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2018年12月

2018年12月27日 (木)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その13

 

 

「Crimen Amoris」(愛の犯罪)は

エクバターヌという古代メディアの首都にある宮殿の

悪魔や堕天使たちの宴(うたげ)の様子を歌いはじめます。

 

それは七大罪を祭る宴――。

 

絹と黄金で飾り立てられ

異教の音楽が奏でられるなかで

悪魔や堕天使たちの祈る声が響き渡ります。

 

おお なんと美しい!

――と第2連にあるのは

地の声でしょうか。

 

ベルレーヌの心が

動いているのでしょうか。

 

欲望や食欲が解放されて

輝かしい光の満ちた宴は

御小姓(おこしょう)たちがすばしこく立ち回り

水晶グラスのバラ色の酒が

次々に注ぎ回されています。

 

 

ベルレーヌがカトリックに回心した後に書かれた詩です。

 

その心に映し出される異教徒の宴の陶酔――。

 

なにが起こるのだろうと

緊迫した気持ちになるのは自然です。

 

 

ランボーが現われるのは

第5連。

 

むんずと腕を組み 彼は夢みる

ひとみに炎をあふれさせ ひとみに涙をあふれさせ

――と歌われて登場します。

 

宴の中にある

堕天使のうちの

もっとも美しい若者として登場するのです。

 

彼のひたいに くるしみが

憂愁の黒い胡蝶をとまらせていた

おそるべき不滅の絶望!

 

おれをしずかにしておいてくれ!

――と言い残し

彼は宴を去ります。

 

ここらが

全25連の詩の3分の1ほど。

 

第10連で

彼の叫びのような祈りの声がはじまり

続く1連4行×4連が彼の言葉です。

 

彼の説くのは

地上をかくれ家とする地獄が

普遍の愛に身をささげるであろう世界です。

 

祈りが終わったとき

彼が手にしていた松明が落ち

大火がごうわうと燃えあがります

 

燃え盛る火に

黄金は熔け

大理石ははじけ

絹はぼろ屑となる……

 

堕天使(悪魔)たちの歌う美しいコーラスが

猛火の中から聞こえています。

 

 

第17連、

炎が天をなめるのを見つめながら

つぶやかれる彼の祈りの言葉は

湧きあがる歓声に吸われていきました

 

第18連、

そのとき雷鳴がとどろき

歓喜の歌声も途絶えます。

 

何ひとつ残ったものはなかった

 

すべては

一場の夢にすぎなかったのか

 

 

やがて――。

 

無数の星がきらめく

さ青の夜。

浄福の野が広がっています

 

冷たい流れ幾すじか

廃墟に残った石床を流れている

 

梟(ふくろう)たちが

空(くう)を横ぎり

ときどき流れからはねあがる波が

キラリと光る静寂

 

 

はるか彼方の丘々から

愛のような、なにか、形に定まらない形

やわらかなものの形があらわれ

雨水の流れから霧がたちのぼり

それは人の営みをおもわせる

 

最終連は意訳しないで

橋本一明の翻訳をそのまま読みましょう。

 

 

これらすべては 心のように 魂のように

また 言葉のように ういういしい愛にあふれて

崇め 陶然と身を開き もとめむかえる

ぼくらを悪よりまもりたまう 寛大仁慈なる神を

 

 

この詩の全文は

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その10

にあります。

 

ベルレーヌのランボーへ向ける眼差しが

冷酷ではないことが

橋本一明の翻訳に読み取れるでしょうか。

 

ベルレーヌがこの詩で

キリストの愛の勝利を歌ったにしても

ランボーを貶めているものでないことは

歴然としています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年12月19日 (水)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その12

 

 

 

「Crimen Amoris」(愛の犯罪)は

橋本一明によると

ランボーの姿を歌ったものである、というのですが

ベルレーヌがこの詩を書いたときに

ランボーをどのように見ていたかを知る

格好の資料ということにもなり

非常に関心を引かれる詩の一つになります。

 

橋本一明は

このことをどのように捉えていたのでしょうか

――という問いと同時に

ここに橋本一明の答えがすでにあることに

気づかねばならないでしょう。

 

橋本一明は

このこと(=ベルレーヌがランボーを歌ったこと)について

多くの記述を残していません。

 

