思い出シネマ(1992~2002)一挙掲載
CINEMA DIARY
(1992~2002)
ファー・ノース
サム・シェパードの監督第1回作品。思わず、声をあげて笑って見た。D・リンチに負けない面白さである。
(1992・9・28)
フランス軍中尉の女
苦しさを紛らすために、「フランス軍中尉の女」を、5、6軒のレンタル店を探して、ようやく見つけ、9時から見る。あまりにも、共鳴できて、余計に苦しくなる。ハッピーエンドがなんとも羨ましいが、メリル・ストリープが「昔の女」と重なり、胸の疼きをかき乱してしまうのだ。
(1993・1・3)
美しい諍い女
4時間バージョンを見る。モデルがさらけ出した真実の顔は、冷淡で非情なものであった。傑作は描かれたが、日の目をみることもなく、永遠に封印されてしまうのである。しかし、少女は、きれいね、という感想を述べたのである。マリアンヌとリズと異なる感想を述べたことの意味は何だったのか。封印することが、登場人物6人の現在の関係を破壊という方向にではなく、深化という方向に行くことを暗示したことに納得できるが、いまいち疑問の残るところである。
(1993・2・1)
赤い航路
ロマン・ポランスキー監督。主役のミミは奥さんのエマニュエル・セイナー。この女性を見たくて観たようなものであった。
(1993・2・7)
氷の微笑
ポール・バーホーベン監督。シャロン・ストーン、マイケル・ダグラス。
きれる女の冷たさともろさ。危なくないと感じない--という感性は買いである。
(1993・2・8)
仕立屋の恋
パトリス・ルコント監督。
「髪結いの亭主」よりは好きな映画である。女に裏切られた男が言う。「僕は君を恨んでなんかいないよ。ただ、死ぬほどせつないだけだよ」。 そして、濡れ衣を自ら引き受けるようにして、刑事から逃亡し、力尽きて、屋根から落ちて死んでしまうのである。 ほんとうにせつない映画であった。
(1993・2・11)
ボヴァリー夫人
1991年、フランス。MADAME BOVARY。愛の遍歴というには、あまりにもあわれな結末であった。クロード・シャブロル監督。
人のいい夫の、変わらない、しかし、平凡で退屈極まりない生き方に、エマは最期まで支えられている。LOVEは、エマをその平凡さからの逃避を誘う。いや、逃避というより、手応えのある生を生きたかっただけである。退屈な日々は、エマを精神不安にさせるだけであったのだから--。
(1993・2・12)
アンナ・カレーニナとほとんど変わらないテーマである。時代背景が異なることくらいが、違う点である。いや、アンナの場合はもっともっとLOVEへの希求が純化されている。アンナはカレーニンと子供との生活を特別に不満を感じていたわけではない。精神的な不安もなかったのだ。好きな男と出会ってしまっただけである。ボヴァリズムと世にいわれるものは何なのか。アンナの場合も最後には、自殺してしまうのだ。
エマを自殺に追いやったものはなんだったのか。男の裏切りか。その時代の社会悪に対して、無垢の情熱が敗北したということか。夫への裏切りを自ら許せなかったということか。いずれでもない感じがある。エマ・ボヴァリーが示した愛の幸福と不幸をどのように読み取らねばならないのか。人は人生になにを求めているのか--という大上段から考えねばならないことなのか。純粋無垢であることの危険を訴えているわけでもないはずである。無垢の情熱を生かすことのできなかった男たちへ、あるいは社会へ、あるいは人間へ、フローベールは説教したかったわけでもない。
シャブロルも同じであろう。かわいい女を描きたかったわけでもない。哀れみを送ったわけでもない。一人の女性の生き方の困難さを通じて、やはり愛の希求のせつなさや美しさや醜さ--人間そのもの、女性そのものを描いた、と言えば、抽象的過ぎるであろうか。きれいごとに過ぎるであろうか。
「仕立屋の恋」と「髪結いの亭主」の話。
「髪結いの亭主」は女性が愛の頂点でその愛を封印してしまう話である。愛の終わりを見たくない女性--髪結いと、それを見てしまった男--仕立屋。
(1993・2・13)
ポンヌフの恋人
レオス・カラックス監督。ジュリエット・ビノシュ、デニス・ラバント。
誠実、野性、純朴の勝利。ただそれだけ。
(1993・2・16)
シティー・オブ・ジョイ
ローランド・ジョフィ監督。
一人を愛するのって苦手で--、相手が大勢のほうがいいの。--ジョアン。
(1993・3.14)
コレット--水瓶座の女
ダニー・ヒューストン監督。マチルダ・メイ、バージニア・マデセン、マリア・クラウス・ブランダウアー。
コレットが成功し、別れた夫と再会したときに言う言葉。やり直せないわ。愛も憎しみも消えたのよ。自由になれたのよ--。
(1993・3・19)
コックと泥棒、その妻と愛人
P・グリーナウエイ監督。
欲望の果ては人食いとなるが、食えない。ピストルを突きつけられ、ようやく食う主人公のアルバート。得も言われぬ表情をした途端、妻の銃弾に倒れるのである。ブラックな暖かみと冷たい笑いがある。暴君の末路の哀れさ。
(1993・3・20)
