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2019年4月 1日 (月)

テオ・アンゲロプロス「ユリシーズの瞳」鑑賞記

銃撃音が聞こえたのは、その直後のことだった。老人家族のすべてが、殺される。

ユリシーズの瞳
1995
フランス・イタリア・ギリシア

35年間、留守にした祖国の街アテネから、映画監督の旅ははじまる。今世紀初頭から約60年を要して、マナキス兄弟が撮った写真や映画のうち、未現像の「動く写真」3巻を求めての旅である。アテネ市映画博物館から依頼された仕事であるが、「映画の眼(Gaze)」を取り戻そうとする個人的な希求心・衝動からでもある。マナキス兄弟は、バルカンおよびギリシアで最初の映画を撮った人物だ。

ハーヴェイ・カイテル扮する監督は、アンゲロプロスその人と見て差し支えないであろう。アテネの街は、監督が制作した映画の公開を巡り、市を2分する騒ぎが起こっている。

長い亡命生活の末、帰還した高名な映画監督は、長い遠征から故郷イタカに帰ったオデュッセウス(ユリシーズ)に擬せられており、監督もまたオデュッセウスさながら旅の人である。その旅に、終わりはない。

眼差し(映画では、「眼」(まなざし)と作家・池澤夏樹が翻訳している)の復権・奪回が、この映画のテーマであり、映画監督アンゲロプロスのテーマでもある。映画の眼差しの奪回を、マナキス兄弟の未現像フィルムを求める旅で果たそうとするのである。

ゆったりとした時間が流れていく。とうとうとして、悠大で、静かな時間が、映画の画面を流れていく。しかし、その時間はバルカンの歴史を内包し、戦争の悲劇に彩られる。マナキス兄弟が写し取ったような「バルカンのすべて」であるように、悠大さと矛盾に満ちる。風景、結婚式、習慣、政治の変化、村祭り、革命、闘い、公式行事、サルタン、王、首相(モナステイル博物館の女性の言葉)……をマナキス兄弟が撮ったように、「すべての曖昧さ、すべての矛盾や衝突や混沌」を、切り取ろうとする。

アテネでの狂信派のデモ、アルバニア国境では内戦以来47年間会っていない妹を訪れるという老婦人、雪原を行く難民の群れ……にはじまる、3巻のフィルムを求めての旅。コリツア、モナステイル、スコピエ、ソフィア、ブカレスト、ベオグラード、そして、1994年12月のサラエボへ。

ドナウを、巨大なレーニン像を乗せた船が行く。モナステイルの女性と交わした短い愛の時間を振り切った監督が、その船に潜んでいる。川べりに群がる人々が、豆のように小さな黒点の集まりだ。よく見ると、なにやら胸のあたりで手を動かしている。十字を切っている人々がいるのである。ドナウの静かな流れ。美しい風景は人々の心の中にある、とでもいいたげなシーンが続くが、あくまで美しいのは風景そのものだ。レーニン像の「白」が、悠揚としたドナウの流れに溶け込む。

ベオグラードでは、かつての僚友であるジャーナリストと再会。2人は、失われた希望に、逝ってしまった仲間に、68年5月に……乾杯するが、それらは「過去」のことではない。深い悲しみが乾杯の底にある。監督は、3巻のフィルムが戦火の只中のサラエボへあることを知り、エブロス川を行く。

同僚ジャーナリストの手配で、監督を案内するのはサバ村の女性であり、扮するマヤ・モルゲンステルンは、アテネのデモの中に消えたかつての恋人、モナステイルの博物館職員である女性、このサバの女性、サラエボで映画保存に骨身を削る老人の娘ナオミの4役をこなしている。これら4人の女性は、監督がその都度出会う「永遠の妻・ペネロペイア」であるかのようである。

空襲警報が発令されるサラエボに、3巻の未現像フィルムはあった! 表向き廃墟と見えるこの街には、地下でマーケットが開かれ、買出しや水を汲みにポリタンクをもった人々が集う賑わいが失われていない。中に、映画技術者の老人(エルランド・ヨセフソン)がおり、彼は、スコピエ映画博物館の収蔵品を熱心に保護しているのだった。長い旅の疲れに、求めていたフィルムが見つかった興奮が重なり、監督は言う。「フィルムを闇の中に閉じ込めておく権利はあなたにはない」。監督を理解した老人は、現像に着手し、成功したはじめの部分を見せ、2人は感激して抱擁する。

霧に包まれたサラエボの街。霧の中では、セルビア、クロアチア、回教徒の別なく構成された「民族混声交響楽団」の演奏会が行われている。映画技術者である老人が言う。「霧は人間の友なのだ」。老人の娘が、「踊りましょう」と監督を誘い、監督は応じる。3巻の未現像フィルムに巡り会えた監督は、そのこと以上に「この協和」に心撃たれる。「眼」を奪還した思いに至る。娘ナオミと踊り、結婚を誓った監督だが、「眼」を公開するために、いったんサラエボを去らねばならない。

銃撃音が聞こえたのは、その直後のことだった。老人家族のすべてが、殺される。下手人は明らかだが、映像はそれを追おうとしない。「神様も間違いなされる」という軍人の声と、銃撃音と悲鳴、川に死体が放り込まれる音、そしてジープの発進音だけが聞こえる。人々の友のはずの霧の風景が、画面いっぱいに広がるだけである。

順を追うのに精一杯になってしまった。結末のシーンは2度見るのが辛い。記さねばならないことは、手に負えないほどあるが、それはもう「書き言葉」の世界を超えるものを持っている。映画を見る上はないのである。

映画作品には、映画ならではの手法・文法が採用されていて、映画とは何か自体を問いかけることがよくある。作家主義的な流れは、絶えずその問いに満ちているが、この作品もそうである。この作品はその答を、映画監督を「主人公」にして、その「眼」(まなざし)自体の回復・奪還というテーマとして、前面に据えた。

映画の中の監督は、しばしば、マナキス兄弟に同化し、化身となるシーンがあるが、これも映画の手法のひとつである。現在と過去を自在に行き来し、交叉させることも、映画では簡単である。この技術は、しかし、失敗すると幻滅だ。観客の想像力を台無しにしてしまう。回想シーンや夢が、現在や現実と融合して、その境目が明瞭でない場合にも、同じことが言える。その点、「ユリシ-ズの瞳」は、完全に近い「編集」に成功している。ギリシア劇の伝統的手法を取り入れた「踊り」や「群衆の動き」などのシーンも、アンゲロプロス独特の不思議なテーストがあり、映像の振幅を深くしている。

この作品で、何よりも深いのは「悲しみ」である。

(2000.11.18鑑賞、11.19記)

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