しかし多くを記述していないことは

「Crimen Amoris」という詩を

ないがしろにしたということではありませんし

その逆であったことを否定しません。

 

ベルレーヌが「Crimen Amoris」を書いたそのことに

橋本一明は重大な意味を見い出したから

この「ヴェルレーヌ詩集」の最終詩に配置したという意図を

読み取ることができるでしょう。

 

 

角川文庫「ヴェルレーヌ詩集」のあとがきが

このことを明らかにしているとは言えませんが

このあたりのことを述べようとして

述べなかった理由でありそうです。

 

あとがきの冒頭だけを

ここに引いておきましょう。

 

 

 ここに収めた訳詩はヴェルレーヌの処女詩集から第6詩集までの抜粋である。根拠があっ

て第6詩集までに限定したわけではない。拾って行ったら、自然にこうなった。第7詩集以

降の詩も、ぼくは一般的評価ほどひどいとは思わないが、別の理由でこの訳詩集からは

けずった。

 

訳詩の一篇一篇について言えば、ほんとうはもっと詩篇を限定したかったのだが、もう一

方で詩集を再構成したいという気持も強く働いた。

 

(改行を加えました。編者。)

 

 

文章のはじまりに

言うべき重要なことをテキパキと語る橋本一明の口調がここにもあり

言葉が立っている例の爽快さに触れるのですが

ここで述べられているのは

未完成を反省する弁ではなく

詩集を再構成したいという気持があったことで

それをいずれ果たそうという希望であるように読めます。

 

「ヴェルレーヌ詩集」も

橋本一明のこの時点での再構成の意図に

貫かれていることはいうまでもないのですが

その意図の一つが

最終詩「Crimen Amoris」の配置でしょう。

 

 

ここまで考えてくると(想像をたくましくすると)

「Crimen Amoris」は

もっとじっくり読まなければならない詩であることになってきます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2018年12月15日 (土)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その11

 

 

「神さまが言った……」を読み

「Crimen Amoris」を読んだのは

偶然だったのですが

ベルレーヌの詩の足どりは

この二つの詩を読み比べるだけでも

ベルレーヌの骨格の一部を知ることができるような

重要な要素があるような気がしてきました。

 

 

「Crimen Amoris」は

ベルレーヌが1884年に刊行した詩集「昔とちかごろ」にあり

橋本一明はこの詩集から「ヴェルレーヌ詩集」のために

「万華鏡」、「詩法」とともに3作品を翻訳しています。

 

詩集題名の通り

過去と現在の作品を集めた詩集ですから

「Crimen Amoris」がいつ制作されたかわかりませんが

3作中でも末尾に置かれてあることから

刊行年に近い制作であると見ることが可能でしょうか。

 

橋本一明はこの年、1884年の年譜に

40歳。母からクーロームの土地を贈与される。醜聞にみちた浪費生活。

――とだけ記しています。

 

 

橋本一明訳編の「ヴェルレーヌ詩集」は

全詩集ではなくアンソロジーですから

ベルレーヌの全詩篇が収録されているものではありません。

 

「Crimen Amoris」を

このアンソロジーの最終詩としたのには

ベルレーヌではなく

訳編者の橋本一明のなんらかの意図があるはずなのですが

それがどのようなものかは記されていません。

 

そう思いながら詩集の結末まで読んでみると

終り方がどことなくあっけないような気がしてきます。

 

それは何故でしょうか。

 

この理由と

橋本一明の死とは関係するのでしょうか。

 

 

橋本一明が肺癌に斃れ急逝したのは1969年でした。

 

それからおよそ半世紀

生前の橋本一明を知る女性詩人により

「『二十歳のエチュード』の光と影のもとに」という書物が書かれました。

 

この「『二十歳のエチュード』の光と影のもとに」(2014年、洪水企画発行)にある年譜は

橋本一明の足跡を丹念に追っています。

 

その年譜の橋本一明死後の記述には

 

この年、渡辺一民との共編になる『シモーヌ・ヴェーユ著作集』全5巻が春秋社より刊行さ

れる。また講談社から『ヴェルレーヌ詩集』(執筆途中で倒れたため、その意をついで渡辺

一民、菅野昭正、滝田文彦、二宮敬ら友人が補い完成した)が刊行された。

――とあるのに遭遇し

講談社版の「ヴェルレーヌ詩集」というものがあることを知ります。

 