ハワーズ・エンド
ジェームズ・アイヴォリー監督。アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン、ヘレナ・ボナム・カーター。久々にいい映画。
--力になりたいの。
--では、漕いで。
--だって、私たちそういうやり方はしないもの。
(1993・5・17)
ストレートノーチェーサー
セロニアス・モンクのビデオ。ネリー夫人と、ニカ・ド・ケーニスウオーター男爵夫人に送られる遺体の寂しさと満足そうな表情。
(1993・8・2)
ベティーブルー
ジャン・リュック・ベネックス監督。
2度目になるが、衝撃的な映画であった。ベティーを殺してしまうことに、抵抗感があるが、作品の完結性のためには仕方の無いことかもしれないと思い直す。『タワーリング・インフェルノ』の監督でもあったか--。
(1993・11・28)
7月4日に生まれて
オリバー・ストーン監督。青い海、砂浜、太陽--と、トム・クルーズがメキシコ行きを夢見て言う場面で、ある女性を思い出す。政治から、まったく隔絶されたパラダイスとしての自然。Tはそれを楽しむために生まれてきたような無垢な女性である。
(1993・12・5)
グレート・ブルー
リュック・ベッソン監督。
リドリー・スコットのデュエリストを思い出す。宿命のライバルの友情とその末期の優しさ、悲しさ。ネオ・ヌーベルバーグの旗手の一人ベッソン。ジャン・ジャック・ベネックス、レオス・カラックスらと並んでいる。
(1994・1・14)
愛のあとに
ディアーヌ・キュリス監督。フランスの女流監督。
第一人者的存在とある。生々しい男女関係を、どろどろとは表現しないで、しかし、こじんまりとではなくまとめた、いわば散文精神に貫かれた作品。結婚が離婚の始まりである、というテーマが真摯に追求されていて、ユーモアさえあるところが不思議なリアリティーを感じさせる。
(1994・1・15)
愛を弾く女
1992年、フランス。
エマニュエル・ベアール主演。
名品と呼んでいい映画であった。
独身を貫く男の心理--という見方はあまりにも俗物的だ。不可能な愛--というには、愛そのもののどろどろが描かれていない。では、何なのか。会えてよかった、私もよ--と言って分かれていくラストシーンの哀切さがなんともいえない。抱いて、と言われて、愛していない、と応じた男の心のなかにあるもの。ハードボイルドロマンのヒーローみたいでもある。
監督は何を言いたかったのか--と考えるのは、野暮というものである。映画が十分にそれを語っている。切ない。切ない。それだけの男と女のことがらなのでもない。抵抗しようにもなく生じてしまった、不安定な愛情を、秩序のもとに切り捨てたわけでも、また、ない。ヒントは、男が本当に愛した恩師を安楽死させたという出来事の中にある。理性の勝利を、では、歌い上げたのだろうか。いや、それも違う。
愛情を持たずに、人を殺せるわけがない。また、その夫婦の愛情を、男は理解できている。女は、アルチザンの男とのつかの間の心の交流を経験し、アルチストとしてひとまわり大きくなって旅立ったのだ。やむを得ざる出会いと別離の切なさと優しさ--。人が生きるということの、そう多くはない、儚い交歓の一瞬を、切り取って見せた短編小説のように思われるのである。
バイオリン製作の職人とバイオリン弾きという設定が、いっそうそのテーマを際立たせた。一分の狂いも許されない技術者と、愛を表現しなければならない芸術家の瞬間的な交錯と別離を、愛の視座から見ている。佳品といえよう。それにしても、ロバート・デ・ニーロに似た男優はいったいだれなのか。
勝ち気だが、まっさらな女の子だった--。
だが同時に強い個性を感じさせた。
彼がいてくれないとまるで自分が存在しないみたい--。
抵抗できない。私も努力したわ。でも離れない--。
(1994・2・4)
ゴッホ--謎の生涯
ロバート・アルトマン監督。ティム・ロス、ポール・リース。
小林秀雄のゴッホ論、小川国夫のゴッホ、そして、この映画。19世紀末のパリに受け入れられなかった天才の生涯が、粉飾なく描かれていて、楽しめた。ゴーギャンとの生活が、ゴッホにもたらした精神的破綻は、実際はさまざまに絡む状況があったにせよ、的確に描かれていたと思えた。ゴッホの拙い料理に文句をつけ、自ら作って見せるゴーギャンを、ゴッホは、僕の絵が嫌いなんだ、と察知してしまう場面は、ゴッホの異常性か、鋭い感受性の問題なのかは不明だが、印象的である。
アルトマン・メモ--M★A★S★H/1970、
ギャンブラー/1971、
ロング・グッバイ/1973、
ナッシュビル/1975、
ゴッホ/1990、
ザ・プレイヤー/1992
最新作はショート・カッツ。アメリカ映画界の良心--。永遠の反逆児。
(1994・2・5)
夢の涯てまでも
ビム・ベンダース監督。
豚と天国
1989年、ペルー・スペイン合作。フランシスコ・ロンバルディ監督。三つの階級それぞれの地獄。希望というものが一抹もないペルーという国の一断面。
エンジェル・アット・マイ・テーブル
ピアノ・レッスン
