テオ・アンゲロプロス「永遠と一日」鑑賞記
イングマール・ベルイマンの「野いちご」と双璧をなすと言って過言ではない、「身近に迫った死」をテーマにした作品と言えるだろう。
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永遠と一日
1998
ギリシア・フランス・イタリア
テオ・アンゲロプロス脚本・監督、ヨルゴス・アルヴァニティス撮影、ヨルゴス・バッツァス、エレニ・カラインドルー音楽。
ブルーノ・ガンツ、イザベル・ルノー、アキレアス・スケヴィス
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「明日の時の長さは(どれくらいある)?」と尋ねられたら、なんと答えようか。あるいは、自問したとき、どんな答が見つかるだろうか。テオ・アンゲロプロス監督「永遠と一日」は、重い病にかかり、「最期の1日」を意識した詩人の「人生最後の日」を描いた作品。イングマール・ベルイマンの「野いちご」と双璧をなすと言って過言ではない、「身近に迫った死」をテーマにした作品と言える。
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「長い旅」に出ようとする詩人が、人身売買組織に拉致されたアルバニア難民の子と「偶然に」出会い、そして、別れるまでの1日を「実時間」として、亡き母、亡き妻、友人らとの光あふれる過去、19世紀初頭ギリシアの国民詩人ソロモスの登場など、過去、現在の境目を飛び越えた「幻想的時間」を交差させつつ、カメラは詩人の意識の赴くままを追う。
ベルイマンの「死」は、政治ということとひとかけらも無関係であるのに比べ、アンゲロプロスの「死」は、政治との関係の中でしかとらえられていない。この点が決定的に異なるが、どちらの作品も、「身の毛のよだつ」ようなリアルさを、その幻想的シーンのなかにとらえる。
歳を経るに連れて、誰しもが、このリアルさを感じるようになり、次第には、息苦しさを覚えるほどに生々しい衝撃を受けることになる。
(2001.7.8鑑賞&記)
雪の降り積もる山肌が遠くまで広がっている国境地帯。霧がかかる風景の中に、鉄条網の柵が見え、宙吊りになった死体が、何体も何体も、映し出される。
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アルバニア難民の少年が、アレクサンドレに語って聞かせた「国境越え」の様子を拾っておこう。
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銃を持ったやつらがきた。一晩中撃った。家の中にも入ってきた。赤ん坊が泣いた。村は空になった。
道はこの上。前にセリムと通った。大人がつけた道しるべがある。木に結わえたビニール袋。知らないと雪で迷子になる。袋から袋をたどって、木のない広いところに出た。
僕が歩き出そうとしたら、「動くな!」とセリムが怒鳴った。「地雷ふがあるんだ!バカ!しゃがめ!」
しゃがんだ。セリムは石を拾う。石を投げてすぐにしゃがむ。何も起こらない。僕たちは石のところまで進む。彼は僕をしゃがませて、また石を拾って、また石を投げる。
怖かった。寒かった。
石を投げ続けて、前に進んで行った。そして向こう側に出た。遠くに光が見えた。
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アレクサンドレは、少年を故郷(くに)へ帰還させるために、テッサロニキから2時間かけて、アルバニア国境へきたのである。雪の降り積もる山肌が遠くまで広がっている国境地帯。霧がかかる風景の中に、鉄条網の柵が見え、宙吊りになった死体が、何体も何体も、映し出される。監視塔に立つ人影と旗(国旗らしいが、どこの国のものかは不明である)だけが、かすかに揺れ動いている。少年たちが、突破してきたのは、ここに連なる「脱出の道」である。
アレクサンドレは、少年を帰還させることの意味を、この時、はじめて悟るのである。監視塔から降り立った兵士に呼び止められたとき、アレクサンドレは、咄嗟(とっさ)に少年の手を取り、一目散に逃げ去るのである。こうして、少年と詩人との1日が、「その真実の巡り合い」がはじまる。
(2002.3.31発)
アレクサンドレは、明日、入院すれば、再び「この世界」に戻れる日がないことを知っている。
アレクサンドレは、明日、入院すれば、再び「この世界」に戻れる日がないことを知っている。この世界を謳歌できるのは、今日1日限りなのだ。「明日の時間の長さはどれくらいあるだろうか?」という問いが、いつも想念に渦巻いているのはそのためである。
