カテゴリー

2024年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« フランスのフィルム・ノワール的クールさに、イギリスのアンガー・ジェネレーション的熱情をプラスし、その上に北欧独特の独立心旺盛な正義漢が加わったような人物が登場する | トップページ | カウリスマキの平凡ならざる眼差しは、平和な農民夫婦に都会の悪の手がしのび、家庭が崩壊するという悲劇をとらえながら、夫も妻も、最後には、一種の解放に辿りついている点にある »

2020年8月25日 (火)

ロドルフォにとって、その花束は盗んだものではなく、ミミのためにだけ存在する。

ラヴィ・ド・ボエーム La vie de boheme
1992年
フィンランド

監督、製作、脚本:アキ・カウリスマキ、原作:アンリ・ミュルジェール、撮影:ティモ・サルミネン、音楽:ダミア、セルジュ・レジアニ。
出演: マッティ・ペロンパー、アンドレ・ウィルム、カリ・ヴァーナネン、イヴリーヌ・ディディ、ジャン=ピエール・レオ、サミュエル・フラー、ルイ・マル。 アキ・カウリスマキ監督

アキ・カウリスマキ監督「ラヴィ・ド・ボエーム」(LAVIE DE BOHEME )は1992年の作品。ものの本によれば、監督が構想に15年をかけたのは、アンリ・ミュルジェール(HenriMurger)の原作「ボヘミアン生活の情景」が、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」によって「無残に歪(ゆが)められた」ことへの反発からだそうである。

舞台はパリ。売れない小説家、売れない画家、売れない音楽家の3人の男の自由気ままなボエミアン暮らしを、揶揄・皮肉抜きに、真正面から声援し、愛惜する眼差しが、いかにもカウリスマキらしく、けれんみのないつくりになった。

作品は、3人のボヘミアンをまんべんなく見渡しながら、画家ロドルフォと恋人ミミの物語を中心に据(す)えて展開する。アルバニア人である画家ロドルフォの天衣無縫(てんいむほう)の純真に、天涯孤独のミミはなぐさめられ、束の間の安穏(あんのん)を得るが、「愛だけでは生きていけない」といって、ロドルフォの元を去る。

いったんはロドルフォの元を去ったミミが、再び戻ってくるのには、夏が過ぎ、秋が巡り……。それ相当の時間がかかったのであるが、ロドルフォは、以前とまったく変わりのない態度でミミを受け入れ、しかし、自由気ままな画家稼業の姿勢も一向に変えない。そんなロドルフォにミミは、もう、「愛だけでは生きていけない」とは言えなかった。

ロドルフォの元に再び辿りつくまでに、ミミに何があったのか。映画は、この間のドラマを追わないが、高熱を得て、ミミは死んでしまう。ロドルフォのそばにいて暖かそうに死んでしまう。

作家マルセル、音楽家ショナールは、脇を固めている、といって言い過ぎではない。二人の男は、ロドルフォの理解者である以上に、同じボへミアンである。ロドルフォの身に起こっていることは、痛いほどよくわかるし、ミミとの関係がこの二人に起こっても同じことだといえるほどに、純真であり、気ままであり、自由である。

作品の眼差しは、徹頭徹尾、ボヘミアンの側にある。俗世間の常識の外側にある。ミミの死を看取るロドルフォの手には、他人の墓に手向けられた花束がある。ロドルフォにとって、その花束は盗んだものではなく、ミミのためにだけ存在する。ミミの死を医師から宣告されたとき、だから、ロドルフォはその花束を踏みにじるだけである。

エンディングに、突如、高英夫の歌う日本語の「雪の降る町を」が流れ、サミュエル・フラー、ルイ・マルが友情出演するなどの話題性をも楽しめる作品だが、プッチーニ歌劇の歪曲を糾した解釈の律義さを楽しめる作品でもある。
(2002.12.30)

« フランスのフィルム・ノワール的クールさに、イギリスのアンガー・ジェネレーション的熱情をプラスし、その上に北欧独特の独立心旺盛な正義漢が加わったような人物が登場する | トップページ | カウリスマキの平凡ならざる眼差しは、平和な農民夫婦に都会の悪の手がしのび、家庭が崩壊するという悲劇をとらえながら、夫も妻も、最後には、一種の解放に辿りついている点にある »

191合地舜介の思い出シネマ館2」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« フランスのフィルム・ノワール的クールさに、イギリスのアンガー・ジェネレーション的熱情をプラスし、その上に北欧独特の独立心旺盛な正義漢が加わったような人物が登場する | トップページ | カウリスマキの平凡ならざる眼差しは、平和な農民夫婦に都会の悪の手がしのび、家庭が崩壊するという悲劇をとらえながら、夫も妻も、最後には、一種の解放に辿りついている点にある »