面の閃きを発し

ながら、個性的に、ポキポキと表現されている

――と味わって

 

三富の「“火の鳥”の夢」は、時代がめざめてきた曙の方へ、“うつぼつ”として脈うってい

る。彼は、月光からのがれなければならない時代の子の宿命をおぼろげながら感じはじめ

て、サンボリズムの諸詩人から、遂にエミール・ヱ゛ルハーレンに飛躍して移っていった。

――と記します。

 

月光に濡れているばかりではいけないという思想が

三富朽葉のなかに芽生え

グループの詩人たちのなかにもありました。

 

そのうちの一人が福士幸次郎でした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年10月20日 (土)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足1・金子光晴その6

 

 

金子光晴の「現代詩の鑑賞」は

「日本の月光派の詩人たち」につづいて

「白秋の光明礼讃とその影響」の小題で

北原白秋のその後を追い

山村暮鳥

室生犀星

萩原朔太郎

――への流れをたどりますが

ここは端折(はしょ)って

次の「フランスのエレガンス的傾向」をひもときましょう。

 

この章を詩人は

ふたたびベルレーヌから説き起こします。

 

 

草の上  

ヱ゛ルレエヌ

 

法師(アベ)は呂律がまはらない。――そこな侯爵、

鬘がちよいと横つちょで。

――このシイプルの古酒の美味、

でも何さ、カマルゴどの、そちの頸に及びもないが。

 

――燃ゆる思ひは……――ド、ミ、ソル、ラ、シ。

――法師、そなたの悪計見やぶったり!

――奥さま方、あの星一つ外せぬやうなら

死んでお目にかかりませう。

 

――仔犬になりたや、なりたやな!

――次から次と女子衆を

抱くとしようぜ。――皆さん、さらば?

ド、ミ、ソル。――へへ、お月さま、おやすみなされ!

                  (堀口大学訳)

 

 

フィガロの世界にも通じる、この世界こそ御婦人方のサンスーシだ。

――と、この詩を読んで

金子光晴は開口一番述べます。

 

そう述べられても

フィガロも、サンスーシも知らない素人には

想像するほかないのですが

サンスーシSans souci が「憂いのない」という意味のフランス語で

有名なフリードリッヒ大王の宮殿の名前で

フィガロの方も結婚と結びついて多少は知っていますから

宮廷やそれを映した庶民の間の男女の恋の遊びのことを言っているものと

漠然とは推測できるでしょうか。

 

日本でいえば

坊さん、簪(かんざし)買うを見た♪

みたいな男女の道行きの一コマを

この「草の上」は歌っていると受け取れば

さして見当違いでもないでしょうか。

 

 

男女のことですから

もう少しエロチックなニュアンスを

イメージしたほうがよいかも知れません。

 

というのは

金子光晴は堀口大学が

「月下の一群」を翻訳していた頃の自作詩を

引き続き案内し

刺激的な読みを披瀝するからです。

 

 

遠い薔薇

      堀口大学

 

昔の恋がなつかしいので

遠い薔薇を私は思ふ。

 

うなだれた青い前額の

そのかみの日の情熱。

 

忘却の上に流れる

ほのかな匂ひの幽霊たち。

 

昔の恋がなつかしいので

遠い薔薇を私は思ふ。

 

 

彼女の靴下

      堀口大学

 

シュミーズはなほ取去る可かりしが

遂に彼女の靴下は

彼女の皮膚の一部なりしか

 

膝の上やや高きあたりより

皺もなき淡墨色の刺青の

すき見ゆる絹の夢

 

金いろの麦の穂の波

桃いろの形よき畝の間に燃え上る

美学の中心をややに遠ざかり

 

彼女の靴下は

ああ対照だ

合奏だ

 

(中央公論社「金子光晴全集」第10巻「現代詩の鑑賞」より。)

 

 

この二つの詩を並べて

このピエロは純情派であるとともに、少々エロティシズムだ。

――と金子光晴はコメントし

さらに

 

ナイロンがなかった昔のうすい絹靴下は、現実をよりうつくしくみせる道具だった。ベッドの

うえで全裸になる女も、靴下や靴ははいたまゝというのが、ヨーロッパ女の伊達か審美感

か、シャルムのあるものだった。

 

――とつけ加え

さらに

 

