中原中也・夜の詩コレクション56/無 題
無 題
疲れた魂と心の上に、
訪れる夜が良夜(あたらよ)であった‥‥‥
そして額のはるか彼方(かなた)に、
私を看守(みまも)る小児(しょうに)があった‥‥‥
その小児は色白く、水草の青みに揺れた、
その瞼(まぶた)は赤く、その眼(まなこ)は恐れていた。
その小児が急にナイフで自殺すれば、
美しい唐縮緬(とうちりめん)が飛び出すのであった!
しかし何事も起ることなく、
良夜の闇は潤んでいた。
私は木の葉にとまった一匹の昆虫‥‥‥
それなのに私の心は悲しみで一杯だった。
額のつるつるした小さいお婆さんがいた、
その慈愛は小川の春の小波(さざなみ)だった。
けれども時としてお婆さんは怒りを愉(たの)しむことがあった。
そのお婆さんがいま死のうとしているのであった‥‥‥
神様は遠くにいた、
良夜の空気は動かなく、神様は遠くにいた。
私はお婆さんの過ぎた日にあったことをなるべく語ろうとしているのであった、
私はお婆さんの過ぎた日にあったことを、なるべく語ろうとしているのであった‥‥‥
(いかにお婆さん、怒りを愉しむことは好ましい!)
(一九二七・八・二九)
(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)
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