ホリー・ハンター主演。ニュージーランドの女流。ジェーン・カンピオン監督。
嵐ケ丘
ピーター・コズミンスキー監督。ジュリエット・ピノーシュ。ラルフ・ファインズ。シンニード・オコナー。坂本龍一音楽。
壮絶な情念の世界に緊迫したエロティシズムを盛り込む。ヒースクリフが、最後にキャサリンに言う。そばにいてやれ--。ヘアトンのそばに、である。このとき、ヒースクリフの内面には、不思議な変化が起こっていた。アーンショウ家を乗っ取り、これから復讐の刃をヘアトンやキャサリンに向けようとしていたにもかかわらず、その気が失せていったのである。それは間違いもなく、キャサリンの存在であった。キャシーへの愛ゆえに、キャサリンをキャシーと間違えるほどに、錯乱状態にあったヒースクリフの最期は、キャシーとともにあるということで、瞬間的に安らかな顔をしていたのかもしれない。
ヒースクリフはヘアトンに生まれ変わり、キャシーはキャサリンに生まれ変わり、輪廻が起こるかに見えた物語は、コズミンスキー監督によって、再生の物語へと仕立てあげられたのだ。愛と暴力というテーマを、単なる復讐劇に終わらせず、積極的に現代的解釈を施して、原作を損なわずに再構築した。エミリー・ブロンテが生きていたら、そうです、そうです、と頷いたに違いのない名品といえそうだ。
それにしても、俳優の演技の素晴らしさはなんといったらいいか。ヒースクリフを演じたラルフ・ファインズの、眼差しの演技は、映画史上に残る名演の一つと言っても過言ではないだろう。ファインズはシンドラーズ・リストにも出演している。冒頭と結末に出てくるエミリー・ブロンテを演じているのは、なんと、シンニード・オコナーである。
(1994・4・17)
ガーターベルトの夜
ヴィルジネ・テヴネ監督。ジュザベル・カルビ、アリエル・ジュネ、エヴァ・イオネスコ。1984年、フランス。
俳優の実名と役名が同じであった。誠実でうぶで女のいうことを何でも聞く、若い青年アリエル。人生の平穏を嫌い、退屈を嫌い、刺激を求めて、刹那的に生きる女性ジュザベル。好対照の二人は、女性のリードで夜の街へ出かけ、ポルノショップ、ストリップショー、個室ビデオ、ブーローニュの森--そこはいまや健全な恋人たちの愛の語らいの場であるより、オカマ、ホモの溜り場である--などへ出かける。ストリップを見ながら、彼女は青年の背後から、ペニスを掴み、快楽を誘ったりもする。
青年は明日から、友達と給水塔の写真を撮りに行くことになっているが、街への冒険の過程でスリに時計をやられ、オカマには金を財布から抜き取られるなど散々な目にあう。彼女は、かつての恋人フレデリックとホモ関係を結ばせ、青年の金を捻出させようとする。その段取りまでしてやった彼女は、外で青年を待つ間に、恋心に気づくのである。同時に青年にもそれが分かり、愛しいひと、と彼女が立ち去るのを追いかけ、告白する。洒落た作品。青年には、不感症の女性もいる。舞台をパリの現代風俗の真っ只中に設定した。日常的な流れの中に、妙なリアルさの漂う女流監督の作品である。
愛ってなにが大切だと思う。誠実かな。恋愛しているときに誠実になるの。いやね。人生で大事なのはセックスの快楽よ。あるいはほかの場面で、大事なのはセックスだけ。それ以外は妥協よ。もっとも人生なんて妥協だけど。始めは、こういって、瞬間的な快楽を求めることを最高のことと考えていたジュザベールが、青年を頽廃の遊びに案内していくうちに、その深みで見出すもの。実は、それこそ、彼女の心の底に存在した揺るぎないものへの願望であった。退屈なもの、つまりアリエルという青年、男そのものであった。
彼女は刺激的なものに退屈してしまったかのようですらある。それは、彼女が思っていたセックスの快楽とは異なるものであったのか。そのことをアリエルにおいて実現できると感じたのか。彼女は言う。アリエル、どうやら、わたし、恋に落ちたみたい。家に帰りましょう。そして、ジュザベールの部屋で二人は結ばれる。翌朝、サイフから金を盗まれたことに気づいたアリエルを、フレデリックのホモの相手にしようとする彼女。しかし、その前にもう一度セックスを楽しむことも忘れない彼女。段取りがつき、アリエルとフレデリックを残し、外のベンチで待つ彼女を襲う孤独。むらむらと沸き起こる恋心をもう一度確認した瞬間の、苛立ちと揺れ。ベンチに腰かけ、髪を掻き毟る、その演技が印象に残る。 善悪の彼岸のリリアナ・カヴァーニを想起させた。
(1994・4・29)
サム・サフィ
1992年、日仏合作。オーレ・アッテカ、フィリップ・バートレット、ロジー・デ・パロマ。音楽/キザイア・ジョーンズ。
ヌーベル・バーグ。一時は敬遠していたが、見直す。また、ゴタールを見たくなった。吉田がいいと言っていたのは、なんという作品か。
はじめから終わりまで、言葉を書き留めていたくなるような、普通でありながら、含蓄のある台詞に満ちている。映像というより、言葉を感じさせるヌーベル・バーグがあるとは知らなかった。ガーターベルトの夜と合わせて、いいものを見た。
(1994・4・30)
妻への恋文
ジャン・ポワレ監督。