そして、この詩にはすでに、「海潮音」はなくなって、もっと自由な、明るい日本語になって

いるが、精神はやっぱり、有閑階級の女あさり、放蕩のよろこびがあの時代の感傷をもっ

て審美的に表現されている。詩人はたのしい人種だったあの時代。

――と結びます。

 

 

堀口大学の心臓部をつかんだような

この読みが

さりげないようですが

非凡にして貴重ですね。

 

そして

ここ(堀口大学の詩)にはベルレーヌがあり

このかるい調子は

ジュール・ラフォルグの

凝滞のない明るい詩風に受け継がれると展開していきます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2018年10月18日 (木)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足1・金子光晴その5

 

 

金子光晴の「現代詩の鑑賞」から

ベルレーヌに言及した部分を取り出そうとしましたが

ベルレーヌはあちこちに顔を出すものですから

「翻訳詩の影響」

「日本の月光派の詩人たち」

――の章を通しで読んでしまうことになりました。

 

ベルレーヌが

日本の象徴詩に与えた影響は

さながら枯野に火を放つ勢いがありました。

 

堀口大学の「月下の一群」は

発火点となり

さらに火の勢いを加速させる

マッチ&ポンプの役割を果たしました。

 

金子光晴は「月下の一群」という

堀口大学の命名の妙(うまさ)を喝采し

フランス以外の

世界の月下の群れへも目を向けます。

 

 

まずはイギリスのイエーツは

「落葉の歌」(日夏耿之介訳)

「叡知は時と階に来る」(同)

――を読み

 

次にドイツのデーメルは

「秘密」(生田春月訳)

――を読みます。

 

デーメルは

ドイツのベルレーヌと称されるそうなので

目を通しておきましょう。

 

 

秘密

 

暗き峡谷に

月はかへりぬ。

滝の辺に歌ふ声あり。

おお、愛するものよ

汝が上もなき快楽も

汝がいと深き苦痛も

わが幸福(さち)なりと――

 

(中央公論社「金子光晴全集」第10巻「現代詩の鑑賞」より。以下同。)

 

 

つぎにロシアのバリモントは

「月の悲しみ」。

 

以上の3人は

フランス・サンボリズムの流れを汲んだ

月下の一群ということで

ピックアップされました。

 

 

そのフランス・サンボリズムの巨匠というべき

ボードレールを上田敏訳で読み込むのは

詩人、金子光晴の考えがあるからです。

 

 

信天翁(おきのたいふ)

      シャルル・ボオドレエル

 

波路遥けき徒然(つれづれ)の 慰草(なぐさめぐさ)と船人(ふなびと)は、

八重の潮路の海鳥の 沖の大夫を生擒(いけど)りぬ

楫(かじ)の枕のよき友よ 心閑けき飛鳥かな、

奥津潮騒すべりゆく 舷(ふなばた)近くむれ集ふ。

 

たゞ甲板に据ゑぬれば げにや笑止の極なる。

この青雲の帝王も、足どりふらゝ、拙くも、

あはれ、真白き双翼は、たゞ徒らに広ごりて、

今は身の仇、益(よう)も無き 二つの櫂と曳きぬらむ。

 

天飛ぶ鳥も、降(くだ)りては、やつれ醜き痩姿(やせすがた)、

昨日の羽根のたかぶりも、今はた鈍(おぞ)に痛はしく、

煙管(きせる)に嘴(はし)をつつかれて、心無(こころなし)には嘲けられ、

しどろの足を摸(ま)ねされて、飛行(ひぎょう)の空に憧がるゝ。

 

雲居の君のこのさまよ、世の歌人に似たらずや、

暴風雨(あらし)を笑ひ、風凌ぎ猟男(さつお)の弓をあざみしも、

地の下界にやらはれて、勢子の叫に煩へば、

太しき双の羽根さへも 起居(たちい)妨ぐ足まとひ。

                     (海潮音)

 

(※ルビは一部を省略、現代かなに改めました。編者。)

 

 

信天翁は、あほうどりのことです。

 

(【由来】天に信(まか)せて一日中同じ場所で魚が来るのを待っている翁(おきな)のような

白い鳥の意。漢字ペディアより。)

 

この鳥は、

ボードレールばかりでなく

多くの文学作品の題材にされるあわれな海鳥ですが

信天翁と書いて「あほうどり」と読むことは知られていても

なぜこの漢字が当てられるのかは

あまり知られていないことなので

ここにネットの威力をかりて注釈しておきました。

 