その内容はどんなものか

角川文庫の「ヴェルレーヌ詩集」は1966年発行ですから

それよりも深められたであろう研究(読み)の成果はどのようであるか

どのような違いがあるのか

最終詩を「Crimen Amoris」とする構成なのか、そうではないのかなどと

関心は深まるばかりですが

今それをひもとく材料がありません。

 

そのうち読んでみることにしたいと思います。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年12月 7日 (金)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その10

 

 

「神さまが言った……」を読み終えて

もう一つの詩を読みたくなりました。

 

橋本一明訳編の「ヴェルレーヌ詩集」に

最終詩として配置された

「愛の犯罪」を意味する「Crimen Amoris」という詩です。

 

ランボーを歌った詩です。

 

少し長い詩ですが

一気に読んでみます。

 

 

Crimen Amoris

         ヴィリエ・ド・リラダンに

 

絹と黄金にうずまった エクバターヌの宮殿で

美しい悪魔たち 若やぐ堕天使(だてんし)のむれが

回教の楽の音につれ 惜しげなく

彼らの五感を《七大罪》にささげている

 

《七大罪》を祭るうたげだ おお なんと美しい!

《欲望》たちがうちそろい あらあらしい光にかがやいていた

《食欲》たちは 敏捷でさんざんに使いまわされる御小姓

水晶のグラスについで バラいろの酒をまわしていた

 

ダンスは新床に寄せる祝歌(ほぎうた)のリズムにのって

あまくしずかに声ながく忍び泣く音にとろけて行った

男声女声の美しいコーラスが 波のように

うねり ひろがり ぴくひくとおののいていた

 

そしてこれらからたちのぼるやさしさに

力強い 魅惑的なやさしさに

周囲の野原はバラの花々を咲かせていた

夜は透明なダイヤのかがやきにあふれていた

 

さて これら悪しき天使らのうち いちばん美しい者

十六歳 花冠(はなかんむり)をいただいて 首飾り総飾りきらめく胸に

むんずと腕を組み 彼は夢みる

ひとみに炎をあふれさせ ひとみに涙をあふれさせ

 

まわりの酒盛りが乱痴気の度をくわえて行ってもむだだった

兄であり妹である堕天使たちが 彼の心を

しずませている心づかいをはらそうと

やさしく腕さしのべて勇気づけてもむなしかった

 

彼はどんなあまやかしもしりぞけていた

金器銀器にてりはえる彼のひたいに くるしみが

憂愁の黒い胡蝶をとまらせていた

おお おそるべき不滅の絶望!

 

彼は言った 《おれをしずかにしておいてくれ!》

それから一同にやさしくくちづけ

引きとめる手に衣の裾を残したのみで

身ごなし軽く 彼らのもとを逃れ去った

 

ああ 君ら 高殿の天空にそびえる塔のうえに

こぶしに松明をかざす彼の姿が見えるだろうか?

古代の英雄が小手(こて)にふるように 彼が松明をかざせば

下界のひとびとは思うのだ いまあけぼのは明けそめる と

 

その深くやさしい声の語るところはなんだろう?

天空をかっ裂く雷鳴にまぐわい

月を恍惚の世界にさそう 彼の声

《おお おれは神の創造者になろう!

 

天使たち 人間たちよ 善と悪とのたたかいに

おれたちはもうみんなくるしみすぎた

みじめなおれたちよ 世にも素朴な祈念のなかに

おれたちの飛躍する心の動きをおさえつけ はずかしめよう

 

おお 君ら おれたち おお いたましい罪人たち

おお 陽気な聖者たち なぜこうかたくなに意見がわかれる?

腕のいい芸術家なのに なぜおれたちはつくらなかった

おれたちの労苦をあつめ ただひとつのおなじ美徳を!

 

あまりに変化のなさすぎる こんな争いはもうたくさんだ!

おお ついに《七大罪》は《対神三徳》に合致する

そうならねばならぬことにしてやる

つらい みにくい こんな争いはもうたくさんだ!

