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2020年7月 7日 (火)

中原中也・夜の詩コレクション95/虫の声

虫の声

 

夜が更(ふ)けて、

一つの虫の声がある。

 

それはたしかに庭で鳴いたのだが、

鳴き了(おわ)るや、それは彼処(かしこ)野原で鳴いたようにもおもわれる。

 

此処(ここ)と思い、彼処と思い、

あやしげな思いに抱かれていると、

 

此処、庭の中からにこにことして、幽霊は立ち現われる。

よくみれば、慈しみぶかい年増婦(としま)の幽霊。

 

一陣の風は窓に起り、

幽霊は去る。

 

虫が鳴くのは、中原中也・夜の詩コレクション93/夏過けて、友よ、秋とはなりました

 

夏過けて、友よ、秋とはなりました

 

友達よ、僕が何処(どこ)にいたか知っているか?

僕は島にいた、島の小さな漁村にいた。

其処(そこ)で僕は散歩をしたり、舟で酒を呑(の)んだりしていた。

又沢山の詩も読んだ、何にも煩(わずら)わされないで。

 

時に僕はひどく退屈した、君達に会いたかった。

しかし君達との長々しい会合、その終りにはだれる会合、

飲みたくない酒を飲み、話したくないことを話す辛さを思い出して

僕は僕の惰弱な心を、ともかくもなんとか制(おさ)えていた。

 

それにしてもそんな時には勉強は出来なかった、散歩も出来なかった。

僕は酒場に出掛けた、青と赤との濁った酒場で、

僕はジンを呑んで、しまいにはテーブルに俯伏(うつぶ)していた。

 

或(あ)る夜は浜辺で舟に凭(すが)って、波に閃(きら)めく月を見ていた。

遠くの方の物凄い空。舟の傍(そば)では虫が鳴いていた。

思いきりのんびり夢をみていた。浪の音がまだ耳に残っている。

 

 

暗い庭で虫が鳴いている、雨気を含んだ風が吹いている。

茲(ここ)は僕の書斎だ、僕はまた帰って来ている。

島の夜が思い出される、いったいどうしたものか夏の旅は、

死者の思い出のように心に沁(し)みる、毎年々々、

 

秋が来て、今夜のように虫の鳴く夜は、

靄(もや)に乗って、死人は、地平の方から僕の窓の下まで来て、

不憫(ふびん)にも、顔を合わすことを羞(はず)かしがっているように思えてならぬ。

それにしても、死んだ者達は、あれはいったいどうしたのだろうか?

 

過ぎし夏よ、島の夜々よ、おまえは一種の血みどろな思い出、

それなのにそれはまた、すがすがしい懐かしい思い出、

印象は深く、それなのに実際なのかと、疑ってみたくなるような思い出、

わかっているのに今更のように、ほんとだったと驚く思い出!……

 

               (一九三三・八・二一)

 

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)

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