 

金子光晴がこの詩を呼び出したのは

この詩の考え方が

ボードレールより以前の

ロマンチシズムの詩人、ミュッセの「五月の夜」という長詩にも出てくることを

述べたかったからであるといって

「五月の夜」の内容を要約して説明します。

 

この長詩の後半部。

 

 

1羽の母のペリカンが、荒涼たる夜の洲をさがしあるくが、1尾の小魚さえみあたらず、うえ

ながら巣にもどってくる。巣にはたくさんのペリカンの子供たちが、母のもってくる餌を待ち

かまえている。ペリカンは、なにも与えるもののない悲しみから、遂に大きな嘴で胸をやぶ

り、じぶんの心臓を出して、子供達にやる。

 

丁度詩人はこの親のペリカンのようなもので、民衆のためじぶんを犠牲にする悲劇的な存

在だというのである。

 

 

ミュッセの詩を案内して

15世紀のヴィヨンが

「去年の雪いまはたいずこ」と歌ったことにふれ

 

ロシアのプーシキン(1799~1837)も、

ドイツのゲーテも、ハイネも、

イギリスのシェークスピアも、

印度の古詩も、

オンマ・ハイヤムも、

杜甫も白居易も

影とかたちのうつってゆくのをかなしまない詩人はいない。

そんなイミで、

詩人はみんな月下の群かも。

――と遠大な詩の歴史の中に位置づけてみせるのです。

 

 

ボードレールの引用のねらいを

このように案内する合間に

実はもう一つ重要な発言を

これは( )に入れて記しているのを

省略するわけにはいきません。

 

その( )の中の部分は

上田敏の訳は上手な雅語をたくみに使って、まず成功の部類のものである

――を補足する形になっています。

 

 

大体、当時の翻訳者は雅語のこうした使い廻しを一応当然と考えていたことと察しられる。

ボオドレエルにしても、ヹルレエヌにしても、ちゃんと、古来の詩の韻律をふみ、正式な詩

型にはめて作っているので、日本の正式な韻律を七五調ときめていた新体詩全盛の時代

で、そう思うのは、まことに無理もないことであるが、複雑多様で、千変万化に耐えうる欧

米の詩の形式と、単律な七五調を一つにして考えたところに、ひどい無理があり、その無

理が、両詩を味わい鑑賞する時の自由さまでも、制限してしまうことになったのだと考えら

れる。

 

 

上田敏のボードレール翻訳について

どうしても以上の( )内のことを

詩人は言っておきたかったのでしょう。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2018年10月14日 (日)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足1・金子光晴その4

 

 

この精神は

――と金子光晴が続けるコメントは

月光派の精神のことを指示しています。

 

 

この精神は、究極はカトリックの神に籍をあずけたフランスの民の生活の地下水となって

流れ、第1次世界大戦直後の巴里に僕が遊んだときも、フランス人の「恋愛」至上主義の

甘ったるいポーズや、恋人同士のさゝやく言葉のなかに汲みとれるものであった。

 

シネマもそうだったし、ボードビルも、レヸュウも、シャンソン(ダミヤや、リュシャン・ボアイエ

も)も、ヹルレエヌをながれていたおなじ情緒が、俗化され、型になって、お粗末ながら蒸し

返されているのだった。

 

(中央公論社「金子光晴全集」第10巻「現代詩の鑑賞」より。改行を加えてあります。編者。)

 

 

ベルレーヌ風の詩のこころは

フランスの恋人たちの会話や

シネマ、ボードビル、シャンソンといった大衆芸術に

浸透していた時代があったというから驚きです。

 

いや、驚くことではないのでしょうか。

 

たとえば古典のようにして

現在も歌い継がれるシャンソンの恋歌の数々には

ベルレーヌそのもの

あるいはベルレーヌの俗化したもの

――と言えるような

月光派のこころが流れているのでしょうか。

 

その答えを、

ベルレーヌは日本へも入ってきた

――と金子光晴は記して

日本の月光派の詩人たちにスポットを当てていきます。

 

この流れは次の小題「日本の月光派の詩人たち」で

くわしく紹介されますが

ここではあらましだけを見ておきましょう。

 

 

日本のサンボリストの流れは

「海潮音」

「珊瑚集」

――という二つの訳詩選集が仲介者となった。

 