ヒロインはキャロライン・セリエ。監督のポワレの愛人だった。ポワレはこの映画を作ったあと急死したらしい。シエリー・レルミットという主人公は名優。ストーリーに不明の点があるままだが、いつかまた見ることにしよう。
(1994・5・1)
妻への恋文
相棒に助けを借りて、恋文を教会のステンドグラスから投げ落とすところのあたりがわかる。白い船に乗って、君を迎えに来る、と言ったところから、夫はどこかに消えてしまったのである。最後に、ビデオの中の夫に呼びかけられてキスする二人は、再び、海岸で本当に出会い、迎えに来た夫と妻の抱擁シーンに繋がっていった。
結婚15年の夫婦に兆す倦怠。いや、15年も経たずに、愛の冷めるのを極度に恐れる男の、切ないまでに、あるいは滑稽なまでにセンシティブな揺らぎを、妻である女が理解するまでには、時間のかかることであった。夫の側からする、結婚の理想が追求された作品といっていいものか。ジャン・ポワレという監督の意図--。髪結いの亭主と相似形。
(1994・5・2)
エンジェル・アット・マイ・テーブル
ジェーン・カンピオン監督。ラウラ・ジョーンズ脚本。ジャネット・フレイム原作。ケリー・フォックス、アレクシア・キオーグ、カレン・ファーガソン。1990年。
ジャネット・フレイムというニュージーランドの作家の生きざま。フランク・サージソンという作家に助けられ、作家として旅立って行く。才能は誰しもが認める感受性豊かな女性であった。アラン・シリトーが出てくる。原爆が日本に落とされたとき小学生くらいだから、60才を超えたあたりの世代の作家であろうか。カンピオンと同年齢なのかもしれない。アスピリンを飲んで、自殺未遂したことがきっかけになり、精神分裂病と診断される。入院を勧めたのは、彼女が憧れた大学の教師だった。その後、精神病院へ8年間も入っていて、電気ショックを200回以上受けるという過去。あやうくロボトミー手術を受けるところを受賞によって切り抜ける。
社会的には弱者でありながらも、どこかに芯の強さを感じさせる女性。けっきょくは自分を為し遂げていく。ピアノレッスンのヒロインに、自分の内面にある強い意志が怖いと言わせた監督が、1990年のこの作品では、それを前面に押し出すというより、控え目に言っているようである。人の世の悲しさに負けずに、力むというわけでもなく、かといって、気を抜くというわけでもなく、誠実に生きる女性作家の、飾り気なく、ぎこちない姿に拍手と涙を誘われる。
精神分裂病と断定された過去。ことに入院を余儀なくされた8年間の間違いが、後年、親しくなった医者に指摘される。君は病気ではなかった。
書くことにしか、喜びを見出せなくなっていく一人の女性が、書くことを通じて世の中をぎくしゃくしながらも歩いていく。その一見危なげで、しかし、夢を確実に持っている強さに、訴えるものがあるのである。
(1994・5・5)
愛の風景
ビレ・アウグスト監督。イングマール・ベルイマン脚本。サミュエル・フレイソル、ビレニラ・アウグスト。ベルイマンが両親のことを綴った伝記を、「愛と精霊の家」のアウグストが監督した。ヒロインのアウグストは、監督の奥さんか--。
北欧キリスト教伝道に殉じたヘンリックとアンナの紆余曲折の愛。題名の愛は、いわゆる愛だけではなく、キリスト的な愛をも含んでいる。アンナの愛は、いわばマリア的な愛であり、ヘンリックのそれはキリスト教牧師としての愛と受け取れる。終局で、アンナの愛に協調するヘンリック。ベルイマンは、極めて自然に、両親の、特に父のキリスト者としての生き方を捕らえたようだ。いつもはある実存主義的な匂いがないのは、アウグストによるよりもベルイマン自らのアングルであるからであろう。ベルイマンも歳をとったのだ。あるいは、アウグストの老獪さにベルイマンが巻き込まれたのか。
冒頭、祖母への見舞いを懇請されても断るヘンリックの、父および祖母に対する険悪な関係が開示されるが、ついにその理由は明らかにされなかった。父母の不仲をヘンリックは、母との生活を選ぶことで決着をつけたのだろうか。父に付かず、祖母に付かなかった理由は、明確にはわからない。父が母離れを出来ず、その父に反発した息子ヘンリックが母に付くことで、また母から離れることができなかったのか。そういうマザーコンプレックスを、父ヘンリックも解決できなかったということをベルイマン/アウグストが言いたかったとは思えない。子供は母に付くものなのだ。そのあたり、批判がましくは描いていないのがいい。
(1994・5・11)
オープニング・ナイト
ジョン・カサベェテス監督/144分。1978年、アメリカ。ジーナ・ローランズという女優。ベン・ギャザラ。ピーター・フォークも出ている。
アメリカ映画を変えた男--という触れ込みのように、熟成を感じさせる。大人が見れるというか、芸術性に富むアメリカ映画の初めての作品といっていい。 グリーナウエイやリンチやリドリー・スコットらとは明らかに異なる。ハートにこたえるアートフィルムの誕生。
ヒロインのマートルが求めてやまなかったもの。演技ということのリアリティーと、生きることのそれとの、裏腹の無い関係というようなことか。
(1994・6・19)