 

イエスよ この決闘の均衡をたもって

うまくやったと考えた きさまにたいする返答として

いま おれにより 地上をかくれ家とする地獄が

普遍の《愛》に身をささげるのだ!》

 

ひろげた彼のひらから松明が落ち

かくして大火はごうわうと燃えあがった

煙と風のまっ黒な渦におぼれた

真紅の荒鷲の巨大な争いさながらだった

 

黄金はとけ流れ 大理石(なめいし)ははじけとび

おお かがやき灼熱する まっ赤な炭火

絹は短いぼろ屑となり 綿のように

灼熱しかがやき ちぎれてとんだ

 

堕天使たちは炎のなかで歌っていた

理解しあきらめていたのであった

男声女声の美しいコーラスが

荒れ狂う炎のはやてのなかにきこえていた

 

彼はたけだけしく腕を組んでいた

炎の舌のなめずる天にひとみをすえて 低く

ちいさくつぶやいていた 祈りにも似たその言葉は

歓喜にわきあがる歌声に 息たえだえと吸われていった

 

彼は小声につぶやいていた 祈りにも似た言葉を

炎の舌のなめずる天にひとみをすえて……

そのときだ おそろしい雷鳴はとどろきわたり

それが歓喜と歌声のおわりであった

 

いけにえをささげても 受け入れてはもらえなかった

たしかに強く正しい男だ そんなだれかが

うそと承知の倨傲(きょごう)にあふれ

人間の悪意や奸策を 苦もなく判じわけたのだった

 

千百の塔をめぐらした宮殿はなごりもとどめず

この未聞の天災に何ひとつ残ったものはなかった

げにこれも 世におそるべき奇蹟によって

消え失せた一場のむなしい夢にすぎなかったか……

 

そしていま いまは夜 千の星々をちりばめた さあおの夜だ

福音の書にえがかれた浄福の野が やさしく

きびしくひろがっている 顔ぎぬのようにかすんで

木々の枝は 羽ばたくつばさにさも似ている

 

いくすじか 冷たい流れが石床を流れる

やさしい梟(ふくろう)たちが 影もおぼろに空(くう)を泳いで

神秘と祈りを香ぐわせている

ときに はねあがる 波ひとつ きらりと光る

 

はるかの方 丘々から まだしかと形の定まらぬ

愛のように やわらかなものの形があらわれる

雨水の流れからたちのぼる霧は流れて

何かの目的に結ばれる人の努力を思わせる

 

これらすべては 心のように 魂のように

また 言葉のように ういういしい愛にあふれて

崇め 陶然と身を開き もとめむかえる

ぼくらを悪よりまもりたまう 寛大仁慈なる神を 

 

(角川書店「世界の詩集8・ヴェルレーヌ詩集」より。ルビは一部省略しました。編者。)

 

 

橋本一明が

この詩をこの詩集の最終詩として配置した意図は

どこにあったかについては何も記されていません。

 

巻末の注釈に

第1詩節《エクバターヌ》は古代メディアの首都。現在のペルシアのハマダンのこと。異教

徒の都というほどの意味だろう。

 

第23詩節の《冷たい流れ》は、都を廃墟と化した雷雨のなごりの水が石床を流れているの

であろう。

 

――とあるだけです。

 

 

献呈している相手のヴィリエ・ド・リラダンは

当時の青年詩人たちから

デカダンとして熱烈な支持を得ていた象徴詩派の一人で

ベルレーヌとはシャルル・クロスらとともに親交がありました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2018年12月 4日 (火)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その9

 

 

 

 

ああ 主よ 私に何がありましょう? ああ 私は

異常な喜びの涙にくれてここにおります あなたの声は

幸福であり不幸であるようなものを一時に私にくださるのです

そして不幸も幸福もすべてがおなじ魅力をもっているのです

 

私は笑います 私は泣きます そしてこれは戦場に

武器をとれよと鳴りひびくラッパの呼び声に似ています

戦場には大楯(おおだて)に乗った青や白やの天使らの姿が見え

このラッパは誇らかな警告のうちに私をつれ去るのです

 

私はえらばれていることの恍惚と恐怖を感じます

私は値せぬものです しかしなたの寛大さを知っております

ああ なんという努力 ああ なんという熱意! そしていま

 

つつましい祈りにあふれております はてしない心の迷いが

あなたの声の啓示したあの希望をみだしてはおりますけれど

私はおののいてこがれております……

 

 

              ――あわれな魂よ それでよいのだ!