アルベール・サマンは

ボードレールとベルレーヌの中間に位置し

サンボリズムの見本のような詩を書いた、

そこに、レニエもいる。

 

これ等の詩人の詩が

金子光晴の中学校卒業時代にあり

文学青少年の心をとらえていた。

 

上田敏の「海潮音」は

藤村、酔茗、晩翠らの新体詩を

時代の後方に押し出してしまう

新しい運動の萌芽になった。

 

サンボリズムは

蒲原有明がまず実践したが

金子光晴の時代には

有明人気は落ち目にあり

北原白秋、三木露風の二人が

白露時代を走っていた。

 

 

北原白秋の「邪宗門秘曲」は傑作だ。

この詩も「海潮音」の指嗾(しそう)なしには

生まれなかった。

 

マラルメの上田敏訳「ソネット」を

ここで読んでみると

上田敏訳は

雅文が、原詩のうえを撫でている丈で

雅文の世界から遠い僕らには

はっきりしたイメージがとらえられない。

 

七五調新体詩型のなかに

きゅうくつにつめこまれた言葉が

言葉の屍としてるいるいと積まれているだけだ。

 

「邪宗門」も

新体詩型の制限のなかにある。

 

「邪宗門」のとりえは、

白秋のエキゾシズム。

そのディレッタニズムは一世を風靡する理由があった。

 

「東京景物詩」

「梁塵秘抄」

「水墨集」

――という巡歴は

気散じの道楽旅に過ぎなかった。

 

白秋の本領は

小唄作者であった。

 

空に真赤な雲のいろ。

玻璃に真赤な酒の色。

なんでこの身が悲しかろ。

空に真赤な雲の色。

――のような小曲は

誰にでも口ずさめる調子のよいもので

多くの青年が鼻唄のように口ずさんだものだ。

 

 

白秋の友人であった木下杢太郎の

「金粉酒」も江都情調

いいかえればエキゾチズムを

白秋以上にたたえた詩を書いた。

 

これもボオドレエル、サマン、レニエの影響だ。

 

 

白秋と並び称せられた三木露風を見てみよう。

 

「雪の上の鐘」

これも「珊瑚集」や「海潮音」によく似ているではないか。

 

「すたれし声」

ベルレーヌの世界であり

レニエの常套だ。

 

フランス・サンボリズムのそのままだ。

 

日本の詩壇の新しい出発点であったサンボリズムが

新体詩流雅語の翻訳によって決定されていたことが

これらから理解できる。

 

新鋭、朔太郎が

露風一派を撲滅せよと論文を書いた背景もここにあった。

 

露風が主宰していた雑誌「未来」には

詩壇の過半数が集結していたのだし

朔太郎が露風の詩を屍蠟のようなものと感じていたのも

理由がないことではなかった。

 

三木露風は

原詩のつきつめた勉強をなまけたところに

とんでもないミスがあったのだ。

 

 

こうして日本の月光派についての足どりを追ってきて

日本の詩のほんとうのイミの産婆役は

川路柳虹であると僕は信じている

――とやや唐突に現れるのが

川路柳虹です。

 

「吐息」

「秋」

――を読むのは

露風との対比で出てくる必然があります。

 

 

     川路柳虹

 

秋は昔の恋人のように

忘れた心になつかしく寄ってくる、

今は忘れはてた面、

その面変った瞳に、

薄い夕月がさす。

 

秋は芙蓉色の夢に、

くりいむの溶けた空に、

悲しい木立をそよがせ、

さむしい笛をおくる。

 

 

この詩も、あいかわらずベルレーヌだ。

 

秋の木の葉と月光のなかの、

おもいでのサンチマンであることは間違いない。

 

それを原詩で味わっているし

露風の名調子ではないが

自分の感情生活に直接な言葉で

実体をとらえようとしている。

 

こうして

露風批判の後で川路柳虹を呼び出し

その流れで呼び出すのは

堀口大学の「月下の一群」ですが

ここでは「月下の一群」という

呼称(ネーミング)のうまさについてです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年10月11日 (木)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足1・金子光晴その3

 

 

金子光晴がベルレーヌをいったん離れるのは

レニエの詩を読むためです。

 

アンリ・ド・レニエは

「秋」(『珊瑚集』)

「日のをはり」(山内義雄訳)

「ニンフ」(金子光晴訳)

