ロドルフォにとって、その花束は盗んだものではなく、ミミのためにだけ存在する。
ラヴィ・ド・ボエーム La vie de boheme
1992年
フィンランド
監督、製作、脚本:アキ・カウリスマキ、原作:アンリ・ミュルジェール、撮影:ティモ・サルミネン、音楽:ダミア、セルジュ・レジアニ。
出演: マッティ・ペロンパー、アンドレ・ウィルム、カリ・ヴァーナネン、イヴリーヌ・ディディ、ジャン=ピエール・レオ、サミュエル・フラー、ルイ・マル。 アキ・カウリスマキ監督
アキ・カウリスマキ監督「ラヴィ・ド・ボエーム」(LAVIE DE BOHEME )は1992年の作品。ものの本によれば、監督が構想に15年をかけたのは、アンリ・ミュルジェール(HenriMurger)の原作「ボヘミアン生活の情景」が、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」によって「無残に歪(ゆが)められた」ことへの反発からだそうである。
舞台はパリ。売れない小説家、売れない画家、売れない音楽家の3人の男の自由気ままなボエミアン暮らしを、揶揄・皮肉抜きに、真正面から声援し、愛惜する眼差しが、いかにもカウリスマキらしく、けれんみのないつくりになった。
作品は、3人のボヘミアンをまんべんなく見渡しながら、画家ロドルフォと恋人ミミの物語を中心に据(す)えて展開する。アルバニア人である画家ロドルフォの天衣無縫(てんいむほう)の純真に、天涯孤独のミミはなぐさめられ、束の間の安穏(あんのん)を得るが、「愛だけでは生きていけない」といって、ロドルフォの元を去る。
いったんはロドルフォの元を去ったミミが、再び戻ってくるのには、夏が過ぎ、秋が巡り……。それ相当の時間がかかったのであるが、ロドルフォは、以前とまったく変わりのない態度でミミを受け入れ、しかし、自由気ままな画家稼業の姿勢も一向に変えない。そんなロドルフォにミミは、もう、「愛だけでは生きていけない」とは言えなかった。
ロドルフォの元に再び辿りつくまでに、ミミに何があったのか。映画は、この間のドラマを追わないが、高熱を得て、ミミは死んでしまう。ロドルフォのそばにいて暖かそうに死んでしまう。
作家マルセル、音楽家ショナールは、脇を固めている、といって言い過ぎではない。二人の男は、ロドルフォの理解者である以上に、同じボへミアンである。ロドルフォの身に起こっていることは、痛いほどよくわかるし、ミミとの関係がこの二人に起こっても同じことだといえるほどに、純真であり、気ままであり、自由である。
作品の眼差しは、徹頭徹尾、ボヘミアンの側にある。俗世間の常識の外側にある。ミミの死を看取るロドルフォの手には、他人の墓に手向けられた花束がある。ロドルフォにとって、その花束は盗んだものではなく、ミミのためにだけ存在する。ミミの死を医師から宣告されたとき、だから、ロドルフォはその花束を踏みにじるだけである。
エンディングに、突如、高英夫の歌う日本語の「雪の降る町を」が流れ、サミュエル・フラー、ルイ・マルが友情出演するなどの話題性をも楽しめる作品だが、プッチーニ歌劇の歪曲を糾した解釈の律義さを楽しめる作品でもある。
(2002.12.30)
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