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2020年8月 8日 (土)

ブリジッド・バルドー演じる脚本家・ポールの妻カミーユが、濃いアイラインを強調した巨大な目で、夫に軽蔑の眼差しを送るシーンが、こ・わ・い。怖い。恐ろしい。

軽蔑
1963
フランス

ジャン・リュック・ゴタール監督・脚本、アルベルト・モラヴィア原作、ラウール・クタール撮影、ジョルジュ・ドルリュー音楽。
ミシェル・ピコリ、ブリジッド・バルドー、ジャック・パランス、フリッツ・ラング

「勝手にしやがれ」(1959)と「気狂いピエロ」(1965)の間に撮った、ゴタール初の「オールスター商業大作」。モラヴィアの原作を選び、ブリジッド・バルドーや巨匠フリッツ・ラングをキャスティングするなど、「金」(かね)がかかったらしいが、そんなこととは無縁にゴタールの「地」が出ている感じがある。

モラヴィアの小説に、オデュッセウスの比喩があるのかどうか、不明を恥じるばかりだが、映画「軽蔑」の基調にはゴタール特有の韜晦(とうかい)あるいは衒学(ペダントリー)として、オデュッセウス(ユリシーズ)論が置かれている。それを、映画の中の映画監督役であるフリッツ・ラングに語らせるという趣向をとりつつ、主役の脚本家ポールとその妻カミーユの関係、ことさら妻の夫への「軽蔑」に目を向けるのである。

ブリジッド・バルドー演じる脚本家・ポールの妻カミーユが、濃いアイラインを強調した「巨大な目」で、夫に軽蔑の眼差しを送るシーンが、こ・わ・い。怖い。恐ろしい。身の毛がよだつ。このシーンを見るだけで、この映画は鑑賞されたことになる、といってよいくらいである。

この眼差しを、言葉のプロである夫の脚本家が気がつかない。モラヴィアの原作では、どのように表現されているのか、たとえ表現されていたとしても、言葉の海、散文という「全体性」の中では、ごく限られた一節に過ぎないであろう。映像は、それを一瞬にして、1コマのうちに捉えてしまうのである。

映画は、カミーユが、プロデューサー・プロコシュの誘いに応じて、カプリ島ロケ現場をモーターボートで去り、プロコシュの愛車である真紅のアルファ・ロメオでアバンチュールがはじまる途端、タンクローリーと衝突して、2人とも即死する場面で終わる。

軽蔑される(愛されない)理由の分からない男への、憐憫(れんびん)や不倫への断罪などといった「意味」をここに見出すのは早計というものであろう。そう早合点するのは勝手であり、そのように見る観客へのサービスもないとは言えないが、ゴタールはあくまで映像の実験にこだわり続け、文学(=言葉)をそのために援用するスタンスを保つのだ。

とはいえ、脚本を自ら書き下ろすことは変わらず、限りなく文学に近い映画を、「軽蔑」でも撮ったということは否定できない。ヨーロッパ人の「父」であるオデュッセウスを下敷きにして、妻と夫、女と男の「愛」に迫ったのも、今世紀最高の小説「ユリシーズ」(ジェームズ・ジョイス)への対抗意識の表れであるかも知れない。

<メモ>作品中の監督役フリッツ・ラングが語るユリシーズ観。カプリ島ロケの合い間にラングは脚本家の質問に答える。このシーンを書いているのはゴタールである点に注目しておこう。

「ユリシーズの性格を変えるなんてバカげている。神経症の患者じゃない。彼は、素朴で、狡猾で、大胆な人物なんだ。」
(おもしろい考えですね)
「帰国するまでに10年かかっている。」
(戻りたくなかったんだ。論理的です)
「非論理が論理に反するのは論理的と言える。コルネイユのシュレナの序文だよ。祖国イタカへの帰還を急がなかったのは、妻との不幸な生活のせいです。トロイ遠征の以前から2人の間はうまくなかった。」
(幸福なら遠征しません)
「戦争を口実に妻を避けたんだ。」
(だが、妻への求婚者を次々と殺したよ)
「それは説明できます。最初ユリシーズは、求婚者は放っておけと妻に言います。彼らが真剣に言い寄っていると思わず、醜聞を恐れ、追い払わなかった。彼は妻の貞節さを知り、求婚者の親切を許すのです。この瞬間、ペネロペイアは単純な女なので、彼を軽蔑します。夫の態度ゆえに愛せなくなった。ユリシーズはこのとき、自分の慎重さによって、愛を失ったとやっと気づく。妻の愛を取り戻すには求婚者を殺すしかない。死は結論とはなり得ない。」

(2000.11.11鑑賞、11.15記)

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