「手の絵」(与謝野寛『リラの花』)

――の4作を読むこだわりようで

これはきっと若き日に自身が相当入れ込んだからのようですが

ボードレール、ランボーを鑑賞する流れには

どうしても必要だったからでもありましょう。

 

こうして、

アンリ・ド・レニエのつづきに

シャルル・ボードレールは

「交換」(鈴木信太郎訳)

アルチュール・ランボーは

「母音」(金子光晴訳)と

「谷間に眠るもの」(同)

「そゞろあるき」(『珊瑚集』)

――と案内して

またベルレーヌに戻ってきます。

 

この流れは

月光の詩人、ベルレーヌを読むための

布石であったようでもあります。

 

 

ましろの月

          ポオル・ヴェルレエン

 

ましろの月は

森にかゞやく。

枝々のさゝやく声は

繁のかげに

あゝ愛するものよといふ。

 

底なき鏡の

池水に

影いと暗き水柳。

その柳には風が泣く。

いざや夢見ん、二人して。

 

やさしくも、果知られぬ

しづけさは、

月の光の色に浸む

夜の空より落ちかゝかる。

 

あゝ、うつくしの夜や。

 

          (『珊瑚集』)

 

 

ベルレーヌを案内するには

ランボーを欠かせませんが

ランボーの「そゞろあるき」(永井荷風訳)とを対照し

さらりとベルレーヌの「ましろの月」を呼び出します。

 

蒼き夏の夜や

麦の香に酔ひ野草をふみて

――のランボーに対してこの詩を引き

つぎのようにコメントします。

 

 

月光派のヹルレーヌは、ランボオが歩いた麦畑ではなしに、月光に濡れた池のほとりを、

夢みごこちに我を忘れ、神に跪拝するひたすらな気持で、放縦の陶酔に、悔もなく、未来も

しらず身をうちまかせるのであった。

 

(中央公論社「金子光晴全集」第10巻「現代詩の鑑賞」より。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年10月10日 (水)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足1・金子光晴その2

 

 




セーヌが流れ、霧の朝に、サクレ・クールの鐘がひびいてくる巴里を愛し、また愛されて、

もっとも不幸な一生を送った芸術家ですらも、モンパルナスや、ペール・ラシューズの墓地

に、幸福そうに眠ることができたのであった。

 

(中央公論社「金子光晴全集」第10巻「現代詩の鑑賞」より。以下同。)

 

 

ベルレーヌが眠るパチニョル墓地は

パリにあるのでしょう。

 

幸福そうに眠る芸術家たちを思うと

日本とはなんとへだたりがあるだろう。

 

2度の戦争体験の記憶が

パリの墓地の眺めを思い出す時に

金子光晴の脳裡を駆けめぐります。

 

 

ベルレーヌの詩の永井荷風訳「偶成」を読みながら、

この詩に、老巴里のかわらざる姿への安堵がひゞいている

――と金子光晴が語るこの安堵のひびきこそは

僕が生れてから、すでに二度も灰土となった東京の、安堵のない生活のなかで、どうして、

こんな安堵のある詩が作れようか。

――と強調されるパリと東京の違いです。

 

パリの街には

それだけで安堵のひびきが堆積している。

 

それこそがカトリックの神のような

甘えられる父であると詩人は指摘し

つづけてもう一つの有名な

上田敏の訳詩「落葉」を

今度は「海潮音」から取り出します。

 

 

落葉

      ポオル・ヱ゛ルレエヌ

 

秋の日の

ヸオロンの

ためいきの

身にしみて

ひたぶるに

うら悲し。

 

鐘のおとに

胸ふたぎ

色かへて

涙ぐむ

過ぎし日の

おもひでや。

 

げにわれは

うらぶれて

ここかしこ

さだめなく

とび散らふ

落葉かな

 

 

「フランスで一番大詩人は誰でしょうか」

ときくと、健全な市民は、

「まあ、ヱ゛ルレエヌでしょう」

と答えるだろう。今日では、すこしちがっているかもしれない。

――と金子光晴のアプローチは

ここでもざっくりとはじまります。

 

今日というのは

今から60余年前に言われたことですが

現在も含まれているでしょうか。

 

2018年の落葉の季節に

「落葉」の風景は

変わらないでしょうか。

 

 

