晩年のニーチェが奏でる悲しみのピアノ旋律
ルー・サロメ 善悪の彼岸
1977年、
イタリア・フランス
リリアーナ・カバーニ監督、アルマンド・ナンヌッツィ撮影。ドミニク・サンダ、エルランド・ヨセフソン、ロバート・パウエル
ニーチェは、神の死を猛々しく宣言したのではない。そんな当たり前のことが理解されていないことが不思議でならないが、カヴァーニの視線は、ルーを共感をもって、というか、ほとんど同位置に立って、眺めることに成功している。ニーチェ晩年の孤独を、これほどにリアルに描き、ピアノの音色をかくも悲しみに満たしたのも、神の死が悦ばしいことがらなのではないことを知っているからであろう。
(2000.3.5記)
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