こわれゆく女
カサベデス監督。A WOMAN UNDER TEE INFLUENCEを借り、見る。INFLUENCEとは、介入とか余計な世話とかいった意味であろうか。
(1994・6・20)
タクシードライバー
マーチン・スコセッシ監督。ポール・シュレーダー脚本、ロバート・デ・ニーロ。ジュディー・フォスター。
タクシードライバーの出口なき憤怒は、12才の売春少女を救うことに目的化されていくが、やや甘いか。ニューヨークの風俗がリアルである。
(1994・7・1)
プロスペローの本
ピーター・グリーナウェイ監督をレンタル。
すべては夢と同じもので作られている--。絶望があるだけだ。祈ることしかない、罪の許しを乞うのだ--。
(1994・7・4)
日曜日が待ちどおしい
フランソワ・トリュフォー/1983年、フランス。遺作となった作品。ファニー・アルダン、ジャン・ルイ・トランティニャン。
アルダンの魅力をもう1度体験したかった。理知的であり、セクシーであることが、どこからきているかというと、やはり目であった。あんな目と目を合わせてしまったら、いちころになるに決まっている。微笑を漂わせた眼差し--。それにやられてしまうのだ。
(1994・7・7)
戦慄の絆
デービッド・クローネンバーグ監督/DEAD RINGERS/1989年を見る。
ジェレミー・アイアンズの一人二役。一卵性双生児である兄弟が一人の女優を巡る性的関係の中で、自我の独立、分離を意識し始めてから、自己破壊していく。クローネンバーグらしい前衛的テーマ。悲劇的結末。セックスシーンが刺激的。ベッドに血圧測定用らしきゴム紐で女優の両手だけを縛りつけ、下半身は自由にさせたまま、ファックする婦人科の医師。めいっぱい開かれた女の股は、分娩のポーズとファックのポーズが、同じであることを主張している。
その分娩台のシーンが随所に出てくるが、すべて医学的であるより、エロティックなイメージをそそのかされる。ヒロイン・ヘレナの女優は、美人ではないが、エロティックであるのは、先日、前を歩いていた見ず知らずの女のセクシーさが、ボディーラインや歩き方や目線にあることをあらためて発見したことと繋がっている。エブァ・コタマニドウというギリシアの女優が、狩人というテオ・アンゲロプロス監督作品でみせた想像上のファックシーンも、そうだった。盛りを過ぎた女のセクシーさということでもある。
(1994・7・10)
ふたりのベロニカ
クシシュロフ・キェシロフスキー監督。
もうすぐロードショー公開される「トリコロール/青の愛」は、ジュリエット・ビノシュの主演である。それを見るために、これを見た。ふたりのベロニカ、トリコロール3部作の音楽は、1955年ポーランド生まれの、ズブグニエフ・プレイスネルである。トリコロールは、青、白/ジュリー・デルビー主演、赤/イレーヌ・ジャコブ主演の順で見るべしと雑誌にコメントされている。
ベロニカはワインを飲みながら見たせいで、さっぱり感動を覚えなかった。気合いが入らなかった。映画を見るときは、心しなければならない。まして相手はビデオである。
(1994・7・11)
ハイヒール
アタメのペドロ・アルモドバル監督。
立木寛子さんが感激していた作品。イントロでJAZZが流れる。デーヴィスのスケッチ・オブ・スペインに似ているがだれの演奏か。坂本龍一が音楽を担当している。母と娘の愛憎入り交じった関係は、最後に、母親の犠牲で幕を閉じる。死期の迫った母親が、娘の殺人の罪を肩代わりする。ハイヒールは、幼い娘が母親が帰ってくることを待ち続けることのシンボリックな表現であると同時に、母親自身と外界との関係を示すシンボルである。
(1994・7・19)
ハモンハモン
ビガス・ルナ脚本・監督。ペネロペ・クルス、アンナ・ガリエラ。1992年、スペイン。
カルメンの情熱的世界を思わせる男と女の恋狂いの世界。性的なるものの不思議さ。シルヴィアとラウラのスタンディングファック。ラウラ、ホセルイスとシルヴィアのおっぱいタッチなど、セックスシーンが、洗練さとは違った野卑なリアリティーがある。 ペドロ・アルモドバルと同世代か。
(1994・7・22)
軽蔑
ジャン・リュック・ゴダール監督。1963年、フランス。ブリジッド・バルドー。ミシェル・ピコリ。
ユリシーズを題材に映画を作るという設定で進行する。フリッツ・ラングが監督し、主人公のポールが脚本を書き、プロヂューサーが内容に干渉するという関係の中で、ポールの妻カミーユがプロデューサーとキスし、心を許していくが、交通事故で死んでしまう。ポールとカミーユは、ユリシーズとペネロープの関係にパラレルである。ユリーズとペネロープの不仲の原因を、ポールの優しさと裏腹にある弱さを本人自身が気づかず、妻カミーユが気づいているというパラドックスとして捕らえている。テーマの軽蔑はこのあたりのことをいっているのであろうか。それにしても、冒頭、バルドー/カミーユが素裸で足の指から髪の毛から、一つ一つからだの部分を恋人に好きかを尋ねていくシーンは可愛らしく、素敵である。
(1994・8・4)
紅夢