十一月のパリーのブウルバアルの並木の葉はいっせいに、レモン黄に黄葉する。そして冬

中、道ゆくものは、落葉に追われてあるく。

 

サン・ミッシェル通りを、ダンフェル・ロッシュロオの方へあるいてゆく途中に、黄葉で埋もれ

つくしたみごとなふきだまりがある。風がつめたい。雨も多い。ときには、みぞれもまじる。

キャッフェはガラス戸をはめる。

 

だが、雨ざらしになっている椅子もある。珈琲をのんでいる卓のうえに、ばさりと一枚のすゞ

かけの葉が落ちてくる。

 

その歳のたのしかった恋愛(アムール)は終り、おもいでが、暖炉のなかに燃える。そして、

余燼となり、灰となる。秋に結ばれた堅実な愛だけが、その歳を越す。やがてノエルがやっ

てくる。

 

 

金子光晴の網膜には

少なくとも60余年前のパリが

このように焼き付けられていました。

 

そして、

 

このパリーのブウルバアルを、蒼踉として落葉とともにさまよっている詩人の姿が、この詩

のすゝりなきとともにうかんでくる。

 

――と「落葉」の鑑賞記を閉じます。

 

ベルレーヌの詩のうつくしさは、

人生に入れあげた人間の「さわり」の無類無比なうつくしさにある。

――というコメントを加えて。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年10月 8日 (月)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足1・金子光晴

 

 

 

偶成

          ポオル・ヴェルレエン

 

空は屋根のかなたに

かくも静にかくも青し。

樹は屋根のかなたに

青き葉をゆする。

 

打仰ぐ空高く御寺の鐘は

やはらかに鳴る。

打仰ぐ樹の上に鳥は

かなしく歌ふ。

 

あゝ神よ。質朴なる人生は

かしことなりけり。

かの平和なる物のひゞきは

街より来る。

 

君、過ぎし日に何をかなせし。

君今こゝに唯だ嘆く。

語れや、君、そもわかき折

なにをかなせし。

 

          (『珊瑚集』)

 

 

ここで脱線して

金子光晴によるベルレーヌ案内に

耳を傾けてみましょう。

 

もはや疾(と)うに

過去のものとなったというのは思い過ごしで

金子光晴は「珊瑚集」(1913年、大正2年)の中から

この「偶成」を引っ張り出してきて

ベルレーヌを味わい尽くします。

 

「偶成」とはまた

なんとも古めかしい意訳ではないかと

そこで通り過ぎてしまっては

この翻訳も過去のものとなってしまうことでしょうが

金子光晴はタイトルに躓(つまづ)きません。

 

 

僕がはじめて手にとった詩集は、『珊瑚集』という、名の通り、珊瑚いろの表紙の訳詩集

だった。

(中央公論社「金子光晴全集」第10巻「現代詩の鑑賞」より。以下同。)

 

 

「現代詩の鑑賞」の書き出しは

「象徴派を鑑賞しながら」の章題をつけて

こうはじまります。

 

「翻訳詩の影響」の小題で

真っ先にとりあげるのが「偶成」です。

 

 

この詩は、僕の時代の文学青年が誰もよんでいる詩だ。

 

荷風の訳詞は、優雅で、心のこもった韻文だ。この詩などは、特にほゞ原詩の雅致と、意

(こころ)とを伝えているようだ。

 

この原詩が、世界の詩に与えた有形無形の影響は、はかりしれないものがある。そして、

その当時にあっては、一応、詩のいたりうる極致のようにさえ考えられた。

 

(略)

 

日本の詩壇の上に与えた影響も大きい。三木露風の象徴詩の語感も、これらの翻訳を出

ていないし、川路柳虹の『かなたの空』時代の繊細な感性の詩も、ヹルレエヌをその出発

点にしている。

 

――とまずはベルレーヌのアウトラインをくっきりさせますが、

ベルレーヌの詩は

ベルレーヌからはじまったものではなく

フランス抒情詩の長い伝統の上に立つもので

遠くは泥棒詩人、ヰ゛ヨンまで遡ることができると

歴史の中に位置づけます。

 

この流れが

19世紀、20世紀に続き

後の時代のフランスの詩人たちの心をうるおし

世界の詩のこころをぬらす源流になることを予測します。

 

これ(「現代詩の鑑賞」)が書かれたのは

1954年(昭和29年)です。

 

今から60余年前のことです。

 

 

