パトリシアが抱え込む不安や疑問や苦悩は、その都度、ミシェルの言葉によって、受け止められ、応答され、パトリシアは次第にミシェルを獲得していくのである。
勝手にしやがれ
1959
フランス
ジャンリュック・ゴダール監督・脚本、ラウール・クタール撮影。
ジャン・ポール・ベルモンド、ジーン・セバーグ、ダニエル・ブーランジュ
この映画を見ていない者は「モグリ」だ、などと言うつもりはないが、現代映画の最高峰にあり続けることは間違いない。映画史上の金字塔といえば、ワイダの「灰とダイアモンド」あたりしか、このほかに見出せない。そんなステレオタイプな表現にも耐えうる作品である。
なんというリリシズム!――しばらくぶりに見ての発見。機関銃から飛び出す銃弾のように、ミシェルが紡ぎ出す言葉は、現代のランボーを描き出そうとしたかのようなゴダールの詩性によるものなのか。まったくそんな意図はないのか。どっちでもいいことだが、背中に銃弾を撃ち込まれたミシェルが逃げるラストには、叙情が満ちている。もう少し乾いたイメージを長い間持っていたが、今度見て、そう感じた。そのことは、アントニオーニやトリュフォーらと、決して対立的ではないテーマへの希求を感じさせた、ということである。
小説家が小説とは何かという発問自体をその作品の中で表現しようとするように、映画監督は映画とは何かを映画作品の中で訴えようとする。ゴダールが、この映画で見せた「映画論」は、結末に向かって収斂(しゅうれん)していく物語であり、不可逆な時間の流れに極めて従順だ。それは、作品への多様な解釈を許さない作家の「メッセージ」が鮮明に盛り込まれていることを意味する。その意味で、シンプルと言えるし、モノフォニックとも言える作品である。そして、その色調はリリカルでもあった!
ただ、アントニオーニのような「愛の不毛」ではなく、ここには確実に「それ」が成立していた瞬間がある点が大きな違いである。パトリシアが抱え込む不安や疑問や苦悩は、その都度、ミシェルの「言葉」によって、受け止められ、応答され、パトリシアは次第にミシェルを「獲得」していくのである。もう一歩のところで失ってしまうことになるが、失う寸前にパトリシアはミシェルを「自分のもの」にしたのである。
(2000.10.30鑑賞&記)
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