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2018年10月 2日 (火)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/「序曲」の謎・その7

 

 

ベルレーヌの詩が

頂点の輝きを見せるのは

第4詩集Romances sans paroles

もしくは第5詩集Sagesse あたりとする読みは

全世界に共通するもののようです。

 

もちろん日本語への翻訳(=読み)も

戦前戦後を通じて世界の評価と

足並みを揃えているようです。

 

※Romances sans parolesは

「無言の恋歌」(堀口大学)

「言葉なき恋歌」(鈴木信太郎、橋本一明)

Sagesseは

「知恵」(堀口大学)

「叡智」(鈴木信太郎、河上徹太郎)

「かしこさ」(橋本一明)

――などと訳されています。

 

上田敏、永井荷風にはじまる

蒲原有明、川路柳虹らを含めた戦前の読みから

戦前戦後にわたる堀口大学、鈴木信太郎、金子光晴

戦後の橋本一明、窪田般弥

そして現代の日本の詩人たちの全てが

この世界基準とでも言える

読みの流れの中にあるようです。

 

これらの流れを正系とするなら

渋沢龍彦らの

異端の読みが存在する

――というのがおおまかなベルレーヌ翻訳の見取り図になります。

 

 

堀口大学のベルレーヌへの取り組みは

1927年(昭和2年)の「ヴェルレーヌ詩抄」以来

日本語によるベルレーヌの読みの中心にあり

1947年(昭和23年)の「ヴェルレーヌ詩集」以後は

1949年の増補などの重版を経て

1950年の新潮文庫版の発行へと

長い間オーソリティーの位置にあり続けています。

 

 

現在も文庫本で読めるのは

依然、堀口大学の「ヴェルレーヌ詩集」が唯一ですから

独壇場の観があります。

 

 

詩集の出版を専門的に手がける思潮社が

海外詩文庫に「ヴェルレーヌ詩集」を入れたのは

なんと1995年のことでした。

 

この「ヴェルレーヌ詩集」は

現代詩のトップランナーのひとり、野村喜和夫が

編集し翻訳にも参加しているもので

一般読者向けのアンソロジー(選集)としては

日本語で書かれた最も新しい著作になります。

 

それにしても

すでに20年以上が経過しています。

 

20年以上も経過していますけれど

その編集の手際(技術)は

初心者から上級者(?)までを納得させる

わかりやすさ(使い易さ)と奥行(専門性)があり

堀口大学のヴェルレーヌしか知らない読者の目を

覚醒させる新しさを含んでいます。

 

 

野村喜和夫訳編の「ヴェルレーヌ詩集」は

ベルレーヌの日本語翻訳の歴史を通観し

それを4期に分類したうえで

その4期を代表する翻訳詩篇をピックアップします。

 

第1期が明治大正期の

上田敏、永井荷風、

第2期が昭和初期の

金子光晴、堀口大学、

第3期が戦後の

橋本一明、窪田般弥

第4期が現在の野村喜和夫

――という翻訳者の顔ぶれで

この第4期(という語が使われてはいませんが)の野村喜和夫の翻訳は

詩集ではありませんが

実質的には選集内詩集の形になっています。

 

各期の詩篇を野村喜和夫が選択し

その詩篇の重複を厭(いと)うことなく

むしろ比較して読むことを容易にする楽しみが増す効果があり

ベルレーヌ翻訳史を概観することに成功しています。

 

堀口大学の「ヴェルレーヌ研究」は

一般の読者が読もうとしても

手に届くところにはないのに比べ

海外詩文庫の「ヴェルレーヌ詩集」は

誰もが読める普及版です。

 

普及版というコンセプトに応えた

野村喜和夫という詩人の訳編集になっていますが

巻末の作品論・詩人論には

天沢退二郎の「希薄なしかし根源的な歌」と題した

ベルレーヌ「言葉なき恋歌Romances sans paroles」の原詩解読の

意を尽くした読み=翻訳の実例があり

最後に置かれた野村自身による解説と響き合う仕掛けもあって

現代の詩人が

編集という仕事に熟達することの

その手本のような見事な構成に溜飲が下がります。

 

 

野村喜和夫も

ベルレーヌの詩の頂点を

「言葉なき恋歌Romances sans paroles」に見ていることに変わりはなく

このタイトルを「ロマンス・サン・パロール」と

原語のままに翻訳しているところにも

それは示されますが

解説の結末部でベルレーヌの今日性に言及している下りは

ベルレーヌの晩年(と限定していませんが)への読み直しに触れるものです。

 

これまでほとんど照明の向けられなかったテキストへの

再読を自ら訴えるものですから

その部分だけをピックアップしておきましょう。

 

 

「両性具有」(バイセクシャル)としてのエロスの地獄を生きたヴェルレーヌの実存と、

その軌跡としての彼の詩的エクリチュールとを、

たとえばジュネやフーコーとの比較において関係づけることも、

あるいはヴェルレーヌを読むことの今日的意義のひとつに数えられるかもしれない。

 

その場合、詩的価値の乏しさということから等閑視されてきた『昔と近ごろ』以降の後期詩集も、

別な角度から読み直さなければならないだろうが、

本書ではごくわずかしか収録できなかった。

 

他日を期したい。

 

(思潮社「ヴェルレーヌ詩集」より。改行を加えてあります。編者。)

 

 

何よりもここに

晩年の詩(テキスト)を読もうとする

再構築の意志が表明されているところが

今日的であると言えますし

中原中也の未熟未完成の翻訳「序曲」の背景が

このあたりに接続するのかしないのか

ようやく繋がってきました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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