金子光晴自身の経験

世界の詩への影響

日本の詩壇への影響

ベルレーヌまでのフランス詩の伝統

――とあっちへ行き、こっちへ行きながら

ベルレーヌは鷲づかみされるのですが

おもむろに、

 

この詩は、解説するほどのことはないだろう。

――と記して

詩の中に分け入って行きます。

 

 

世にも稀な感じやすい、鋭い感受性をもった詩人ヹルレエヌが、所謂世紀末(ファン・ドウ・

シェクル)と言われる19世紀末のデカダンな時代思想のなかで、信仰を失い、放蕩に沈湎

しながら、悔恨にめざめた朝は、教会の入口に身をうち伏して慟哭したと伝えられている。

 

詩は、そのときの懺悔であり、聖なるもの、きよきものへのひたぶるなあくがれの表現であ

る。

 

 

――と、ここまで書いては

カトリシズムについて触れないわけにいかないという流れができて

ボードレールのようなニヒリズムは

神への反逆のかたちになることは必然

20世紀になって

クローデル、モーリヤックを生むフランスと

日本人がカトリシズムの線で理解を断ち切られるのは仕方ないのだし。

 

ベルレーヌの「叡智」の連祷のような詩群は

カトリックの精神を理解しないでは

しっくりとわかることはないことや、

ベルレーヌの「叡智」へは

カトリシズム抜きに接近することが無理だとしても

この詩「偶成」は

カトリシズムを知らなくても理解可能だということが語られます。

 

 

だがこの詩の価値ということになると、時と所と状態を異にしながら、万代の人の心をうつ

点だけを問題にすれば足りるのである。

 

――とここで「偶成」が

だれにでも読める詩であることが語られて

みるみるうちに

この詩の親しみやすさのわけを知ることになります。

 

万代の人の心をうつ。

 

この詩のポピュラリティーの理由が

人みなこぞって抱くに違いのない

青春の悔恨を歌ったものにあるなら

帰らぬ日はたちまち

一種の共同の幻想としてよみがえり

多少のなぐさめをもたらしてくれることになるからかもしれません。

 

 

青春の日は過ぎてゆき、ふりかえればおろかしいこと、むなしいことばかりしかしてこない

おおかたの人の悔恨のおもいに通じる著者の心が、ある日、あまりにしずかな平和な空を

屋根の上にながめて、御寺の鐘が鳴り、物音立てている遠くの人生に、つゝましき嫉妬をさ

え感じている境地をうたったこの詩であるが、実際は、遠くの人生の人々の心もおなじこと

なのだ。人間、誰一人この“うらみ”のないものがあろう。

 

 

詩人はそこのところを

こう記していますが

この詩は、

 

あのパリーのオデオン座の近くの、酔ヹルレエヌが背を曲げて、さまよっていたあたりの街

をおもいうかべれば、味わいはさらに渾然としたものになるだろう。

この詩のひゞきのなかには、老巴里のかわらざる姿への安堵がひゞいている。

 

――と付け加えるのです。

 

それは、フランス芸術のすべてに賦与されている

恵みのようなもの、と。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年10月 2日 (火)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「序曲」の謎・その7

 

 

ベルレーヌの詩が

頂点の輝きを見せるのは

第4詩集Romances sans paroles

もしくは第5詩集Sagesse あたりとする読みは

全世界に共通するもののようです。

 

もちろん日本語への翻訳(=読み)も

戦前戦後を通じて世界の評価と

足並みを揃えているようです。

 

※Romances sans parolesは

「無言の恋歌」(堀口大学)

「言葉なき恋歌」(鈴木信太郎、橋本一明)

Sagesseは

「知恵」(堀口大学)

「叡智」(鈴木信太郎、河上徹太郎)

「かしこさ」(橋本一明)

――などと訳されています。

 

上田敏、永井荷風にはじまる

蒲原有明、川路柳虹らを含めた戦前の読みから

戦前戦後にわたる堀口大学、鈴木信太郎、金子光晴

戦後の橋本一明、窪田般弥

そして現代の日本の詩人たちの全てが

この世界基準とでも言える

読みの流れの中にあるようです。

 

これらの流れを正系とするなら

渋沢龍彦らの

異端の読みが存在する

――というのがおおまかなベルレーヌ翻訳の見取り図になります。

 

 

