■イヴィカ・マティック監督「遺書―女のいる風景」■メモ3
きょうも、まだ、イヴィカ・マティック監督「遺書―女のいる風景」のことを考えている。思いついたのは、イソップ寓話の
「アリとキリギリス」である。
森林監督官=芸術家がキリギリス、村人たちがアリという図式になぞらえて、この作品を解釈できるのではなかろうか
と思い至った。どこか見覚えのある物語だなあと感じていて、なんだったのだろうなあと思い巡らすうち、ふと、「アリとキ
リギリス」がひらめいたのである。
よそ者であり、素朴絵画の絵描きである森林監督官は、キリギリスとは異なり、森林の管理という仕事をきちんとこなす
官僚でもある。だから、ヴァイオリンばかり弾いていて、冬になって困り果て、アリの宴会に出向いて、食べ物を所望す
るなんて無様はしない。衣食も足り、礼節も知っている大人の男である。絵を描くことが好きであり、そのために村の女
たちを口説いてモデルにするが、「色好み」でそうするわけでもない。
村人たちも、みんながみんな、アリのように炎熱下に働き、冬の備えに躍起になっているわけではない。朝から、アルコ
ールをたしなんでいる者もいれば、後家をたらしこんでいる悪漢もいる。イソップ寓話のような善悪画然としたティピカル
なアリばかりではないのである。
勧善懲悪の映画を作るわけにはいかないし、現代の寓話にするにはさまざまな意匠が要求されるのだから、これは当
たり前である。
森林監督官が象徴するよそ者=中央=近代が、ひとたびは村=地方=封建(前近代)へ受け入れられ、受け入れられ
たと思う間もなく、牛の一突きで呆気なく死んでしまうという骨格が、アリとキリギリスのストーリーと相似形をなしている
のである。
一陣の風のごとく、キリギリスはアリの村を吹き渡っては消え去った。「女たち」のスカートを、一瞬、めくってみせ、村の
男たちの嫉妬や怒りを露わにしてみせ、村を騒がせ、消えて行った。静かな村がいったん生き返り、やがて、元の「死
んだような」村になった。
イソップのアリたちは、冬場の宴会のさなかにふと静まり返り、「キリギリスの音楽が聴こえない」と顔を見合わせ、悄然
(しょうぜん)とするのだが、この映画の村人たちも、「あの人は行っちまった」とキリギリス=森林監督官の描いた絵を
十字架にして葬列を組むのである。
(2001.5.22)
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