1991年、香港・中国合作。ベネチア映画祭銀獅子賞。中国、香港、台湾--中国圏映画界の俊英が結集。張芸謀監督。鞏俐。何賽飛/ホー・ツアイフェイ。曹翠芬/ツアオ・ツイフェン。周埼/チョウ・チー。孔琳/コウリン。金淑媛/チン・スーユエン。丁惟敏/ティン・ウエイミン。
台湾映画界のニューウエーブ侯孝賢/ホウ・シャオシェンがエグゼクティブ・プロデューサー。中国の女優のセクシーさに感じる。
内容は、腹が立つほどの封建的な時代の男の横暴と女たちの悲劇。金持ちが4番目のめかけ--夫人を迎えるところから始まる。第4夫人の反抗的態度と第1夫人の息子への恋心を軸にして、第2夫人の、菩薩の顔をしたさそり的暗躍、召使いの悲惨な死、第3人の密通発覚と暗殺、そしてついに第4夫人の錯乱--。そこで終わらず、第5夫人の輿入れの場面で終わるというストーリーは不気味なほど陰惨である。それは、浄化という装置を拒否した中国的な、あまりに中国的なリアリズムといっていいだろうか。
まるで、史記列伝の世界である。精神的葛藤を描写せず、ほとんど丸裸のエゴを剥き出した、あざとく、浅ましく、えげつないまでに悲しく弱い人間が登場する。監督の意図だろうが、即物的な捕らえ方だ。キリスト教的精神の美しさが微塵もないことに、ある意味で、カルチャーショックを受ける。
(1994・8・31)
菊豆(チュイトウ)
1990年、日中合作。張芸謀/チャンイーモウ。「紅いコーリャン」、「ハイジャック」に続く第3作。第5世代。カンヌ映画祭ルイス・ブニュエル賞。
ミケランジェロを引き合いにして、監督は、政治でないことを描く宣言をしている。ビデオのカバーで。原作の農家を染物屋に設定し直しているのは、赤、青、黄などの原色の鮮烈なイメージを打ち出したかったからだ、ともある。人間の心の色は、確かに、鮮烈なのである。灰色だけであるわけがない。そのあたり、リアリズムから表現主義へ移行するイタリアのネオ・リアリズムに似ている。
鞏俐(コン・リー)のなんとセクシーなこと。女性アスリートの持つ魅力にさらに磨きをかけた感じ。李保田(リー・パオティエン)。セックスシーンもある。それも、変態爺に折檻されるシーンはSM的である。山口百恵を思わせる、どこか男を小馬鹿にしたような、挑発するようなサディスティックな表情がたまらない。映画でもサディズム丸出しで、ひひ爺を嬲るシーンがある。紅夢で召使いを殺してしまう役柄も同様である。怒りを顕にするのは、ヨーロッパの女性もそうであるが、ときに幻滅させるものがあるが、ときにマゾヒスティックな欲情を駆り立てるものである。ぼくの好きな女性のイメージには、これがあり、このほかに、茶目っ気たっぷりの笑顔がなければならない。
(1994・9・1)
世にも怪奇な物語
ルイ・マル、ロジェ・ディム、フェデリコ・フェリーニによるオムニバス。身が入らず、感動しない。
(1994・9・5)
夜
ミケランジェロ・アントニオーニ監督。マルチェロ・マストロヤンニ/ジャンヌ・モロー/モニカ・ビッティ。
倦怠期にさしかかった中年夫婦がそれぞれに浮気心を禁じ得ず、危ういところで一線を保っている。しかし、確かに過去にはあった強い愛はいまやないことを知っている。若き日に妻に宛てた恋文を、妻が夫に読んで聞かせる最後のシーンは印象的。あなたをもう愛していない。あなたもあたしを愛していない。愛していないって言って。言うもんか。二人は抱き合ったまま、もつれる--。
今朝目覚めたら、君は眠っていた。眠りから覚めながら、君の優しい寝息を感じた。君の顔にかかる髪を透かして、君の閉じた目が見えた。いとおしさで、息苦しい程だった。僕は叫びたかった。疲れ切った君を、揺さぶり起こしたかった。薄日の中で君の腕や喉が、生き物のように見えた。君のその肌に、唇を寄せたかった。だが眠りを妨げない様に、僕は君を腕の中に、抱きはしなかった。僕だけの君をそっとしておきたかったからだ。永遠に君の像を。君の持つ清らかさが、僕をも清めてくれた。君は僕を包んでくれた、僕の全生涯を、僕の未来を。君に出会う前の、何年間までも包んでくれた。それは目覚めの奇跡だ。その時僕は、君は僕のものだと感じた。今も寄り添って寝る夜も、君の血の温かさや考えや意志が僕に溶け込む。その時、君に深い愛を感じ、僕は感動の余り、目に涙さえ浮かべるのだ。僕は永久に変わらぬと思った。毎朝、同じ目覚めの奇跡を感じると思った。君は僕のものだけではなく、僕の一部だ。これを崩すことは何ものにもできない。ただ日々の習慣が冷酷にも、これを崩すかと不安だ。その時君が目覚め、微笑んで僕に接吻した。僕たち二人の間には、何の不安もないことを確信した。僕らの絆は時や習慣より強い事を--。
(1994・9・11)
愛と宿命の泉
クロード・ベリ監督。エマニュエル・ベアール、イブ・モンタン、ジェラール・ドパリュデュー、ダニエル・オートウイユ。原作マルセル・パニョル。
クロード・ベリは、今秋公開の「ジェルミナル」の監督であることを知る。「ジェルミナル」はハリウッドに対抗してフランスが総力を結集して作ったエミール・ゾラ原作の文芸大作。
