中原中也・夕(ゆうべ)の詩コレクション35/夏の夜
夏の夜
一
暗い空に鉄橋が架(か)かって、
男や女がその上を通る。
その一人々々が夫々(それぞれ)の生計(なりわい)の形をみせて、
みんな黙って頷(うなず)いて歩るく。
吊られている赤や緑の薄汚いランプは、
空いっぱいの鈍い風があたる。
それは心もなげに燈(とも)っているのだが、
燃え尽した愛情のように美くしい。
泣きかかる幼児を抱いた母親の胸は、
掻乱(かきみだ)されてはいるのだが、
「この子は自分が育てる子だ」とは知っているように、
その胸やその知っていることや、夏の夜の人通りに似て、
はるか遥かの暗い空の中、星の運行そのままなのだが、
それが私の憎しみやまた愛情にかかわるのだ……。
二
私の心は腐った薔薇(ばら)のようで、
夏の夜の靄(もや)では淋しがって啜(すすりな)く、
若い士官の母指(おやゆび)の腹や、
四十女の腓腸筋(ひちょうきん)を慕う。
それにもまして好ましいのは、
オルガンのある煉瓦(れんが)の館(やかた)。
蔦蔓(つたかづら)が黝々(くろぐろ)と匐(は)いのぼっている、
埃(ほこ)りがうっすり掛かっている。
その時広場は汐(な)ぎ亙(わた)っているし、
お濠(ほり)の水はさざ波たててる。
どんな馬鹿者だってこの時は殉教者の顔付(かおつき)をしている。
私の心はまず人間の生活のことについて燃えるのだが、
そして私自身の仕事については一生懸命練磨するのだが、
結局私は薔薇色の蜘蛛(くも)だ、夏の夕方は紫に息づいている。
(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)
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