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2019年10月17日 (木)

中原中也/秋の詩名作コレクション25/脱毛の秋 Etudes

脱毛の秋 Etudes

それは冷たい。石のようだ
過去を抱いている。
力も入れないで
むっちり緊(しま)っている。

捨てたんだ、多分は意志を。
享受してるんだ、夜(よる)の空気を。
流れ流れていてそれでも
ただ崩れないというだけなんだ。

脆(もろ)いんだ、密度は大であるのに。
やがて黎明(あけぼの)が来る時、
それらはもはやないだろう……

それよ、人の命の聴く歌だ。
――意志とはもはや私には、
あまりに通俗な声と聞こえる。

それから、私には疑問が遺(のこ)った。
それは、蒼白いものだった。
風も吹いていたかも知れない。

老女の髪毛が顫(ふる)えていたかも知れない。
コークスをだって、強(あなが)ち莫迦(ばか)には出来ないと思った。

所詮(しょせん)、イデエとは未決定的存在であるのか。
而(しか)して未決定的存在とは、多分は
嘗(かつ)て暖かだった自明事自体ではないのか。

僕はもう冷たいので、それを運用することを知らない。
僕は一つの藍玉(あいだま)を、時には速く時には遅くと
溶かしているばかりである。

僕は僕の無色の時間の中に投入される諸現象を、
まずまあ面白がる。

無色の時間を彩るためには、
すべての事物が一様の値いを持っていた。

まず、褐色の老書記の元気のほか、
僕を嫌がらすものとてはなかった。

瀝青(チャン)色の空があった。
一と手切(ちぎ)りの煙があった。
電車の音はドレスデン製の磁器を想わせた。
私は歩いていた、私の膝は櫟材(くぬぎざい)だった。

風はショウインドーに漣(さざなみ)をたてた。
私は常習の眩暈(めまい)をした。
それは枇杷(びわ)の葉の毒に似ていた。
私は手を展(ひろ)げて、二三滴雨滴(あまつぶ)を受けた。

風は遠くの街上にあった。
女等はみな、白馬になるとみえた。
ポストは夕陽に悪寒(おかん)していた。
僕は褐色の鹿皮の、蝦蟇口(がまぐち)を一つ欲した。

直線と曲線の両観念は、はじめ混り合わさりそうであったが、
まもなく両方消えていった。

僕は一切の観念を嫌憎する。
凡(あら)ゆる文献は、僕にまで関係がなかった。

それにしてもと、また惟(おも)いもする
こんなことでいいのだろうか、こんなことでいいのだろうか?……

然(しか)し僕には、思考のすべはなかった

風と波とに送られて
ペンキの剥(は)げたこのボート
愉快に愉快に漕げや舟

僕は僕自身の表現をだって信じはしない。

とある六月の夕(ゆうべ)、
石橋の上で岩に漂う夕陽を眺め、
橋の袂(たもと)の薬屋の壁に、
松井須磨子のビラが翻(ひるがえ)るのをみた。

――思えば、彼女はよく肥っていた
綿のようだった
多分今頃冥土(めいど)では、
石版刷屋の女房になっている。――さよなら。

私は親も兄弟もしらないといった
ナポレオンの気持がよく分る

ナポレオンは泣いたのだ
泣いても泣いても泣ききれなかったから
なんでもいい泣かないことにしたんだろう

人の世の喜びを離れ、
縁台の上に筵(むしろ)を敷いて、
夕顔の花に目をくれないことと、
反射運動の断続のほか、
私に自由は見出だされなかった。


(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)
  

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