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2020年8月27日 (木)

「もだえ」その1 ベルイマン1944年のニーチェ

もだえ
1944年
スウェーデン

「もだえ」(イングマール・ベルイマン脚本、助監督)には、ニーチェが2度、語られる。前半の、同級生サンドマンとヤーンが、劇場映画を見た後、コーヒーを飲みながら話す場面で、ちょっとした人生観を語り合う時が1回目。

サンドマンが、今見たばかりの映画のように、「山ほどの食い物と酒。2週間、部屋から出ない、ひたすら食って、女と寝るだけの生活」がしたいと話すと、ヤーンは、「快楽主義者だな。僕は違う。毎日、文章を書き、バイオリンを弾いて過ごす。恋人もほしいけど」と応じる。

ヤーンは、一人でもいいから、心から愛せる女がほしいと、理想を語るのだが、そのヤーンの純心をからかうように、サンドマンは「ニーチェいわく”女は魔性の存在”。 ストリンドベリイも」と、汚れなき乙女なんていやしないことを、諭(さと)す。

2回目は、エンディングに近い場面。ベッタの葬礼のシーンで、サンドマンがヤーンに、「前に、ニーチェのこと話したよな。”女は魔性だ”とか。考えが変わった。お前のおかげだ」と語るのである。

ベッタという女性の生と死を見たサンドマンは、考え方を改めるのである。この考え方は、この作品の眼差しの大きな要素であるようだ。

北欧キリスト教の強い影響を受けたベルイマンが、無神論者ニーチェを批判するのは当り前なのかもしれないが、女性=魔性でニーチェやストリンドベリイを持ち出すところは、ピントが外れた。わかりやすくていいのだろうが、ニーチェ誤読の種が散らばりかねない。「ベルイマン1944年のニーチェ」ということになるだろうか。
(2003.1.4)

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