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2020年8月 7日 (金)

文学性は豊穣であるが、映像と拮抗し、拮抗の果てに映画の中に後退していくといってもよい。

気狂いピエロ
1965
フランス

ジャン・リュック・ゴタール監督・脚本、ラウール・クタール撮影、アントワーヌ・デュアメル音楽。
ジャン・ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、サミュエル・フラー、レイモン・ドボス

ピエロは現代のランボーなのだろうか。

日本の年代でいえば、「勝手にしやがれ」は60年安保、「気狂いピエロ」は70年代安保の時代ほどの年代差を経て制作されたが、両者は同じ路線での作品だ。異なるところといえば、カラー作品である「気狂いピエロ」が、カラーであるゆえに、より多くの「ノイズ」を映像の中に取り込んだという点、「勝手にしやがれ」の手法がより洗練され、より振幅を広くしたという点などであろう。

ストーリー性を前面に打ち出さず、フェルディナン(ピエロ)とマリアンヌの言葉のやりとり、身振りのやりとり、行為のやりとりの「密度」で押してゆく手法も、両者は同様である。「気狂いピエロ」の場合の「密度」は、フェルディナンとマリアンヌ、ジャン・ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナという虚構と現実の2人の言葉=感性と知性によってもたらされる。「勝手にしやがれ」のジーン・セバーグよりも、「気狂いピエロ」のアンナ・カリーナのほうが、より撮影現場でのアドリブを生成し易かったことにも注目しておきたい。

「気狂いピエロ」におけるゴタールの引用は多岐にわたり、引用された言葉だけをたどっていけば、あやうく「学問芸術博覧会」の様相を帯びるが、そうはいかない。あくまで、映像へのデザイン、コラージュという技法に包含されていく。文学性は豊穣であるが、映像と拮抗し、拮抗の果てに映画の中に後退していくといってもよい。

ベラスケス、ボードレール、ルノアール、モジリアニ、夜はやさし(スコット・フィッツジェラルド)、スタール、ウィリアム・ウィルソン、ピカソ、ゴッホ、ロバート・ブラウニング、ジョイス、ジュール・ベルヌ、「ペペル・モコ」、コンラッド、スティーブンソン、ジャック・ロンドン、フォークナー、レイモンド・チャンドラー、「カッサンドラ」、そしてランボー。

ぼくが、理解できた引用だけでも以上の通りだ。暗喩や象徴を含めれば、観客が見過ごしてしまう引用は、ほかにも多量にあるだろう。これらに、足を掬(すく)われないで、フェルディナンとマリアンヌの「愛」の行方を凝視し続けることのほうが、困難である。その上、2人は、観客に語りかけてくるではないか。

だから、「見つけた。何を。永遠を。それに海を。そして太陽を。」(地獄の季節)と、ランボーに収斂しておかないと、作品自体が危うくなったのではないか。これで、ひとまず、映画であり続けたのではないか。

文学・哲学・美学、絵画、ドキュメンタリー(戦争・政治)などの「混沌」を抱え込み、いま一歩というところで難破しかねない寸前の地平に立って、「気狂いピエロ」は、映画史の「新しい波」(ヌーヴェル・バーグ)として定着した。

マリアンヌがフェルディナンから逃亡するモーターボートのデッキで、男と交わす濃厚なキスにかっとくる観客は、その少し前のシーンで交わされた2人の会話に戻ってみたい。

フェルディナン:君は1人で待っている。そこへ僕が後から入ってくる。君にとって僕は、以前から存在し、苦悩している。つまり、僕を思って生きる君がいれば、それで生きている僕がわかる。
マリアンヌ:あなたは言葉で語る。わたしは感情で見つめてるのに。
フェルディナン:君とは会話にならない。思想がない。感情だけだ。
マリアンヌ:違うわ。思想は感情にあるのよ。

終局でフェルディナンがダイナマイトで爆死するシーンは、「勝手にしやがれ」のリリシズムは消えうせ、リアルな狂気に満ちている。
(2000.11.3鑑賞&記)

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