ビレ・アウグストの暗さが無く、古典大作としてのスケールの大きさに圧倒される。自己完結的で、謎を残すようなところもなく、歯切れ良い展開。それだけに、物足りなさが残るといえば、贅沢であろうか。典型的人物が典型的な行動を起こし、因果が巡るという予定調和の世界。不条理や実存や破綻--がない。
(1994・9・14)
郵便配達は2度ベルを鳴らす
ボブ・ラフェルソン監督/1981年/ジャック・ニコルソン、ジェシカ・ラング。鮮烈なファックシーンが3度ある。ジェームス・ケイン原作/1934年。テイ・ガーネット、ルキノ・ヴィスコンティの作品もある。
満たされぬ人妻に燃え上がる性的欲望をえがいた古典だ。暴力と性のテーマも斬新で、気負いがない。『俺たちに明日はない』のボニー&クライドを想起させられた。こちらは、クライドが不能という設定だが、性的なるものというテーマでは変わらない。ジェシカ・ラングがセクシーぷんぷん。ミュージック・ボックスの知性はどこへいったのか、と言いたくなるくらいにセクシー。もっとも、ミュージック・ボックスのほうが最近作であるが--。
(1994・10・27)
ひまわり
ビットリオ・デ・シーカ監督。ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ、リュドミラ・スベーリエワ。
再会後のシーンがけっこう多いことに気づく。ひまわりの満面にさくロシアの野原の下には、イタリア、ロシアの兵隊からロシアの庶民の屍を埋まっている。夫アントニオを探して、その野原にたどり着いた妻は、ロシア娘と平和な家庭生活をおくる夫を見て、汽車に飛び乗る。このシーンで作品は終わらない。今度は、アントニオがかつての妻を訪ねるが、一夜を共にすることになりそうな瞬間、赤ん坊の声で踏み止どまるというシーンで終わるのだ。
(1994・10・28)
さらば、わが愛
陳凱歌監督
(1994・11・14)
つめたく冷えた月
リュック・ベッソン監督。
死体相姦--ネクロフィリアがテーマ。回想の中で、その一刻一刻を追い上げていくリアリティーがある。犯罪者が見たものを、映画ならではの手法で階間見せてくれる。大江健三郎が、文学ノート/性的なるもので展開していることを想起させる。
(1994・12・10)
ワーグナーとコジマ
ペーター・パツアック監督/1985/フランス・ドイツ合作。
鹿島とも子にそっくりの女優ターチャ・セイト?が、コジマの役。ワグナーは、オットー・ザンダー。ニーチェがコジマに恋慕し、アリアドネとしてひそかに崇めた。以下は、そのニーチェが作曲した譜面をコジマに捧げようとして断られるシーンでの独白。
--アリアドネーは、勇気と知恵と愛の力でテーセウスを迷宮から救った。テーセウスはそのお礼として、アリアドネーをナクソス島へ。だが、テーセウスは小さな島の暮らしに物足らず、アリアドネーを裏切り、捨て去った。一人ぼっちの彼女に、虎のように荒々しい神、ディオニュソスは言った。アリアドネーよ、お前は謎に満ちている。お前自身が迷宮だ。だが、私は神だ。お前に迷わされることはない。神は彼女の耳にささやいた。私がお前の迷宮だ--。
ニーチェの出てくる映画は、リリアナ・カブァーニの善悪の彼岸とで2本目。ニーチェは、コジマ-ワーグナーとの三角関係の破綻の後、サロメ-ルーとの三角形を作り出したということになる。こちらは、永遠の三角だが--。
(1995・5・21)
愛と精霊の家
ビレ・アウグスト監督。「ペレ、愛と宿命の泉」の監督。
母クララを追想する娘の目を通して、父の生涯を時代とともに描いている。ジェレミー・アイアンズ、メリル・ストリープ、グレン・クロースほか。保革逆転劇とクーデターに揺れる架空の国だが、ギリシアを思わせたり、アルゼンチンを思わせたりする設定である。
(1995・5・22)
CINEMA DIARY(2000~2002)
許されざる者
1959年、アメリカ
ジョン・ヒューストン監督、アラン・ルメイ原作、ベン・マドウ脚本、フランソワ・ブラナー撮影、ディミトリー・ティオムキン音楽。
バート・ランカスター、オードリー・ヘプバーン、オーディー・マーフィ、ジョン・サクソン、リリアン・ギッシュ
昨夜、「許されざる者」をテレビで見た。クリント・イーストウッドのあれではない。オードリー・ヘップバーンとバート・ランカスターのあれである。といっても、ピンとこないだろうな。この2つの映画は、制作年に60年代と90年代の違いがあるし、内容も全然、異なる。
西部劇である。もう見ることはないと思い込んでいた西部劇を、懐かしさに駆られて見た。懐かしさというのは、ぼくが、劇場映画を単独で見た初めての映画が「許されざる者」だった、という意味であり、中学2年のときだったから、すでに40年ほどの時間が流れる遠い昔のことを意味する。
オードリー・ヘップバーンの可愛らしさに触れ、バート・ランカスターやオーディー・マーフィーの「拳銃使い」の技に熱中した思春期。以来、学期末試験の終わりの日に、映画館に通う習慣がつき、しばらくすると、試験日に関係なく、週日にも渋谷、新宿のロードショーにせっせせっせと足を運んだ。映画鑑賞クラブなるものを立ち上げ、ブロマイド集めにも精を出した。高校生になり、ATGがスタートすると、西部劇から足を洗い、もっぱらヨーロッパのアートフィルムに走った。この話は、長くなるから打ち切るけれど、映画の魅力にとりつかれたきっかけが「許されざる者」だった、というわけさ。
