テオ・アンゲロプロス「シテール島への船出」鑑賞記
頑固一徹で時代遅れとばかり思えていた老人が艫綱を解く段になって、観客はようやくその心根に触れ、深い共感を覚えている自分を見い出すことになる 。
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シテール島への船出
1984年
ギリシア
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長い旅から帰国する男がいる。求婚者を振り払い、待ちわびる妻がいる。というだけで、これはもう、オデュッセウスとペネロペイアの物語ということになるのだが、この作品ほどもろにその原典の物語と結びついている他の作品を知らない。後の作品「ユリシーズの瞳」が、「4人のペネロペイア」を登場させることになるのに比べて、本作の妻カテリーナはペネロペイアそのもののようであり、スピロはオデュッセウスそのもののようである。
映画「シテール島への船出」を撮影中の監督アレクサンドロスは、オーディションでスピロ役の俳優を選ぼうとするが、応募した多数の老人に存在感は感じられずにいるところ、ラベンダー売りの老人を見初める。
この冒頭のシーンは、映画の外の現在形だが、次の場面からは、監督であると同時に映画の主人公であるスピロ=オデュッセウスの息子の役をあわせ負う。時に監督、時にスピロとカテリーナの息子という二重性を演じる、自在な役を担って登場する。撮影中の映画「シテール島への船出」は、それを監督している人物の、映画の外の現在形と映画の内部の時間との境目がない。
映画は、32年振りに帰国した元革命戦士スピロが、故郷の村に所有する山がデベロッパーの手に売られようとしているのに抵抗し、結果、村を追われ、国外追放されるというストーリーを追う。単純明快なストーリーの中で、現代ギリシアの悲しみ、矛盾、退廃を抉(えぐ)り出していく。その眼差しは、スピロおよび妻カテリーナに置かれている、と言ってよい。カテリーナが感じている辛苦、スピロが感じている居心地の悪さが、この映画を映画の外側から見ている眼差しである。
撮影中の監督は、劇場で女優と情交し、妻ヴーラは、水夫と情交する。そんなシーンが挿まれるが、それを「見ることが可能なのは」、映画の中の映画を撮る監督(情交する監督)ではなく、アンゲロプロスその人である。その眼差しは、映画の中にいるスピロ=カテリーナへの共振にしかない。その眼差しには、現代ギリシアへの深い悲しみと深い愛情があり、静かな怒りもあり、絶望もある。
そして、希望があるとすれば、スピロがカテリーナを乗せた「はしけ」の艫綱(ともづな)を解き、海へ、シテール島へ漂いはじめるという行為そのものの中にある。その行為を仕立てたのは、アンゲロプロス監督である。その行為によって、靄(もや)のかかった海へ、2人の老人、オデュッセウスとペネロペイアは投げ出されるのであるが、「陸」にとどまっている限りは、なんともやりきれない現実があるばかりであるからである。
頑固一徹で時代遅れとばかり思えていた老人が艫綱を解く段になって、映画の観客は、ようやくその心根に触れ、深い共感を覚えている自分を見い出すことになる。
(2000.11.24鑑賞、11.27追記)
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