 

(角川書店「世界の詩集8・ヴェルレーヌ詩集」より。ルビはほとんどを省略しました。編者。)

 

 

ここに太宰治の小説「晩年」の

冒頭作品「葉」に使われて有名になった詩行の

原作が出てきました。

 

私はえらばれていることの恍惚と恐怖を感じます

――という部分を

太宰は恍惚と不安としているのは

堀口大学訳から取ったからでしょう。

 

ここは

幸福であり不幸であるようなものを一時に私にくださるのです

そして不幸も幸福もすべてがおなじ魅力をもっているのです

――とある前行などの意味を受けていることを知れば

本来の意図に近づくことでしょう。

 

 

最終節は

それでよいのだ、という

神の言葉1行で終わりますが

この最終行が字下がりになっているのは

イエスが地上にあることを暗示しているでしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年12月 3日 (月)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その8

 

 

橋本一明のベルレーヌ訳は

どれもこれもが平明でやさしく

その中にはげしくさえある日本語を選び

それを現代口語にしているところにあるでしょう。

 

おお あなたを愛することはできません

――と「四」の第2行でイエスに応じた下りは

 

おゝ、否、われ戦きてなす能わず。御身を愛する能わず。

――としたのは河上徹太郎の訳

 

おお、否よ! われわななき、われ敢えてなし得ず、おお、われ「御身」を敢えて愛し得ず、

――としたのは堀口大学の訳です。

 

橋本一明の翻訳には

文語の一つもなく

文語調さえありません。

 

 

 

たしかだ わが子よ それに値したいとのぞむなら

たしかにできる ほら ここにある 花咲いた百合にむかって

飛んで行く雀蜂のように 私の教会の開かれた腕にむかって

おまえの心の定まらぬ無知を進ませよ

 

私の耳にちかづき 勇敢に 率直に

辱めの言葉をそそぎこめ

倨傲のまたつくろいの一言もなく すべてを語り

えらばれた悔悟の花束を私にささげよ

 

そして虚心に素朴に私の食卓に寄れ

私はおいしい聖餐(せいさん)でおまえをことほぐだろう

そこには天使もただ侍(はべ)るだけだろう

 

おまえは不変の葡萄の葡萄酒を飲むだろう

その力 その甘さ その善さにより

おまえの血は不死の世界に芽ばえるだろう

 

 

さて、私がおまえの肉となり理性となる

この愛の秘蹟(ひせき)のうちに つつましい信仰をまもり

とりわけ ときしげく私の家にもどりきて

渇きをいやす《葡萄酒》にあずかり

 

それなくては人生も裏切りとなる《パン》にあずかり

わが父に祈り わが母にこいねがえ

追われてこの地上にある日 叫びもたてずに

羊毛をあたえる小羊であることがゆるされますよう

 

麻布(あさぬの)と無邪気さをまとう子供であることがゆるされますよう

おまえのあわれな自己愛と本質を忘れることがゆるされますよう

そしてさいごに わずかとも私に似ることがゆるされますよう

 

ヘロデやピラトやペトロのあの日々のあいだ

くるしんで極悪の死を死ぬために

おまえとおなじであった私に似ることがゆるされますよう!

 

 

えも言えぬよろこびであるほどに甘美な

これらの義務におまえの示した熱誠にむくいるために

私は地上でおまえに味わわせよう 私の初物(はつもの)

心の平和を 貧しくあることへの愛を そしてまた

 

精神がおだやかな希望にむかって開き

私の約束にしたがって聖杯をくむと信じているとき

敬虔(けいけん)な空に月のすべりゆくとき

バラ色のまたお黒いアンジェルスの鐘のなりわたるとき

 

私の光のなかへの昇天をまち

私の日ごろの慈愛へのかぎりないめざめをまち

永遠の私の賞讃の音楽をまち

 

不断の恍惚を 知恵をまち また かつて私が愛し

ついに私のものとなったおまえの苦悩の愛すべき光芒につつまれ

私のうちにあることをまち 神秘な夕暮れを味わわせよう!