堀口大学のベルレーヌへの取り組みは

1927年(昭和2年)の「ヴェルレーヌ詩抄」以来

日本語によるベルレーヌの読みの中心にあり

1947年(昭和23年)の「ヴェルレーヌ詩集」以後は

1949年の増補などの重版を経て

1950年の新潮文庫版の発行へと

長い間オーソリティーの位置にあり続けています。

 

 

現在も文庫本で読めるのは

依然、堀口大学の「ヴェルレーヌ詩集」が唯一ですから

独壇場の観があります。

 

 

詩集の出版を専門的に手がける思潮社が

海外詩文庫に「ヴェルレーヌ詩集」を入れたのは

なんと1995年のことでした。

 

この「ヴェルレーヌ詩集」は

現代詩のトップランナーのひとり、野村喜和夫が

編集し翻訳にも参加しているもので

一般読者向けのアンソロジー(選集)としては

日本語で書かれた最も新しい著作になります。

 

それにしても

すでに20年以上が経過しています。

 

20年以上も経過していますけれど

その編集の手際(技術)は

初心者から上級者(?)までを納得させる

わかりやすさ(使い易さ)と奥行(専門性)があり

堀口大学のヴェルレーヌしか知らない読者の目を

覚醒させる新しさを含んでいます。

 

 

野村喜和夫訳編の「ヴェルレーヌ詩集」は

ベルレーヌの日本語翻訳の歴史を通観し

それを4期に分類したうえで

その4期を代表する翻訳詩篇をピックアップします。

 

第1期が明治大正期の

上田敏、永井荷風、

第2期が昭和初期の

金子光晴、堀口大学、

第3期が戦後の

橋本一明、窪田般弥

第4期が現在の野村喜和夫

――という翻訳者の顔ぶれで

この第4期(という語が使われてはいませんが)の野村喜和夫の翻訳は

詩集ではありませんが

実質的には選集内詩集の形になっています。

 

各期の詩篇を野村喜和夫が選択し

その詩篇の重複を厭(いと)うことなく

むしろ比較して読むことを容易にする楽しみが増す効果があり

ベルレーヌ翻訳史を概観することに成功しています。

 

堀口大学の「ヴェルレーヌ研究」は

一般の読者が読もうとしても

手に届くところにはないのに比べ

海外詩文庫の「ヴェルレーヌ詩集」は

誰もが読める普及版です。

 

普及版というコンセプトに応えた

野村喜和夫という詩人の訳編集になっていますが

巻末の作品論・詩人論には

天沢退二郎の「希薄なしかし根源的な歌」と題した

ベルレーヌ「言葉なき恋歌Romances sans paroles」の原詩解読の

意を尽くした読み=翻訳の実例があり

最後に置かれた野村自身による解説と響き合う仕掛けもあって

現代の詩人が

編集という仕事に熟達することの

その手本のような見事な構成に溜飲が下がります。

 

 

野村喜和夫も

ベルレーヌの詩の頂点を

「言葉なき恋歌Romances sans paroles」に見ていることに変わりはなく

このタイトルを「ロマンス・サン・パロール」と

原語のままに翻訳しているところにも

それは示されますが

解説の結末部でベルレーヌの今日性に言及している下りは

ベルレーヌの晩年(と限定していませんが)への読み直しに触れるものです。

 

これまでほとんど照明の向けられなかったテキストへの

再読を自ら訴えるものですから

その部分だけをピックアップしておきましょう。

 

 

「両性具有」(バイセクシャル)としてのエロスの地獄を生きたヴェルレーヌの実存と、

その軌跡としての彼の詩的エクリチュールとを、

たとえばジュネやフーコーとの比較において関係づけることも、

あるいはヴェルレーヌを読むことの今日的意義のひとつに数えられるかもしれない。

 

その場合、詩的価値の乏しさということから等閑視されてきた『昔と近ごろ』以降の後期詩集も、

別な角度から読み直さなければならないだろうが、

本書ではごくわずかしか収録できなかった。

 

他日を期したい。

 

(思潮社「ヴェルレーヌ詩集」より。改行を加えてあります。編者。)

 

 

何よりもここに

晩年の詩(テキスト)を読もうとする

再構築の意志が表明されているところが

今日的であると言えますし

中原中也の未熟未完成の翻訳「序曲」の背景が

このあたりに接続するのかしないのか

ようやく繋がってきました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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