愛犬の面倒をみるものがいなくなるので、はじめに娘カテリーナの家を訪ねるのだが、娘婿(むすめむこ)のニコは動物嫌いで、あっさりと断られてしまう。アレクサンドレには、愛犬の面倒のほかにもう一つ大切な頼みをカテリーナにしなければならなかった。妻アンナからの手紙を読んでもらい、考えを聞き出すことだ。手紙の1966年9月20日の日付は、カテリーナの誕生日である。妻アンナは、すでに40年ほど前になるこの日、夫アレクサンドレに手紙を書いた。その手紙は、「夫の不在」を嘆く妻の声に満ちていた。
家族・親族が一堂に会して、生命の誕生を祝った海岸沿いの瀟洒(しょうしゃ)な家は、現在ニコの管理下にあり、最近、手放すことになっていた。地震(アテネを襲った大地震のことであろう)で傷みが激しくなり、住むに耐えなくなったと、カテリーナは弁解するが、アレクサンドレはショックを隠し切れない。余命幾許(いくばく)もないアレクサンドレにとって、この世界=現世の些事(さじ)に過ぎない「家」のことだが、それでも、売り払われ、無縁のものと化してしまうことは、悲しいことに違いなかった。
アレクサンドレの脳裡(のうり)には、妻アンナの手紙の声が飛び交ったままである。「いつになったら二人になれるの?」。
ギリシア北部の町テッサロニキに住む作家アレクサンドレは、愛犬を愛車にのせたままで、生まれ育ったテッサロニキの街中に出る。娘カテリ-ナの充足した暮らしを見て、妻アンナからの手紙の感想を聞き出す心は失せてしまった。所在なく街中を運転するアレクサンドレは、こうして、アルバニア難民の少年と出会う。
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映画は、この、アルバニアの少年との1日を現在進行中の「実時間」として、アンナの手紙が書かれた1966年の海岸のシーンなどをアレクサンドレの「幻想的時間」(過去の回想やイメージの飛来)として、自在に往来する手法を駆使して進んでいく。「実時間」のほうは、アレクサンドレと少年が出会い、そして、1日を過ごし、最後に少年が護送車に乗り込み故国アルバニアへ去って行くシーンと、それを見届けるアレクサンドレの「死相」に満ちたアップまでを追う。
この実時間の最中(さなか)に、アレクサンドレの脳裡を去来(きょらい)する海岸での1日やギリシアの国民詩人ソロモスが登場するシーンなどが挿まれる。アレクサンドレは、この「幻想時間」に、実時間のアレクサンドレと同じ姿形・服装で登場する。
未完(2002.3.31発)
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家族(妻)との時間をほとんど持たずに生きてきた作家が、その犠牲の上でしてきた「社会的営為」の意味が問われていることが空しくもあるからである。
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「永遠と一日」(テオ・アンゲロプロス監督)の「流れ」を「おさらい」しておこう。これで、3度見たことになる。3度見たということは、この映画の「作品現実」に3度分け入り、その「現実」を3度追体験したということである。約2時間、作品の中に溶け込みながら、それを「見ている自分」があり、その自分は作品の意図を知ろうとしている自分でもあるが、今、その「溶け込んだ」時間からは離れている自分である。
この体験は、作品体験というものであり、いわゆる「ヴァーチャル・リアリティー」を体験したものではない。アンゲロプロス作品ともなれば、よりリアルな体験として、思惟の中枢にかぶさってくるからである。そのかぶさり具合は、作品に溶け込めば溶け込むほど重たくなり、重たくなれば重たくなるほど、解釈の深度を要請する。
ギリシアの高名な詩人・作家のアレクサンドレ(ブルーノ・ガンツ)は不治の病にかかり、明日、入院することになっているが、「死」を強く意識するのと同じ程度に、過ぎ去りし日の妻アンナとの暮らしに悔いを抱いている。「いつになったら二人になれるの?」という妻からの手紙の言葉が、作家である彼を苦しめるからである。「抱きしめ方が足りなかった」という思いや、家族(妻)との時間をほとんど持たずに生きてきた作家が、その犠牲の上でしてきた「社会的営為」の意味が問われていることが空しくもあるからである。
薬を胸ポケットにしまって、アレクサンドレは、テッサロニキの街に出る。
*未完(2002.3.30発)
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