 

(角川書店「世界の詩集8・ヴェルレーヌ詩集」より。ルビはほとんどを省略しました。編者。)

 

 

第7節は

第6節で私(=詩人)が投げかけた問いへの

イエス(=神)の答えです。

 

これをソネット3篇で構成したのには

ベルレーヌのどのような意図があったでしょうか。

 

ここには

愛の行いの実際が

イエスの言葉として語られています。

 

 

平明であるからといって

対象は神のことばなのですから

厳格であり優しいものであらねばなりませんが

そのこところを訳そうとしているのを

素人なりに感じることができるでしょうか。

 

こうして詩は

結末部へいたります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2018年12月 1日 (土)

中原中也・詩の宝島/ベルレーヌの足跡(あしあと)/補足2・橋本一明の読み・その7

 

 

橋本一明は

この詩が収められた詩集「かしこさ」を

ヴェルレーヌ作品の頂上と評価し

ヴェルレーヌの全生涯を通じて

これほどの均衡を見せる詩集はないと絶賛するなかで

次のように記しています。

 

 

収録の詩は73年のブリュッセルの銃撃事件により投獄された頃から1880年までの作

品だが、大部分は75年以降出獄後の作品でしめられている。詩人は獄中で改宗し、熱

烈な信仰をえたが、この期間はその信仰ゆえに彼の生涯でもっとも心の平穏さを保ちえ

た歳月だった。

 

 

このように前置きして

この時期のベルレーヌの生活についての

エピソードを紹介します。

 

 

彼は聖トマス・アクィナスに没頭し、聖テレジアの著作を買いこみ、その他の教理に読み

耽ったという。こういう生活が彼にダンテの『神曲』のような作品を構想させるのはむしろ当

然で、彼は《アダムとイヴ以来現代までを包含する》ヴィクトル・ユゴーの『諸世紀の伝説』

のような作品を書こうと考えた。しかし、これは結局実現されず、作られたものは知的生活

の隙をこぼれた抒情詩集だった。

 

(角川書店「世界の詩集8・ヴェルレーヌ詩集」より。)

 

 

ベルレーヌの詩の橋本一明訳「神さまが私に言った……」を

読み進めましょう。

 

 

 

――私を愛さなければならない 私はおまえに《狂ったものたち》と

呼ばれたもの 私こそその古い男を食う新しいアダム

おまえのローマ おまえのパリ おまえのスパルタ おまえのソドム

おそろしい罪の料理にかこまれて石をもて打たれる貧しいもの

 

私の愛は 心ないすべての肉を永劫に焼きつくし

たちのぼる香気のように散らし消す火

これこそは かつて私のまいた悪の芽を

すべて波間にのみつくす 洪水

 

いつの日か 私の死ぬ十字架の立てられるため

そしてまた 善心のおそろしい奇蹟によって

いつの日か わななき従順なおまえを私のものとするため

 

愛せ おまえの夜を出よ 愛せ 見捨てられたあわれな魂

これこそ永遠の私の思いだ 愛さねばならぬ

私をのみ この地にとどまった私をのみ!

 

 

主よ おそろしい 魂は私のなかでおののいています

わかります あなたを愛さねばならぬと感じています だが

どうやってそれをするのでしょうか? おお 神さま

善良なものたちの徳が恐れる正義よ 私が あなたの恋人が

 

そう どうやってするのでしょうか? なぜなら いま

私の心が埋葬のため掘っていた天蓋(てんがい)がくずれて行くのです

私にむかって天空がみなぎり寄せるのを感じるのです

申し上げます あなたから私まで 道はどんなでありましょう?

 

手をおのべください 私がこのうずくまる肉を

この病める精神をたたせることができますように!

いつか天の抱擁を受けることがいったい可能でありましょうか

 

いったい可能でありましょうか? いつかあなたの胸にいだかれ

かつて私たちのものであったあなたの心にもたれて

かの使徒が頭を休めたあの場所をもういちど見つけることが

 

 

「六」の最終詩句にも

橋本一明は注を加えています。

 

 

《かの使徒が頭を休めたあの場所》とは使徒ヨハネが頭を休めたところ、つまり主の御胸。

 

 

使徒たちの営みについては

聖書や教会や普段の暮らしのなかで親しく息づいていることが

容易に想像されますが

ベルレーヌはこの頃

書物を通じてイエスや使徒たちの活動を

読み漁ったのでしょう。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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