今度、40年ぶりに「再会」して、映画を好きになった理由がわかる気がしたのは、この作品に込められた「精神性」を感じてのことだ。当時は、「インディアン」だったはずが、今回、「先住民」と訳された字幕が、付け焼刃の差別語刈りとは感じられなかったのもその理由の一つだが、ジョン・ヒューストンという監督の「まっすぐな正義」みたいなものが、全編を通じて流れていると思えたからでもある。
ハッピーエンド&ウェルメイド・ストーリーの映画にも、気高い精神性や心あたたまる人間の魅力といったものがある。それは、スペインの巨匠ルイス・ブニュエルが、「アメリカ人のことを思う度に涙が出てくる」と回想する「善なるもの」と同じものなのかもしれない。
(2000.11.28記)
クレイマー、クレイマー
1979年、アメリカ
ロバート・ベントン監督。
ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープ 期せずして、10年ごとの映画になった。「許されざる者」「真夜中のカウボーイ」「クレイマー、クレイマー」は、50年代、60年代、70年代の、それぞれ末期に作られた映画、それもアメリカ映画である。
「クレイマー、クレイマー」は、「思秋期の妻」が自立し、夫と子どもから離れて自活し、難なくそれに成功したうえ、子どもの養育権を奪還する裁判でも勝利するが、夫の変貌(=自立的生活)を見て、改めて夫と子どものいる生活へ引き返す(ことを暗示して終わる)までを描いたハッピーエンディング=ウェルメイド・ストーリーである。
ダスティン・ホフマン演じる夫の、自己変革のプロセスが目新しいといえば目新しいが、特別に立派な行動だとも思えない男性から見れば、なんていうこともないストーリーである。70年代末の男の自立なんて、せいぜいこの程度のものであった、と後世、苦笑を誘うに違いのないのんきな自立なのだ。
ワーカホリック(仕事馬鹿)にはチクリとくるのかもしれないが、仕事ができる人間が、こうも容易(たやす)くクビになるようでは、アメリカ社会は相当甘っちょろい世界だということになる。逆に言えば、ダスティン・ホフマン演じる有能な会社員は、ちっとも有能ではなかったのに、有能であるように設定した無理が、この映画にある。だから、有能社員とボスとの軋轢が、絵に描いたようであり、漫画的であり、リアルさがない。
できの悪い社員が女房に逃げられ、子どもを養育しながら、自己改革し、しかし会社を解雇され、食うために、子どもに犠牲を払いつつ、新たな仕事に就き、その上、逃げた女房から、養育権裁判を挑まれ、敗れ、それでもめげない――。そんな、映画にしてほしかった。
(2001.3.25記)
真夜中のカウボーイ
1969年、アメリカ
ジョン・シュレシンジャー監督。
ダスティン・ホフマン、ジョン・ボイト、ブレンダ・バッカロ
テレビで放映され、30数年ぶりに見た。その頃、都会の真中で暮らしていた。60年代末に、アメリカ・ニューヨークと東京の違いは措いておいて、リアルに共鳴するものがあった。それは、「どん底」とか「底辺」とか「フーテン」とかといった、現象的意味を有する以前の、「青春」とか「若気」とか「友情」とかの水準で成立する出会いのことだ。
ぼくたちは、ネズミ(=ラッツィオ)だったし、各地の「カウボーイ」たちが続々と新宿・渋谷へ上京してきた時代であった。
フロリダへのバスの中、ラッツィオがこときれる直前に失禁してしまうシーンがある。そこで、カウボーイが語る言葉のやさしさを、ぼくたちは、「無力」と片づけることはできない。
(2001.3.25記)
ダンサー・イン・ザ・ダーク
2001年、デンマーク
ラース・フォン・トリアー監督・脚本。
ビョーク、
カトリーヌ・ドヌーブ、
デビッド・モース、
ピーター・ストーメア
主人公セルマ(ビョーク)が、ジェフに問われて、答える言葉が、この映画のカギだ。ジェフは、こう問うた。「子どもに(失明が)遺伝するのがわかっていて、なぜ、産んだ?」
セルマは、「にっこりして」(毅然という意味合い)答える。「赤ん坊を抱きたかったの、この胸に」、と。
やりたいことをやる。生まれたからには、やりたいことをやる。その肯定(ウィ)の思想が、ここにある。絞首刑のシーンは、この思想、このウィへの無理解だ。この無理解への、痛烈な批判が、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のメッセージなのであろう。
(2002.1.20記)
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- 思い出シネマ(1992~2002)一挙掲載(2020.08.04)
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